ぼんやりと目を開くと白い天井が見えた。
静雄は目を何度か瞬いて、自分は今ベッドの上にいるのだと確認する。
指先を動かしてみる。ぴくりとそれは動く。投げ出した足も。何か薬を盛られたわけではないらしい。
顔を動かし、部屋を見回す。ベッドしかないシンプルな部屋。一目で高級なマンションだと分かる造り。
もうこれだけで誰の部屋か見当がついてしまった。大体自分に何かするなんて、あの男しか有り得ないのだけれど。
静雄はいつものベストを着ていないことに気付いた。ワイシャツにスラックスだけの格好。ワイシャツは胸がはだけられている。
サングラスが見当たらない。煙草も。
それにチッと小さく舌打ちをした。
ベッドから身を起こすとスプリングが揺れる。音はしない。きっと高級なんだろう。大の男が三人ぐらい寝れそうな大きさだ。
意識すればあの男の匂いがする。香水の香り。自分にも染み付いている気がしてウンザリした。静雄はそれを考えないようにし、薄暗い部屋をそろりそろりと扉まで歩いた。
カチャ、と小さな音がして扉が開く。そういえば今は何時なんだろう。携帯がないと分からない。
廊下は部屋よりは明るかった。足元にオレンジ色の仄かな明かり。
玄関の前を通り掛かり、静雄は少し悩んだ。このまま帰ってしまいたい。けど、携帯やサングラスがないままだ。
静雄は仕方がなく、帰るのを諦めて廊下の奥の扉を開けた。一般的にはリビングとなる部屋。確か事務所として使っている、と聞いたことがあった。
中は薄暗く、パソコン数台のディスプレイがチカチカとスクリーンセイバーを映し出している。部屋の中心に真っ黒の大きなソファーがあって、静雄はそれに近づいた。
そこには案の定、折原臨也が丸まって寝ていた。いつものあの赤い目は閉じられ、厭味ばかり言う口からは今は寝息しか聞こえない。
テーブルの上に静雄のバーテン服と携帯、サングラスなどが置いてあった。
静雄は上着を着て、それらをポケットに入れると寝室に戻る。そこから掛け布団を持ってきて、臨也に掛けてやった。
そのまま踵を返そうとすると腕を掴まれ、静雄はバランスを崩す。あ、と驚きの声も出ないまま、どさっと臨也の上に落ちた。衝撃はなく、緩やかに臨也の腕に抱き留められる。
「起きたの?」
臨也の赤い目が、静雄を見上げていた。
「シズちゃん酔って寝てたんだよ。公園でさ」
「…覚えてねえ」
「そうみたいだね」
臨也は薄く笑う。
「離せよ」
静雄は身を起こす。臨也は手を離し、静雄の好きにさせた。
「わざわざ新宿まで連れてきたのか」
「シズちゃんちに行くより手間がかからないでしょ、俺が」
語尾をわざと強調して臨也が言うのに、静雄は舌打ちをする。
時計を見れば終電なんてとっくになくなっている時間で、タクシーで帰ろうか悩む。
「このまま泊まっていけばいいじゃない」
静雄の考えが分かったのだろう。臨也がソファーから身を起こす。
「嫌だ」
「えー。つまんないなぁ」
即答する静雄に片方の口端を吊り上げて、臨也は髪を掻き上げた。「これから一緒にお風呂入らない?」
「死ね」
静雄はうんざりしたようにそう言って、眉間を手で押さえた。俺は人生で何度、こいつに死ねと言っているんだろうか。そしていつこの願いは叶うんだろう。
「昔さぁ、一緒にお風呂入ったよね」
覚えてる?
