Sleeping Forest 2






臨也は今日も池袋徘徊していた。幸いと言うかなんなのか、今日は天敵に会わない。いや、今日もか。
最近いやに見掛けなくなった。毎回毎回会うわけではないが、さすがに一度も会わないのは多少気持ちが悪い。何と言っても相手にはレーダーがついていて、自分が池袋にいると結構な頻度で喧嘩を売って来るのだ。
会わない、と言うことは原因は二つ。相手が忙しいか、避けられているか、だろう。
しかしいくら忙しいと言っても相手の仕事は池袋を歩き回るものだし、遭遇が皆無なのはおかしい。となると、避けられているのか。
臨也には喜ばしいことなのだが、気分が悪い。
八年にも渡る因縁は相当なものだ。相手が自分に抱いている憎悪や嫌悪は理解してもいた。そうなるように仕向けたのは自分だ。
確かに憎悪の対象は無視が一番だろうが、あれはそんなタイプではない癖に。
あの目。
最後に会った時のあの目を思い出す。あれは臨也を見ている癖に見ていなかった。なんなのだろう、あれは。あんな目をして見られたのは初めてだ。
臨也は苛々して舌打ちをする。
何とかしなくてはならない。あれが自分を無視するだなんて許されない。あの男のきつい眼差しで睨まれるのを、臨也は存外に気に入っているのだ。




最近、静雄は眠る事が増えた。少しでも時間があると居眠りをする。
仕事が空いて少しでも時間が出来ると新羅の家にやって来た。新羅の家のソファーで、今もすやすやと寝息を立てている。
『静雄は大丈夫なのか?』
セルティが心配そうに新羅を振り返った。手は優しく静雄の頭を撫でている。
「うたた寝に恋しき人を見てしより、夢てふものは頼みそめてき」
新羅は手にしたペンをくるくると回しながら、セルティに向かって微笑む。「って和歌があるようにさ、静雄は今眠るのが楽しいんだろうね」
『あまり良い事ではない気がするが』
「まあもう少し様子を見ようか。…と言うかセルティ、頭撫でるなら僕も撫で…いてててっ」
セルティの拳がグリグリと鳩尾に繰り出される。
『静かにしろ!静雄が起きる!』

そこへインターホンが鳴った。


「おや。久しぶりだね」
新羅が出て見れば旧友の一人が気怠そうに立っていた。いつもの眉目秀麗な顔で。
「静雄がいるけどいいの?」
新羅が問うと、途端に表情を曇らせる。
「あはは。今寝てるから大丈夫だよ」
どうぞ、と新羅は臨也を招き入れた。
臨也はそれに不機嫌な顔のまま従う。
リビングのソファーで眠る静雄と、付き添っているセルティに片眉を吊り上げた。
「シズちゃん具合悪いの?」
「まさか」
「だよね」
静雄が病気など有り得ない。
「静雄は今幸せな夢を見てるんだよ」
ふふ、と新羅が笑う。
静雄は酷く穏やかな顔をしていた。長い睫毛は伏せられ、いつものきつい眼差しはない。時折体をぴくりと震わせる。まるで擽ったがってるみたいに。
「なに、幸せな夢って」
臨也は眉を顰めるが新羅は答えない。ただにこにことするだけだ。
「ん…」
静雄が身動ぎする。
「臨…也…」
微かにそう呟いた。ふわりと金髪が揺れる。口許が緩んだ。どうやら微笑んだようだ。
「…君の夢みたいだね?」
新羅が笑って言うのに臨也は固まった。
「なんでシズちゃんが俺の夢を見るのさ」
「それは多分静雄自身に聞いても分からないんじゃないかな」
カチカチとペンを指で動かしながら新羅は答える。「夢ってのは自由自在に見るのは難しいし、本人だって分からないと思うよ」
静雄は再びすやすやと静かな寝息を立て、微動だにしなくなった。
「きっと夢の中の君は静雄に優しいんだろうね」
不機嫌そうな顔の臨也に、新羅はぽつりとそう言った。



