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体が離れ、温もりが去ってゆくのに目を細めた。
行ってくる、と言い残して彼は扉から出て行く。振り返らずに。
静雄は馬鹿みたいに玄関先にずっと立っていた。


三年ぐらい海外に行くことになった。仕事で。


突然家にやって来た天敵はそう告げた。
静雄はへえ、と答えた気がする。へえ、海外か。
だから何だと思った。勝手に行けばいい。俺には関係ない。お前がどの土地で野垂れ死のうが、知ったことか。
そう思うのに口には出なかった。静雄はただ黙っていた。
黙り込んだ静雄に、臨也は突然口づけた。衝撃でフローリングの床に尻餅をつくと、そのまま押し倒された。
乱暴にワイシャツを脱がされて、肌を晒された。ベルトを外され、ジッパーを下げられても、静雄は抵抗をしなかった。
固い床の上で、大嫌いな天敵と体を重ねた。
シズちゃん、と嫌な呼び名で呼ばれるのにも気にならなかった。
熱に浮されたように互いの名を呼んだ。いざやいざやいざや、と何度も。
背中に腕を回し、痛みや快感に堪える。エアコンがついてるのに、体は火照って熱い。
何をしているんだろう、自分たちは。
八年にも渡る因縁の中で、家に入れるのも、口づけをするのも、体を触れ合わせるのも、何もかも初めてだった。


待ってて欲しい。
と言われた。
何を、とは声にならなかった。
臨也は静雄に優しく口づけて、待ってて欲しいともう一度言った。
静雄は黙っていた。何を言えばいいか分からなかった。
やがて臨也は服を着て、来た時と同じく出て行った。行き先は言わず。





あれから三年が経ったけれど、臨也は帰って来なかった。
それから更に時は過ぎて、静雄はもうすぐ三十路だ。どっかで殺されたんじゃないかとか、病気と闘っているんだとか、様々な噂が流れたけれど、そんな噂も最初の一年ぐらいだけだった。人々は常に新しい話題を求めてゆく。
待ってて、なんて言葉が胸に刺さったまま、静雄だけが時に取り残されて行った。


静雄は新羅の家で、本日何回目かの欠伸をした。
「そんなに眠いの」
新羅は笑って静雄にコーヒーを差し出す。甘いカフェオレ。歳を取っても味の好みは簡単には変わらない。
「最近寝れなくてな」
カフェオレを受け取りながら、静雄はまた欠伸をする。
「不眠症かい」
「そんなんじゃねえよ」
多分、と付け加えて笑う。医者相手に変な会話だ。
窓が開いているのか、風がどこからともなく吹いて静雄の髪を揺らした。
新羅はそれを見て目を細める。
「静雄の金髪姿も長いなぁ」
「そろそろ戻すかな」
「へえ。なんでまた」
「歳だし」
「…同い年なんだけどね?」
新羅の言葉に静雄は笑った。
こんな風に静雄が穏やかに笑うようになったのは、ここ数年のことだ。一番キレさせる原因の相手が居ないと言うのはこんなにも変化があるのだな、と新羅は少し驚いている。
臨也が居なくなる前に何を静雄にしたのか新羅は知らない。けど、静雄はまるでの魔法がかかっているかのように昔と外見が変わっていなかった。
きっと臨也は静雄に何か魔法をかけたのだ、と新羅は思っている。呪縛と言った方がいいかも知れない。
それが金髪をやめる、だなんて。魔法が切れかかってきた証拠だ。
臨也を待つのやめたの?
なんて聞けなかった。いつ帰って来るか分からない相手を待つなんて、非合理的だ。
会いたくても会えない相手を待って何になるのだろう。
「明日染めて来るかな」
静雄はぼんやりと窓の外を見ていた。空は恐ろしいくらいに青い。
「そうだね。きっと似合うよ」
窓から入り込む風は少し熱く、新羅は目を細めた。



静雄は煙草を燻らせながら、ゆっくりと歩いていた。
カツカツと革靴が音を立てる。サングラスを外し、ポケットに入れた。
髪の色を変えようか、と思ったのは単なる気まぐれだ。
もう十年以上この色だったし、来年の1月で三十路だし、もうそろそろ落ち着こうかと思っただけだ。
でもひょっとしたら心のどこかで、もういいかなとも思っていたかも知れない。
もういいか。
静雄は目を細めて煙を吐く。
待っててと言われて、待つと言う行為がどんなものか分からない。静雄はただ毎日を普通に過ごしていただけだ。別に何もしていない。
けれど待っててと言う言葉は静雄の心にずっと刺さっていた。
誰が待つものか。なんで待たなきゃいけない。そんな風に思うのに、ずっと忘れられない。
もういいか。
ぼんやりともう赤い空を見上げながら、静雄は煙草を口に銜える。もう忘れてしまおう。あんな男のことなど。
ぐしゃっとと煙草を揉み消して、静雄は街を歩く。
バーテン服もそろそろやめようか。もうずっと着ている。
金髪にバーテン服。池袋最強のトレードマーク。そんな称号は静雄にはどうでもいい。
静雄が歩く。周囲の空気が変わる。羨望と恐怖。関わってはいけない、そんな言葉が囁かれる。もう慣れっこだった。