臨也がそう言って笑うのに、静雄は拳を振り上げた。即座に身を翻されて、拳は空を切る。
「俺んち壊さないでよ」
「手前と風呂なんて入ったことねえよ」
「入ったじゃない。修学旅行で」
「そんなの覚えてねえ」
ケラケラと高い声で笑う臨也に、静雄は蹴りを入れようとするが、それも避けられる。
静雄は一応気を使っているのか、家具を投げたりはしなかった。
「ねえ、シズちゃん。俺もうひとつ思い出したことあるんだよ」
臨也の言葉に静雄は眉間の皺を深くする。
「シズちゃんをベッドに下ろしてさ、ワイシャツのボタンを外してて…思い出したんだけど」
その言葉の先が見当がついて、静雄は段々と真っ青になっていった。思い出したくない記憶が少しずつ甦って来る。ぞわぞわと腕に鳥肌が立った。
臨也はそんな静雄を見て唇をニィと歪ませる。
「シズちゃんは覚えてたんだ?そうだよねえ、シズちゃんの方はきっと痛かったもんね?俺だけすっかり忘れてたんだなぁ。あの時はお互い凄い酔ってたもんね。…ねえ今までなんで言わなかったの」
「…何言ってんだよ」
静雄は否定の言葉を口にしながら、無意識のうちに一歩下がった。
臨也はそれに楽しそうに笑いながら一歩近付く。
静雄は臨也の赤い双眸を見てやっと気付いた。
臨也はどうやら怒っているらしい。それもかなり。
「シズちゃんは俺が覚えてなくてホッとした?最初はビクビクしてたんでしょ?俺が覚えてるのに黙ってるんじゃないかとか。自分からは聞けなかったのかな?…だよねぇ。言えないよねぇ。だってまさか、」
俺に抱かれたなんてさ。

静雄はまるで目の前が真っ暗になったかのような感覚に陥った。ふら、と体が揺れるのに臨也の手が腕を掴む。
静雄は怯えた目で臨也を見た。臨也はそれにくすりと笑みを返す。
「まさか今頃になって思い出すと思わなかったでしょ?」
臨也の言葉に静雄は唇を噛んだ。静雄は今でもあの時のことを鮮明に覚えている。熱い吐息も、滑らかな肌も、優しい愛撫も。
「6年も前なのにね」
そう言った臨也の声は自嘲めいたものだった。静雄は目を閉じる。
「別に、もう昔のことだし。…今更思い出したってなんにもならねえだろ」
そう言って、自分の腕を掴んだままでいた臨也の手を、ゆっくりと外した。
「シズちゃん」
名を呼ばれて目を上げれば赤い双眸とぶつかった。
「もう一度抱かせてよ」
静雄の目が見開かれる。耳を疑った。
「酔ってない状態で抱かせて」
臨也の顔は至極真面目で。
「馬鹿なこと言うな」
そう答えた静雄の声は掠れて震えていた。
「俺、夢に見たことがあるんだよね」
臨也は唇を歪め、困ったような顔で話し出す。
「シズちゃんを抱く夢」
薄暗い部屋で、臨也の声とパソコンの稼動音だけがする。
「シズちゃんの肌は白くってさ。傷ひとつないの。俺の名前を何度も熱く呼ぶし、顔は赤くて色っぽいし、喘ぎ声も死ぬほど可愛い。中もめちゃくちゃ気持ち良くてさ。俺は起きると勃起してる」
省電力モードにしているのだろう、パソコンのモニターが突然暗くなった。それに併せて部屋が更に暗くなる。
「夢なんかじゃなくてあれは現実にあったんだなって今は思うけど、夢を見た当時は凹んだよ。男を、それもシズちゃんを抱く夢を見るんだよ。正直俺頭おかしくなったんじゃないかと思ったね。それも何回も見るんだ」
臨也は肩を竦めると、口端を歪めた。部屋は暗過ぎて殆ど表情は見えないのに、静雄には臨也が自嘲しているのが分かった。
「だから抱かせて確かめさせてよ」
「そんな必要がどこにあんだよ」
静雄はきつい眼差しで臨也を睨む。頬が少し熱いのは怒りからか羞恥からか、自身でも分からなかった。
「そんな6年も前のこと、今更蒸し返して何がしたい?忘れてたならそのままで良かったんだ」
ああ、うぜえ。やっと忘れかけてたのに、今頃なんで黒歴史が掘り起こされるんだろう。あの時の自分は死ねばいいのに。
臨也はじぃっと静雄を見返していた。薄暗い部屋で、全身真っ黒な格好をした男は、目だけが赤い。
「帰る」
そう言って静雄は踵を返す。今日、今ここにいることを後悔した。臨也には忘れたままでいて欲しかったのに。
「シズちゃん」
臨也は静雄の肩を掴んでこちらを強引に向かせた。
驚く静雄にそのまま唇を重ねる。薄く開いた唇から舌を侵入させ、両手で静雄の顔を掴むと口づけを深くした。
「ん…っ」
上顎を舐め、舌で口腔内を蹂躙して、飲みきれない唾液が静雄の顎を伝って落ちる。
静雄は両腕を突っ張って押し返そうとするが、力が弱々しく、しがみつくみたいになっただけだった。
「ん、んっ」
息苦しくなって抗議の声を上げた静雄に、やっと臨也は唇を解放する。
時間にしてほんの1、2分だったのに、静雄はもう長い間口づけられていた気がした。
静雄は唇を手の甲で拭うと、臨也を平手打ちした。
臨也は驚いて目を見開く。
「…あの時は、キスとかしなかった、だろ、…」
静雄は顔を真っ赤にしてそう言い、生理的な物であろう涙がぽろりと頬に落ちた。そしてまだ驚いている臨也を残して部屋から飛び出して行く。
臨也は多分加減して殴られたであろう頬を押さえ、静雄が外に出て行く音を背を向けたまま見送った。
「…まいったな」
あんな風に顔を赤くして、あんなにも可愛いだなんて思わなかった。
唇もいやに甘く感じた。漏らす声も、潤んだ目も。
「あー…クソ…」
臨也は目元を手の平で覆う。忘れてた自分に悔しさが込み上げる。もしも覚えていたら、きっと今の関係は変化していたはずだ。あんな夢だって見ていなかっただろう。
そして自分は今、自覚してしまった。
きっと今の自分の顔は赤くなっている。
「クソ…」
今日は眠れそうにない。



(2010/08/21)
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