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初めて会った時の事は一生忘れないだろう。
真っ黒な学ラン。酷く端正な顔。赤い目。
引き裂かれたワイシャツ。滲んだ血。鋭いナイフ。
人を蔑んだような目。
『楽しいだろう?』
からかいを含んだあの声。
あんな一瞬で他人に憎悪を抱いたのは初めてだった。



ガシャーン。
今日も自販機が池袋の宙を舞う。
空を一回転した自動販売機は、地面にぶつかって恐ろしい音を立てた。
壊れた箇所からコロコロと転がるジュースを、静雄は足で踏み潰す。
そんな静雄の行為にガタガタと震え上がる取り立て相手を見て、トムは頭を抱えた。
「静雄、そこまでにしとけ。後は俺が相手っすから」
「…はい」
静雄はそれに素直に頷いて後ろへ下がる。
上司が取り立て相手と話している間、静雄は後ろで煙草に火をつけた。煙を肺まで深く吸い込みながら、ゆっくりと空を見上げる。空は鉛色で厚い雲が覆っていて、今にも雨が降りそうだ。
雨が降ったら厄介だな。
傘なんて持ってきていないし、濡れて帰るのも御免だ。
静雄は憂鬱な気分になりながら、紫煙をゆっくりと吐き出した。


案の定雨が降り出して、静雄は足止めを喰らってしまった。仕事を終え、後は帰るだけだったのに。
静雄はファーストフード店の窓際で、シェークを飲みながら外を見ていた。
傘を差している者も居れば、慌てて早足な者も居る。降水確率はいくつだったのだろう。静雄は普段テレビを見ないから分からなかった。
椅子に腕をかけて、携帯を弄る。親友からメールが来ていた。雨が降って動けずにまいった、と笑い話として返信する。
さてどうするべきか。濡れて帰るか、傘を借りに仕事場に戻るか(こちらも濡れる)、まだここで時間を潰すか。
三つ目は有り得ないだろう。この雨は当分止みそうにない。
雨はアンニュイな気分にさせるから好きではなかった。冷たい雨に濡れると人肌が恋しくなるのにもうんざりするのだ。静雄はそんな弱い自分を嫌っている。
ふと目を向けた外の人込みの中に、真っ黒な色彩を見付けた。あの上から下まで漆黒な様相をしているのは折原臨也だと直ぐに分かった。
静雄は思わず慌てて体をテーブルに伏せる。周囲が何事かとこちらを見たが、そんなこと構ってられなかった。

『シズちゃん、ちゃんと考えて』
耳にあの時の声が甦る。

俺のこと。

「……っ、」
静雄は頬が赤くなるのを感じ、舌打ちをした。
ぐしゃ、と飲みかけのシェークを握り潰してしまう。
思い出してしまった。本気でうざい。思い出さないようにしていたと言うのに。
あんな言葉を思い出すなんて。
静雄はそっと、恐る恐る外へと視線を向ける。
人込みの中、臨也は一人ではなかった。
黒い長い髪の女と、一つの傘を差して歩いている。いつもの笑顔を見せ、何か親しげに話しているのが分かった。
まるで時間が止まったように、静雄は体を硬直させる。
…へえ。
なんだ、女がいんのか。
静雄は気持ちが急速に冷えて行くのが分かった。
手に握り締めたシェークのパックを離す。ベトベトと中身が手について苛々した。
酷く滑稽だった。何もかも。死ねばいいと思った。あいつでも、自分でも良かった。死んでしまいたい。気持ちが悪い。
俺は何をしているんだろう。突然現実に落とされたような感覚。
思い出した。自分がしなければならないことを。相手が折原臨也と言う天敵だと言うことを。
静雄は乱暴に手を拭うと立ち上がった。
外に出ると雨はもっと激しくなっていて、あっという間に静雄の全身を濡らしていく。視界が悪くなって静雄はサングラスを外した。濡れた衣服は透けて静雄の体温を奪って行く。ポタポタと顎先から雫が落ちて行った。
周囲の微かな悲鳴と、ざあっと水を切る音に目を向ければ親友が走って来るところだった。
静雄、と。
首がないのに名を呼ばれた気がする。
『風邪をひく』
セルティは酷く慌てていた。親友の静雄の体を心配しているのだろう。メールを見て探しに来たらしかった。
静雄の様子が何かおかしいのにも、セルティは直ぐに気付く。
躊躇う静雄を半ば強引に後ろに乗せ、彼女は慌てて走り出した。