「シズちゃん」

雑踏の中で声がして、静雄は立ち止まった。
こんな風に自分を呼ぶのは、この世界でただ一人だ。
こんな、嫌な愛称で。
空耳だろうか。呼ばれるはずのない声を聞くなんて。
「シズちゃん」
もう一度呼ばれた。今度ははっきりと。
静雄は振り返る。
雑踏の中で、真っ黒な服装の男が立っていた。眉目秀麗な顔に笑みを浮かべて。
静雄の目が驚きで丸くなる。
「臨也」
「久しぶり」
臨也は全く変わってなかった。まるで昔のまま。
厭味ったらしい笑みも、酷く端正な顔も。
犬猿の二人が対峙しているのに、周囲は誰も気付かない。数年の歳月は危機感を風化されていた。
「…その呼び方やめろって言ってるだろ」
静雄はちっと舌打ちをする。
「まだ化け物みたいなあの力はあるのかな?」
ポケットに両手を突っ込んで、臨也は口端を吊り上げた。
ぴくっと静雄の体が動く。
「まだ暴力で全てを解決しようとしているのかな?」
臨也は嘲るように笑う。アハハハッと高い声が響いて、周囲が何事かと二人を見ていた。
ガシャンッ。
臨也が今まで立っていた箇所に、自販機の残骸が転がった。周囲が悲鳴を上げる。
静雄は外れたことに舌打ちをする。当たれば良かったのに。
「シズちゃんがそう簡単に変わるわけないか」
臨也は笑って踵を返した。軽やかに雑踏を走り抜けて行く。
「イザヤぁっ!」
静雄はそれを追い掛けて走る。昔の池袋の日常。
周囲が驚いたように二人を見る。昔から池袋にいる者なら誰しも知っている風景。
その時のダラーズの掲示板には折原臨也が帰ってきた、と大騒ぎになっていた。




ああ、クソッ。
静雄は悪態をつく。
あの男は昔と変わらずにすばしっこい。あっという間に見失ってしまった。
何年経とうが天敵は天敵で、静雄の神経を刺激する。本当に腹が立つ存在だ。
ハァ、と息を吐いて、静雄は額の汗を拭った。
帰ってきたのか。
今まで何をしていたとか、何故こんなに時間が経ったとか。疑問に思うことは多かったけれど、どうでも良かった。
またこうやって苛つく日々が始まるのかと思うとうんざりする。
待ってて、なんて言ったのは気まぐれだったかも知れないし、あの最後に会った日のことは忘れた方がいいかも知れない。
ち、と静雄はまた舌打ちをした。
煙草をポケットから出して口に銜える。火をつけようとZippoを取り出すと、突然後ろから伸びてきた手に腕を掴まれた。
後ろに引っ張られて、ポロリと口から煙草が落ちる。
驚いて声を上げる前に、きつく抱きしめられた。
臨也に抱きしめられているのだ、という認識をする前に、体は勝手に臨也の背中に腕を回していた。
「…臨也?」
「シズちゃん」
余裕がない、掠れた声。
少し体を離して顔を覗き込めば、赤い目がじっと静雄を見つめていた。
「待たせてごめん」
そう言われて、静雄の心臓がドキンと跳ねる。
赤いその目を見ていられなくて、目を逸らした。
「会いたかった」
そう言われて口づけられる。後頭部に手を回されて、何度も何度も角度を変えて、深く深く口づけられた。
じわり、と胸に切ない何かが広がって行って、静雄はぎゅっと目を閉じる。
舌は余裕なく静雄の口腔内を這い回り、飲みきれなかった唾液が顎を伝って衣服に落ちた。
このまま死んでしまいたい。
静雄は酸素不足の頭で考える。
このキスで死ねたなら、自分はきっと幸せだと思う。
長かった口づけが終わると、静雄は息苦しくて眩暈がしていた。
「シズちゃんは?」
目を上げれば臨也の真摯な双眸とぶつかる。
「…なにが?」
「俺に会いたかった?」
臨也は優しく静雄の髪を撫でる。静雄は擽ったさに身を捩った。
「…誰が言うか、馬鹿」
会いたかった、なんて。
「シズちゃんらしい」
はは、と臨也は低い声で笑う。手はずっと静雄の髪を撫でたまま。
「本当はめちゃくちゃシズちゃんを抱きたいけど、ここじゃまずいな」
「死ね」
悪態をつく静雄の手を取って、臨也は歩き出す。
「うん、文句は後でたっぷり聞くよ。今は早くベッドに行こう?」
「うぜえ」
「…シズちゃん、顔真っ赤だよ」
「うるせえ」
静雄の答えに、臨也はまた笑った。




待たせてごめんね?

待ってねえよ。

うん、そういうことにしておいてあげるよ。


(2010/08/19)
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