溢れども 2
部室の壁掛け時計をちらりと見上げると、緑間は椅子から腰をあげた。
きっちりと着られた制服は、既に何分も前からその様相を整えられていた。
トイレに行ってくると出ていったきり、高尾は戻ってきていない。
緑間の足は一番近いトイレに向かっていた。
いつも通りの会話ののち、ぱたりと口を閉ざした高尾のことが気になったのだ。
急に調子が悪くなったのか。
もしくは。
自分の言った何かが高尾の気分を害したのではないか。
高尾はうるさいくらい話しかけてくるのが常であった。
しかしさっきは、目を合わせることもなく出ていった。
おまけに「先に帰ってもいい」という念押し付きだ。
もちろん勝手な思い違いならばなかったことにするまでの事なのだが、どうにもしっくりしないのだ。
そうこう考えている間に、目的の場所にたどり着いた緑間はその形のよい眉をぎゅっと寄せた。
とても明るいとはいえない時間帯ではないのに、電気のついていないそこは薄暗かった。
居ないのかとも思ったが、覗き込めば、一番奥の個室の扉はしっかと閉ざされていた。
「…っ、」
トイレの入り口から高尾、と声を掛けようとした時、奥から息を詰めるような声が聞こえてきた。
泣いているような、声だ。
そっと足を踏み入れて扉をノックしようと持ち上げた手は、ぴたりと止まった。
「……しん、ちゃん………っ、う」
中にいるのが高尾だと分かるには十分だった。
“真ちゃん”。
緑間をそう呼ぶのは高尾しかいないのだから。
扉のむこうで泣いているのは、高尾だ。
それも、自分の名前を呼びながら。
必死に押し殺そうとして、それでも堪らず漏れる泣き声。
その声は緑間の胸に爪を立てた。
「………」
声をかけようと開いた口を、しかし躊躇うように再び閉じる。
軽く握られた手はゆっくりと下におりた。
ここで声をかけても、高尾は誤魔化す。
顔を見られることはない。いくらでも隠せるのだから。
弱いところを見せたがらない奴なのだ、結局のところ。
高尾和成という男は。
この1枚の壁が、高尾を隠している限り、逃げるだろう。
だが…それならば。
緑間は高尾の篭っている個室に背を向ける。
足音なく静かな足取りでその場を後にした足は、しかしすぐに止まった。
トイレを出てすぐの壁際で、緑間は息を吐いた。
逃がす気は、ないのだよ。
小さく、本当に小さく呟かれた言葉は、本心だった。
自分の名を呼んで泣いている高尾を、放っておけるわけがなかった。
これで放っておいて、壁をつくられるのは我慢できないのだ。
離れていってしまうのは、…耐えられないのだ。
あいつはきっと、隠そうとする、逃げようとするだろう。
でもそれならば…自分が捕まえる、それだけのことだ。
俺の目から逃れられない、壁のない場所で。
あいつの目を、見て。
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続くとか、どういうことなの。
あと1話で終わるはず。
12.06.23
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