新宿の空には満月が出ていた。街の明かりのせいか、星は見えない。
目的の階に着いて、静雄はエレベーターを降りる。静かな空間。
扉の前まで来ると、ノブに手を掛ける。鍵を開けておく、と言われた通り、直ぐにそれは開いた。
中は客が来ると言うのに明かりが暗い。静雄は靴を脱いで勝手に上がり込んだ。
「やあ」
臨也は廊下に立っていた。いつもの真っ黒な出で立ちで。
表情は逆光になっていて見えない。
「シズちゃんから来るとは思わなかったよ」
「来たくて来たんじゃねえし」
静雄は吐き捨てるようにそう言うと、真っ直ぐに臨也を見た。薄い茶色の目と、赤くも見える双眸がかち合う。
「返事しに来た」
「そう」
静雄の言葉に臨也は頷いて寝室の扉を開けた。
「どうぞ?」
静雄は促されるまま、部屋の中に入る。エアコンが効いて居るのかひやりとした空気だった。中は照明が薄暗い。
「臨也」
静雄は両手をスラックスのポケットに突っ込んで、臨也を振り返る。
臨也は扉に寄り掛かり、静雄を見返した。
「無理だ」
静雄は簡潔に一言で告げる。
臨也の片眉が吊り上がり、赤い双眸が細まった。
「理由は?」
「理由?」
静雄はおうむ返しに問い、唇を歪めて笑う。
「手前が折原臨也だからだ」
俺は手前が大嫌いだなんだよ。
臨也は無表情で静雄の言葉を聞いていた。恐ろしく冷たい眼差しをしている。
静雄はそれを同じく冷たく見返した。二人の間に沈黙が落ちる。
「ふうん」
臨也は唇を歪に吊り上げた。「それがシズちゃんの答えか」
「そうだ」
静雄は憎悪で燃えるような目をして臨也を睨む。
「じゃあ最後に抱かせてよ」
臨也は芝居がかった態度で両腕を広げた。「シズちゃんの中、気持ちいいんだ。締まっててさ」
言うが否や、静雄が殴り掛かって来る。臨也が避けると壁に穴が開いた。ミシッと嫌な音がする。
「人んちだと容赦ないね、シズちゃんは」
「黙れ」
直ぐに蹴りが飛んで来る。
早く重いそれは、当たったら無事では済まないだろう。
「ほーんとシズちゃんは理屈が通じないよね」
臨也は屈んでその蹴りを躱すと、ポケットからナイフを取り出した。「一度死んでみないと分かんないかな?」
静雄はそれを見て口端を吊り上げる。色素の薄い金にも見える瞳が、憤怒で輝いた。



玄関で出迎えた友人は、臨也の姿に驚いたようだ。
久し振りだね、と直ぐに笑って招き入れる。
「また傷だらけだねえ。相手は誰か聞かないよ。想像つくからさ」
新羅は何だか楽しそうにスリッパをパタパタ音を立てて歩く。後から続く臨也は痛む腕を押さえ、ソファーに座った。
「見せて」
言われて素直に袖をめくって左腕を出す。そこは青く腫れ上がっていた。
「折れてはないみたいだ。打撲傷だね」
「それは助かったよ」
臨也は無感動に言い、新羅が治療するのに視線を向けた。
部屋に広がる消毒液の匂い。臨也はそれがあまり好きではない。
「静雄を口説いてるって本当かい?」
突然そんなことを言われ、臨也は一瞬どんな顔をすれば良いか戸惑った。
「シズちゃんから聞いたの?」
「まさか」
「だよねえ」
あの男が言うわけがない。
「セルティが言ってたんだよ。勿論君だとは聞いてないみたいだけど」
相手が臨也だろうと推測したのは新羅自身だ。
「本気なの?」
新羅は治療の準備をしながら聞いた。
臨也は答えない。
「そう」
臨也の沈黙をどう取ったのか、新羅は頷いた。
二人の間に沈黙が落ちる。
「しかし久し振りなんじゃない?ここまで君が傷を負うの。回避はお手の物だった筈じゃないか」
切り傷や擦り傷を消毒しながら、新羅はくすくすと笑った。慣れた手つきでガーゼやら包帯を巻いていく。
「相手の怒り具合と室内と言う最悪な空間のせいかな」
臨也は淡々と答える。これが外で広い空間だったなら、こうはなっていなかっただろう。
「静雄はまだたまに新宿行ってるのかい?」
新羅は細かい傷に絆創膏を貼っていく。
「もう来ないだろうね」
「その結果がこれ?」
新羅が笑うのに、臨也は黙っていた。腕に巻かれた包帯はいやに白く見える。
「静雄をからかいすぎたからじゃないの」
「…からかうってなんだい」
臨也は眉を顰めて新羅を見遣った。
「数日前セルティが静雄をここに連れて来てさ」
「へえ」
聞きたくはなかったが、臨也は適当に相槌を打つ。
「びしょ濡れで。雨の日」
「……」
「静雄は降水確率で傘を持って歩くタイプじゃないからなぁ」
「何が言いたいの」
「あ?わかんない?」
新羅はへらっと笑った。聡い君なら察するかと思ったんだけど、と言って。
「君、池袋居なかった?雨の日」
新羅は最後の傷に絆創膏を貼り終わる。臨也は眉を顰めた。
「口説いてる相手の目の前に、女連れで歩くのはどうなんだろうね?」
そう言って打撲の箇所をパシッと軽く叩いた。
臨也の目が見開かれる。新羅に叩かれた痛みより、驚きの方が勝った。
「え?」
「その時の静雄がどんなだったか知りたい?」
新羅は眼鏡を指で押し上げる。眼鏡の奥の目が珍しく真面目なのに臨也は気付いた。
「まあ教えてあげないんだけどね?」
新羅はそう言ってにっこりと笑った。


(2010/08/17)
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