溢れる。





きゅっと蛇口を捻って水を出した。
じゃぶじゃぶと水しぶきを盛大に上げながら、両手をゴシゴシと洗う。排水溝に赤い血が流れてゆくのを、静雄は俯いて見ていた。
爪やささくれの箇所にも血はこびりついて居て、洗う指に力を込める。
ゴシゴシゴシゴシ、と何度も何度も手を洗った。洗いすぎて白い手が赤くなってゆく。もう既に血なんて取れているのに、静雄はいつまでもいつまでも手を洗っていた。
「滑稽だね」
後ろから声を掛けられて、静雄は漸く手を止めた。
顔を上げれば鏡越しに目が合う。折原臨也。静雄がこの世で一番大嫌いな男。
「そんな必死に血を洗い流してさ」
「…うるせえ」
静雄は唸るように言い返し、蛇口を止めた。
「手前なんでここ居るんだよ。授業中だろ」
「それはお互い様だよねえ?」
臨也は学ランのポケットに両手を突っ込んで、肩を竦める。
「俺は君が下らない不良相手にどこまでやれるか見ていたくてさ」
いつまで殺さずにいられるか。
臨也が最後まで言い終わらないうちに胸倉を掴まれた。
「どうせ手前の差し金だろ、毎回毎回うぜえんだよ」
「俺はきっかけを与えてるだけに過ぎないよ。元々は君が相手に恨まれたり、羨まれたりしてるだけさ」
「うるせえ」
吐き捨てるようにそう言って、静雄は臨也に殴り掛かる。が、拳はあっさりと宙を描いた。寸前で臨也が後ろに避けたのだ。
「いつか人を殺しそうだよね、君は」
あはっ、あはははははははっ。臨也は大きく笑ってトイレから走り去って行く。
静雄は追い掛ける気も起きず、握った拳を目の前の鏡に叩き付けた。鏡は粉々に割れ、破片がパラパラと床に落ちる。
せっかく洗った手が再度自身の血で赤く染まり、静雄はまた舌打ちをした。


「君は確かに体は丈夫だけどさ」
鏡の破片を一つ一つ取り去って遣りながら、新羅は言う。「自分の馬鹿力でやったらさすがに傷付くよ」
静雄の体に傷を付けられるのは静雄自身なのだ。
それでも血まみれになった右腕は大分傷が塞がり始めていたけど。
静雄は何も言わず黙って治療されていた。
右腕を新羅に預け、左手で頬杖をついて教室の窓から空を見ている。
飛行機雲が空を真っ二つに分けていた。その雲もやがて青空に溶け込んで消えてゆく。あんな風に自分もいつか消えられるだろうか。
「終わったよ」
声を掛けられて見れば、右腕にはきっちりと包帯が巻かれていた。
「大袈裟だろ」
「大袈裟な方がいいよ」
新羅は笑って救急箱をしまい込む。
「ところでさっきの話だけど」
「さっき?」
「臨也の話」
静雄の眉間に深く皺が刻まれるのを見ながら、新羅はペットボトルのお茶を取り出した。左手には紙コップ。
見ててね、と言って、新羅は机に置かれた紙コップにお茶を注いだ。
溢れそうになるギリギリのラインまで注ぎ、静雄を見遣る。
「これが今の君の状態」
「あ?」
意味が分からずに首を傾げる静雄に、笑いながら新羅はまたお茶を注いだ。
ギリギリだったそれは紙コップから溢れ、机を汚してゆく。
「これが臨也が言う状態」
「…だからなんだよ?」
新羅は紙コップを持ち上げてお茶を啜った。
「君は臨也がいる限り、絶対にこの状態にはならない」
「…?」
静雄はますます眉間に皺を寄せる。新羅の意図が掴めずに苛々しているようだった。
「分からない?」
「……」
「例えお茶が溢れてもこんな風に、」
新羅はハンカチで溢れたお茶を拭き取る。「臨也が後始末をしてくれるよ、きっと」
「…あいつが見張ってんのは俺を止める為だって言うのかよ」
「僕の推測だけどね」
新羅はくすりと笑った。臨也は好きな子ほど虐めるタイプの人間だから。
ズズ、と新羅がお茶を啜る音が、誰もいない教室に響く。
静雄はまた空を見上げた。
飛行機はいつの間にか消えている。まるで最初からなかったように。
「…お前の推測が正しいなら、あいつは相当馬鹿だろ」
「そうかもね」
静雄が溜息を吐くのを見ながら、あははと新羅は笑った。
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