夢の中の存在は触れたり抱きしめられたりするだけだったのに、最近は口づけられるようになった。
シズちゃん、今日も逢えたね。
ああ、違うね。
夢でしか逢えないんだったね、俺達。
臨也は笑う。その端正な顔をにっこりと。
現実の俺と代われたらいいのに。
シズちゃんと一緒にいたいなぁ。
俺ならシズちゃんを愛してあげられるのに。
シズちゃんとずっとずっと一緒にいてあげられるのに。
臨也はそう言って口づけてくる。柔らかな唇の感触。
もうどちらが現実か分からない。
優しく髪を撫でる手。甘く囁く声。
静雄はそれらが全部心地好くてうっとりと身を任せている。夢に溺れているのだ。



静雄がゆっくりと瞼を開くのを、臨也は向かいのソファーに座って見ていた。
セルティは自分の頼んだ仕事で居なくなり、新羅はコンビニに行ってしまった。
他人の家に眠れる獅子と二人きり。今その獅子が目覚めようとしている。
静雄は涙を流していた。緩やかに雫が頬を伝って落ちる。
臨也は少し驚いたが、目を逸らして見なかった振りをした。静雄の為ではない、自分の為に。
静雄は体をゆっくりと起こし、手の甲で涙を拭った。寝起きのせいか、まだぼぅっとしている。
頭を振り、髪がばさりと音を立てた。そして額に手を当てて、臨也を視界に捉える。
臨也は視線を逸らしたままだったが、静雄が息を飲んだのが分かった。
「臨也…」
名を呼ばれ、臨也は視線を向ける。静雄は不思議な表情をしていた。戸惑いや怯え、そんな負の感情。
「どんな夢を見てたの?」
臨也は冷たく目を細めた。
静雄がじっとこちらを見てくる眼差しは何だか悲しげだ。恐らく比べているのだろう。夢と、現実の臨也を。
「…何で手前がここにいるんだよ」
静雄は臨也の問いには答えず、きつく睨んで来る。先程までの穏やかな寝顔とは随分な差だ。
「別にシズちゃんに会いに来たわけじゃないよ。俺には俺の用事があるんだよね」
臨也は溜息を吐いて頬杖をつく。「まさかシズちゃんが居るなんて思わなかったけど」
「帰る」
臨也の言葉を遮るようにして、静雄はソファーから立ち上がった。
「逃げるの?」
臨也がそう言うと、ぴくっとその動きが止まる。振り返った静雄の顔は、いつもの不機嫌な表情だった。
「逃げるって何だよ」
「現実の俺からは逃げるのに、夢には随分ご執心みたいだね?」
「……」
静雄は黙り込む。酷くばつの悪い顔をしていた。臨也の言葉が真実だからだろう。
「何回も見てるんだって?」
新羅から聞いたよ、と臨也は口端を吊り上げる。
「…好きで見てるんじゃねえよ」
「でも好きで寝てるんだろう?」
夢を見たいが為に。
臨也は立ち上がって静雄に対峙した。静雄が真っ直ぐに睨んで来るのを、正面から受け止めて鼻で笑う。
「シズちゃんがそんなロマンチストだなんて思わなかったよ」
臨也は腕を伸ばし、静雄の手を掴んだ。静雄の目が僅かに驚きで開かれる。
「夢の俺はどんな風に君に触れたのかな?どんな言葉を囁いた?キスでもされたかい?もしくは抱かれたりした?シズちゃんはそれに何て答えたの?流されて甘受しちゃったりしたの?ああ、気持ち悪いな。俺は滑稽だよ。まさか夢の中の存在相手に、」
嫉妬するなんて。


静雄の目が更に見開かれた。臨也の言葉が理解できないらしく、暫くぽかんと見詰め返して来る。
「夢になんて頼らないでよ」
臨也は静雄を掴む手に力を入れた。
「その前に俺に言うことがあるんじゃないの」
「……」
静雄は丸い目でじっと臨也を見詰めている。臨也は赤い双眸を細めた。
「シズちゃん。俺、」

