カタンと音がして時計を見ればもうすぐ1時。
臨也は何冊目かの本を閉じると立ち上がって廊下に出た。
薄暗い廊下には金髪の青年が居て、のろのろとした動きで洗面所から出て来たところだった。
「吐いたの?」
声を掛ければビクンと体を震わせ、怯えた目で臨也を見た。静雄は口を手の甲で押さえ、まだ青い顔をしている。
「吐いてない。吐きそうになっただけだ」
静雄はそう言い、部屋に戻っていく。パタンと聞こえる戸が閉まる音が、臨也を拒絶してるみたいだった。
臨也は廊下を進み、和室の引き戸を開けた。
静雄は布団に体を横たえてぼんやりと窓を見ている。
「…なんだよ」
うぜえ、と静雄が言うのに臨也は部屋に入る。
「シズちゃん」
名を呼べば、視線をこちらに向けた。
薄暗い部屋でもはっきりと分かる、きつい眼差し。
臨也は静雄の側に寄ると、しゃがみ込んだ。
静雄は訝し気に臨也を見上げて半身を起こす。
「ねえ、俺のことまだ好きなの?」
臨也のこの言葉に、静雄は驚いたようだ。
「もう好きじゃない」
即答が返ってくるのに、臨也は苦笑する。
「そんな早く変わっちゃうんだ」
「さっさと出てけ」
静雄は不機嫌な顔になり、臨也から視線を逸らす。
背中を臨也に向けて布団に丸くなった。
「じゃあどこが好きだったの」
「気の迷いだろ」
「そんな具合悪くなってるのに?」
「……」
静雄は黙り込む。部屋に沈黙が落ちた。
窓の外から虫の鳴き声がする。月明かりが部屋を少しだけ照らす。
「シズちゃんはきっとまだ俺のこと好きだよ」
「…お前自意識過剰だな」
「なんで俺がここに来たか考えないの?」
「俺を笑いに来た」
「うわ、俺ってそんな酷いイメージなの」
臨也は苦笑して静雄の背中を見つめる。静雄は窓から見える月を見ていた。
「一応、一晩中考えてさ」
臨也は片膝を立て、頬杖をつく。「次の日シズちゃんの携帯に電話したけど、もう通じなくなってた」
「お前俺の番号知らねえだろ」
「知ってるよ。情報屋さんだから」
そうかよ、と静雄の声は冷たい。静雄にとって、もうどうでもいいことだ。
「メールもしたんだけど、まさかこんな田舎にいるとは思わなかったよ」
臨也は静雄と同じく視線を窓の外に移した。
暫く二人とも黙っていた。
虫の鳴き声だけが聞こえ、風で木々が揺れる音もする。
「気持ち悪いって嘘だよ」
ごめんね、と臨也の声が響いた。
静雄はぴくりと身動ぎしたが、臨也の方は振り返らなかった。
「…もう、いい」
静雄は目を閉じる。馬鹿なことをしたと、ここに来てからも何度思ったことだろう。
言うつもりなんてなかったのに。あの時、


あの時、雨が降っていた。
いつもの臨也の黒い服装は雨のせいで更に色濃くなっていた。まるで闇のようだ、と静雄は思ったのを覚えている。
赤い目も赤い唇も、静雄を蔑む為だけに動いていた。
この目に違う感情を抱かせたくて、静雄はそれを不意に口にした。
結果、臨也は狼狽したようだった。
しかし直ぐにその表情は消え、眉間に皺を寄せて不機嫌な顔になり、たった一言、






静雄は思い出し、口を手で押さえた。けほっ、と咳込むのに、臨也が背中をさする。
「大丈夫?」
「大丈夫だから触るな」
静雄は少し乱暴に臨也の手を振り払った。ぎゅう、と自分の体を庇うみたいに丸くなる。
「俺に触られるのそんなに嫌なの」
冷たい声に顔を向ければ、臨也が静雄を見下ろしていた。声と同じくらい冷たい顔で。
「まいったなあ、俺そんなにシズちゃんにトラウマ植え付けちゃったんだ」
あはは、と高い声で笑うのがまた薄気味悪かった。
静雄は体を起こす。目の前の真っ黒い奇妙な男を真っ直ぐに見た。
「臨也」
「なに」
「無かったことしてくれよ」
「……嫌だよ」
「なんでだよ。そっちの方がいいんじゃねえの。俺にもお前にも」
静雄はそう言って自身の金髪を掻き上げた。窓から射し込む月の光りでキラキラとそれが揺れる。
「嘘だって言ったじゃん」
それでもダメなの?
臨也は静雄の肩を掴んで向かい合わせにした。ぐいっと引っ張られて静雄は目を丸くする。
「シズちゃんいつから気付いてたの?最近だよね。俺はずっと前から気付いてたよ。どんだけ苦労したと思う?気付かない振りをどれだけしてきたか分かる?こんなのは有り得ないと思っていたよ。だって俺はシズちゃんが大嫌いだったんだ。本気で死を望んでいたし、何度も手を回したさ。ああ、気持ち悪かったのは本当だよ。自分にだけどね。俺は正反対の感情を二つ君に抱いていて、それはひょっとしたら今考えると同じ物だったのかも知れないけど、俺はそんなの認めたくなかった。だってこの俺が、」
最後は言葉にしなかった。

