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「入れ違いだ」
静雄の顔を見るなり新羅は笑った。
「何が?」
眉間に皺を寄せ、サングラスの奥の目を細める。
新羅は静雄をソファーに座らせ、麦茶を出してやった。からん、と氷が音を立てる。
「臨也。さっきまでいたよ」
「……」
静雄は黙り込み、麦茶を一口飲む。熱い体に冷たくて美味い。
「でさあ、こないだ言ってたの聞いてみたんだけど」
「こないだ?」
「臨也に彼女いるのかって話」
新羅は自分はカップに熱いコーヒーを注ぐ。このクソ暑い季節に良く飲めるなと静雄は思う。いつも空調の効いた部屋にいるせいなんだろうか。
「あれさぁ、秘書の人らしいよ」
リビングにコーヒーの匂いが広がった。
「…へえ」
「黒髪でロングの。静雄もこないだ鍋で会った矢霧くんのお姉さん」
「覚えてねえよ」
「ボールペンの」
「ああ…」
静雄は頷いて、それきり黙り込んだ。麦茶に入っていた氷が、ピシッと音を立ててヒビが入る。
新羅はコーヒーを啜りながら静雄をじっと見ていた。
静雄はこうして見ると弟と似ている。臨也ほどではないにしろ、十分美形な部類に入るだろう。…黙っていれば。
「臨也を振ったのはそのせいなの?」
新羅の言葉に、静雄はぴたりと動きを止める。
そのコメカミに青い筋が浮かぶのを、新羅は観察していた。
「あいつが何か言ったのか」
「言わないよ、臨也は。全く君達はお互い同じ事を言うんだね」
新羅は苦笑する。水と油なくせに、たまに言うことは似ているのだ。昔から。
「静雄さぁ、」
新羅はコーヒーに映る自分の姿に視線を落とした。
「本当は分かってるんだろう?臨也が本気なの」
からん、とまた氷がなった。
静雄は新羅から目を逸らすと、麦茶を一気に呷る。
コップを乱暴にテーブルに置くと立ち上がった。
「帰る」
「いつまでも逃げられないよ。体がどこに逃げたって心はついて来るんだよ?」
「黙れ」
「静雄、たまには他の人の話を聞きなよ」
新羅は珍しく真面目な顔をして、静雄を見遣った。
「君が高校生活の三年間で臨也にどれだけ酷い目に遭わされてきたか分かってるけど、自分の気持ちをごまかしてまで憎悪を持続することはないんじゃないかな」
「何をごまかすって言うんだ」
静雄はギリギリと歯軋りをする。
「分かってるくせに分からない振りをして逃げても、いつか追い詰められるよって言ってるんだよ。本当は臨也に彼女がいないなんて分かってたんだろう?君はそれを理由に臨也を振るのをこじつけただけなんじゃないのかい?だって君らは高校の時から、」
「新羅」
静雄は低く重い声で静かに新羅の名を呼ぶ。
その声の凛とした強さに、新羅は黙り込んだ。
静雄は新羅に背を向け、リビングを出て行く。やがてバタンと玄関の扉が閉まる音がした。
新羅はふぅ、と溜息を吐いてコーヒーを啜る。もう熱いとは言えない温度になっていた。
「だって君らは高校の時から、お互いしか見ていないじゃないか」




静雄は煙草に火をつけるとゆっくりと紫煙を吐き出した。
空はもう薄暗く、夕方から夜へと闇が濃くなってゆく。
宛てもなく歩き出し、気付けば高校の前に来ていた。
来良学園。
8年前は違う名前の学校だった。合併してこの名前になったのはいつだったか。
まだ部活でもやっているのだろう。生徒の声がグラウンドの方から聞こえる。正門はまだ開いていたが、さすがにもう部外者の自分は入れないだろう。
「入りたいの?」
不意に声を掛けられ、体が跳ねた。
振り返れば予想通りの人物が立っていて、静雄はまた驚く。
「臨也」
「入ってみる?」
臨也は真っ黒ないつもの服装で、学校を見遣った。
「何でここに居る」
もう池袋に来るなと言ったのに。
静雄は忌ま忌ましげに舌打ちをした。
「シズちゃんを探してた」
臨也は体のあちこちに絆創膏をつけて笑う。どんな姿でも眉目秀麗なその顔は、酷く整っていた。
「もう用はねえよ」
「入ってみようか」
うんざりしたように言う静雄の言葉を遮って、臨也は学校を指差す。「監視カメラならくぐり抜けられるし」
静雄は不機嫌に眉を顰める。そんな静雄に臨也はまた口端を吊り上げて笑った。
「そんな警戒しなくとも学校でなんて何もしないよ」
「誰が」
「入ってみようよ」
臨也はそう言ってさっさと入って行く。
静雄はそれを胡散臭そうに見ていたが、やがて諦めたように煙草を揉み消して後に続いた。