シズちゃんの事が、





どさっと。
突然静雄がソファーに倒れ込んだ。
「シズちゃん?」
臨也が慌てて静雄に近寄る。ソファーの傍らに跪いて様子を見ると、静雄は寝息を立てて寝ていた。
臨也は面食らう。
「暗示が解けちゃったみたいだね」
ふと声がして振り返れば、新羅が白衣にレジ袋を下げた姿で立っていた。笑顔で。
「暗示?」
「暗示。催眠かな」
「…詳しく教えて貰えるかな?」
臨也は眉間に皺を寄せて新羅を見た。
「どっから話そうかな」
新羅はソファーに座り、ふぅ、と溜息を吐く。
静雄はまだソファーですやすやと寝ていて、その肘掛けには臨也が腰を掛けていた。
「静雄は君のこと、好きだったんだよね」
新羅は口元に笑みを浮かべて話し出す。
臨也は眉を顰めただけで、何も言わない。その手は隣で眠っている静雄の髪を優しく撫でていた。
「でも、相手は君だしさ、自分では認めたくなかったんだろうね。自覚したとしても告白なんて有り得ないし、かなり精神面に負荷がかかっていたと思うよ。だから、」
それを忘れる催眠をかけてあげた。
新羅は手にしたペンを、くるっと回して見せる。
「…どう言うことかな?」
臨也の片側の眉が吊り上がる。それは明らかに不機嫌な態度で、新羅は肩を竦めた。
「セルティに頼まれてね。静雄が辛そうだから何とかできないかって」
新羅はその時の事を思い出す。セルティはとても悲しんでいた。親友が辛そうなのに何も出来ない、と。
「本来そう言うのは自分で気持ちに踏ん切りをつけて、自分で何とかしなくてはならない。けど僕は知っていたからさ」
ここで新羅は一旦黙り込んだ。ペンをくるくると手で回しながら。
「…僕は知っていたから。君も静雄が好きだってことを」
「……」
臨也は唇を吊り上げた。何を思っての笑みか、新羅には分からない。
「正確には君からは執着、静雄からは依存を感じていたかな。好意とは違うかも知れないけれど、それはまあ君達の問題だから」
ふふ、と新羅は笑いを返す。静かな部屋の中で静雄の寝息だけが聞こえた。
「夢は全くの予想外。多分催眠で無理矢理抑制された感情が出て来たのかな。静雄は精神面でも規格外だから」
「何で催眠が解けたの」
「静雄は精神が本当に強くてね、なかなか掛からないんだよ。だから毎日ここに来てこれを見せることで上書きしてた」
新羅はペンをテーブルに置いた。真っ白なボールペン。
「もともと解けかかっていたのと、君の言葉だろうね」
「……君、いつから帰ってたの?」
臨也が訝し気に新羅を見遣る。
「静雄が起きたぐらいから」
あはは、と新羅は悪びれずに笑った。臨也は思わず手の平で目を覆う。この自分と同じ歪んだ性質を持つ旧友に、深く溜息を吐いた。
「俺としてはシズちゃんに催眠なんて掛けた新羅を一発ぐらいは殴りたいところだけど?」
「そのお陰で告白できたんだからいいじゃないか」
新羅は眼鏡をかけ直すと肩を竦める。
「…ん」
ソファーに寝転がる静雄が身動ぎをした。覚醒が近いのだろう。
新羅はボールペンを白衣のポケットに入れて立ち上がる。
「僕は別室に引っ込んでるから、再度告白するといい。静雄は夢のことはもう覚えてないだろうから」
新羅は笑ってそのまま出て行ってしまった。後に残された臨也は忌ま忌ましげに舌打ちをする。
「いつか新羅には何か仕返さないとなぁ…」
臨也は独り言を呟きながら、静雄を見下ろした。長い睫毛がぴくりと揺れて、ちょうど静雄の瞼がゆっくりと開くところだった。
「おはよう、シズちゃん」
臨也は優しく微笑む。
「臨也…?」
静雄はまだ寝ぼけていて、何度も瞬きを繰り返す。


「突然だけど、シズちゃん。俺さ、」


(2010/08/25)
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