臨也は顔を傾け、静雄に唇を重ねる。少し乱暴に重ねられたそれは歯がぶつかったけれど、そのまま深くなっていった。舌を差し込んで、歯並びを確かめるみたいに舐めて、唇を吸って。
静雄はキスで殺されるんじゃないかとさえ思った。
漸く唇を離し、臨也は静雄の目尻に溜まった涙を舐める。
「本当にシズちゃんは凄いよ…俺が長年抑え付けてきたのをあっさり口にするんだからね。気持ちが悪いなんて言葉が出たのは多分、俺の動揺の表れだったんだろう。言い過ぎた、と思った時はもう…」
臨也はそう言って静雄の頭を抱いた。金の髪に顔を埋め、優しく背中を撫でる。
「…シズちゃんが私服姿でどっか行ったって聞いて凄い探したんだ」
臨也の声は掠れて囁くみたいになっていた。
「きっと新羅と一緒だろうって思った。あいつも連絡取れなかったしね。新羅が帰ってきたって聞いて直ぐに聞き出したよ」
臨也はそこで言葉を切り、口元に自嘲の笑みを浮かべた。
静雄はただぼんやりと、臨也の言葉を頭で反芻する。
「ねえ」
「なんだよ」
「俺の言ってること分かったの?」
シズちゃんはおバカさんだからなあ。
「うるせえ、死ね」
静雄は悪態をつき、顔を赤くして布団に再び寝転がった。
その赤い顔を見て、臨也は伝わったのだと理解する。
「シズちゃん」
「…だからなんだよ」
「嘘ついてごめん」
布団を被った静雄の上に覆いかぶさって、ぎゅうと抱きしめた。
「重い」
中から聞こえる不満の声は少しだけぶっきらぼうだ。
「本当はシズちゃんを今すぐに抱きたいけど、今日は我慢しておくね」
臨也はそう言って布団をめくり、金髪の頭を撫でた。




船のデッキに出ると、静雄は煙草に火をつけた。深く煙を吸い込んで、太陽の眩しさに目を細める。
手摺りから下を見下ろせば波飛沫が舞っていて、潮の匂いが鼻についた。
臨也はそんな静雄を眩しそうに見詰め、ただ黙って手摺りに凭れ掛かった。
「また来たいな」
静雄がぽつりと呟く。静雄は田舎が好きなのだ。
「俺はたまにでいいや。夜とか暇でしょうがない」
反対に臨也は都会の方が好きだった。人が溢れている方が好きなのだ。
「ああ、でもシズちゃんとならまた来てもいいかな」
きっと暇なんて思わないだろうから。色んな意味で。
「?」
静雄は首を傾げるが、臨也は笑うだけだ。
「ああ、そうだ。シズちゃん」
「なんだ」
「携帯見た?電源入れて見なよ」
臨也に言われて慌てて電源を入れる。そういえば忘れていた。
弟や上司、ダラーズからのまで、結構な数のメールが受信される。それらをざっと読んで行くと、一通見慣れないメールアドレスがあった。
なんだろう?とそれを開くと、一行だけの短いメール。
それを読んで、静雄は誰からだか分かってしまった。日付はこちらに来た時のもの。
一瞬にして真っ赤な顔になった静雄に、臨也はにっこりと微笑んで。
「それ俺のプライベートのメルアドだから。ちゃんと登録しておいてね」
「…お前本当にうざい」
静雄は舌打ちをし、悪態をつきながらも携帯を操作する。

ピッ。

『このメールを保護しました』





(2010/08/08)
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