「へえ。俺達の頃とはちょっと変わったね」
臨也はすたすたと前を歩いて行く。静雄はキョロキョロと周りを見回しながら歩いた。
長い廊下。ひやりとした階段。放課後の教室。
ガキの匂いがする、と思った。
「こないだ波江を見たんだってね」
不意に臨也が口を開いた。
「波江?」
「新羅から聞いた」
「…ああ」
なんのことかを理解し、静雄は目を細める。
「言い訳必要?」
振り返る臨也の顔は無表情で、静雄は臨也が何を考えているのか分からない。
「新羅から聞いた」
「そう」
静雄の答えに臨也は短く頷き、教室の前で立ち止まった。
「ここ、シズちゃんのクラスだったよね」
三年生の時の。
臨也は教室の扉を開く。
中に誰かいたらどうするんだと思ったが、居ても臨也は気にする奴ではないだろう。
静雄は中を覗いて目を細めた。整然と置かれた机。窓から見える薄暗い空。
さすがに臨也も明かりをつけようとはせず、薄暗いまま机に腰を掛ける。
「シズちゃんの席は窓際のここだったね」
「…良く覚えてんな」
半ば呆れながら静雄は言う。そんな昔のこと。
「ここ、グラウンドから見えるんだ」
臨也は窓の外を見て目を細めた。「俺は良くここにいるシズちゃんを見てた」
「……」
静雄は黙り込み、窓際に立った。もうグラウンドには部活動の生徒は居ないようだ。真っ暗なグラウンドに、うっすらとゴールポストが見える。
「俺の高校生活は殆どをシズちゃんの為に労力を使ったけど、まあ悪くなかったかな」
今考えれば、と臨也は肩を竦めた。
「俺の高校生活は最悪だったけどな」
静雄が忌ま忌ましげに言えば、臨也は笑い声を上げる。別段高い声ではなかったが、静かな教室にそれは響いた。
「もう帰ろうぜ」
静雄は窓から身を離すと、教室から出て行こうとする。その腕を臨也は掴んだ。
強引に腕を引かれ、目を見開く。現状を把握する頃には抱き寄せられていた。
「おい、」
「誰か来る」
しっ、と臨也が言って、静雄の体を扉の影へ引っ張っる。廊下を誰かが歩いてる音がした。
どうやらまだ残ってる生徒のようだ。笑い声が聞こえる。
静雄は戸惑い、両腕を下ろして拳を握り締めた。臨也の腕は肩に回されていて、至近にはその端正な横顔がある。
心臓の音がする。早い鼓動。多分これは自分のだ。
静雄は目を閉じた。
やがて声は聞こえなくなり、生徒たちは立ち去ったようだ。
「行っちゃったよ」
臨也の言葉に目を開ければ、赤い双眸がじっと静雄を見詰めていた。吐息さえも触れる距離で。
シズちゃん、と名を呼ばれるのと同時に口づけられた。
柔らかな唇。濡れた感触。臨也の香水の香りがする。
臨也は肩から手を離し、静雄の後頭部に手を回す。ぴちゃ、と濡れた音がした。
舌が口腔を我が物顔で這い回る。強引な口づけ。ぬるりと舌を捕われた。
シズちゃん。
シズちゃん、シズちゃん、と。何度もキスの合間に名前を呼ばれた。そんな愛称で呼ぶなといつも言っているのに。
「好きだ」
ぴくりと静雄の体が震えた。
「愛してる」
ああ、もう。
何でこんな言葉を言うのだろう。愛してるだなんて。
どうして平気で口に出来るのだろう。好きだなんて。
このずっと続けてきた生温い関係を壊す言葉だってのに。
自分にはそんな勇気はないってのに。
やがて唇が離れた。唾液で濡れた静雄の唇を、臨也が拭ってやる。
「…帰ろうか」
臨也は呟き、体を離した。
静雄は無言で教室から出る。廊下はがらんとして寂しげだった。
念の為に学校の裏門から外に出る。まだ生徒の姿がチラホラとあったが、誰も気にしていないようだ。
「結構面白かったねえ」
また来ようか、なんて笑う臨也はいつも通りだった。
「臨也」
「なに」
「お前本気か」
静雄の言葉に、臨也は驚いたようだ。ピタッと足を止めて振り返る。
「今更?」
「なんだよ」
呆れたような臨也の言葉に、静雄はむっとする。
「愚問」
「そうかよ」
静雄はちっと盛大な舌打ちをして歩き出した。臨也の横を通り抜け、さっさと帰ろうとする。
「ちょっとシズちゃん」
「ついて来んな」
「同じ方向だって」
はあ、と背後から臨也の溜息が聞こえてきた。静雄は気付かない振りをして歩く。
「本気だって分かったら、何か変わるのかな」
「変わらない」
「だよねえ」
臨也が笑う気配がした。静雄は足を止めたりしない。
「手に入らないなら殺しちゃおうかな」
「その前に俺が手前を殺してやるよ」
「俺、可哀相だと思わない?」
「思わない」
静雄はゆっくりと煙草を吐いた。ふわり、と空に白い煙が溶けていく。
「手前はそんだけのことをして来ただろ」
「シズちゃん執念深いね」
「死ね」
信号待ちで足を止めた。
臨也はその隙に静雄の手首を掴み、自分の方へと振り向かせた。
「シズちゃん、俺にそんなに死んで欲しい?」
臨也は静雄の目を真っ直ぐに見て笑いを浮かべる。
静雄は臨也の意図が分からずに眉間に皺を寄せた。
「どう言う意味だよ」
「俺が死んだら、ちゃんと受け止めてくれるのかな」
「何言ってんだ」
臨也は掴んでいた静雄の手首を離すと、両手を広げて一歩下がった。
「俺がどれだけ君が好きか、証明すればいいんだろう?」
「臨也?」
静雄の訝しげな声を余所に、臨也はまた一歩下がる。
信号待ちをした道路には、次々と車が走って行く。
「俺は君と違って普通の肉体だから、轢かれたら死ぬかも知れないね?」
臨也は両腕を広げたまま、後ろの道へと倒れ込んだ。
「!」
静雄は腕を伸ばして臨也の手首を掴む。ぐいっと素早く引っ張った。
キィィィっと車のブレーキ音が響き、信号が青に変わる。
「死ねなかった」
臨也はあはは、と声を上げて笑った。
「手前何やってんだよ」
静雄はコメカミに筋を浮かばせると、臨也の胸倉を掴む。サングラスの奥の目は怒りでギラギラと光っていた。
「俺に死んで欲しいんだろう?」
臨也は赤い双眸を細め、その酷く端正な顔を歪めて笑みを作る。
「手前…っ、」
「愛してる」
罵倒しようとした静雄に、臨也は掠れた声で呟いた。
「…なに、」
「好きだよ」
「臨也」
「好きなんだ」
「……」
臨也は目を伏せると静雄の唇に重ねるだけのキスをする。信号を渡る人々が驚きで固まっていたが、構わなかった。まるでそこだけ時が止まったように、二人は動かない。
やがて唇が離れても二人は互いを見ていた。至近距離のままで、ずっと。
「…お前、ホントに馬鹿だな」
静雄は溜息を吐き、目を伏せる。
臨也は口端を吊り上げて肩を竦めた。自分でもそう思う、と口にして。
「…分かったよ」
静雄は顔を上げ、臨也を真っ直ぐに見た。臨也は目を僅かに見開く。
「お前にくれてやるよ」
なにを、とは言わなかった。言わなくても相手が分かることを知っていた。
臨也は赤い双眸を細め、ニッコリと笑う。静雄が初めて見る、普通の笑みだった。
静雄は折原臨也が大嫌いだった。反吐が出るほど。
死ねばいいといつも思っていた。
一方で全く正反対の感情を抱いている自覚もあった。
死んで欲しくない、失いたくないという感情。
そして自分と全く同じ感情を、相手も抱いているのを知っていた。


「おいで」

臨也は手を伸ばす。白くて細い指。綺麗に切り揃えられた爪。人差し指の指輪。
静雄は眩しそうにそれを見て、その手を取った。


(2010/08/18)
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