静雄は縁側に座って青い空を見上げながら煙草を吸っていた。裸足の足を投げ出して、ぼんやりと。
田舎はいいなぁと思う。空が綺麗なのがいい。空の色がこんなにも濃い。
遠くで蝉が鳴いている。木々が囁くみたいな音もする。風の音さえ違うのだ。
静雄は毎朝6時には起き、周りを散歩した。草原を歩いたり、山の中に入って見たりした。変な動物を見たり、廃屋を眺めたりした。夜も10時前には自然に眠くなって、うとうとと微睡む。
深夜になると目が覚めた。
冷たい拒絶の言葉と、軽蔑の赤い目。
それを思い出し、吐いた。
静雄は一頻り吐くと、外に出る。小川の方に行くと、蛍が飛んでいた。子供の頃にしか見たことがない、幻想的な光景。普段なら美しいと思えただろうそれは、今の静雄には酷く恐ろしいものに見えた。それでも恐怖に怯えたまま、静雄はそこに立って黙ってそれを見ていた。
段々と食事が面倒臭くなっていった。どうせ食べても吐いてしまうし、一人だと作る気にもなれない。たまに水を飲む以外、食べ物を殆ど口にしなくなった。
少しずつ細くなる手首を、静雄はたまに確認する。元々細身だったので、自分では良く分からなかった。体重計もここにはないのだ。
定期的に、新羅に連絡を入れた。その度に早く戻って来いと言われた。口が利けない親友が大層心配しているらしい。もうちょっとだけ、と言い続けて何日も。
静雄は床に転がって、ぼんやりと外を見ていた。最近は水もろくに口にしていない。
今の自分からは死臭がするかも知れないと思い、酷く愉快な気持ちになる。
こんなになっても煙草だけはやめられず、静雄は火をつけてそれを吸う。けほけほと咳込んでも構わなかった。
別に死ぬ気なんてなかったが、このまま死んだなら少し面白いなと考える。結局親友や弟の事を考えると、死ぬことなんて出来やしないのだけど。
眠いな、と思って静雄は目を閉じた。ウトウトと微睡むこの瞬間が、一番心地良い。
意識が途切れる瞬間に、不意に腕を引っ張られた。
体を起こされたのだと理解したが、静雄はもう眠気が勝ってしまって、目を開く気になれない。
パシンと頬を軽く叩かれる。
体を揺さぶられ、名前を呼ばれた気がして、静雄は意識が段々と覚醒してゆく。
うっすらと目を開くと、赤い目が酷く焦った様子で、こちらを覗き込んでいた。
「シズちゃん」
嫌な呼び方。こんな風に自分を呼ぶふざけた奴を、静雄は他に知らない。
臨也は静雄を抱き起こして唇を重ねる。水を口移しで飲まされた。何度も。
最後は舌を絡まされたけど、静雄は黙って臨也の自由にさせていた。
やがて体を離されて、静雄はぼんやりと目を擦る。
「…臨也?」
何でここに?
臨也は静雄の頬をいきなり叩いた。静雄の目が驚きで見開かれる。
「何やってんの」
臨也はきつい眼差しで静雄を睨む。真摯な目からは怒りが感じられて、静雄は戸惑った。
「何って…、つうか何でお前がここ居んだよ」
静雄は平手打ちされた頬を押さえて立ち上がった。体がふらつくのに、臨也が腕を伸ばして支える。
「新羅に聞いて来たんだよ。こんなやつれてるなんて聞いてなかったけどね」
「やつれてねえよ。…触るな」
静雄は臨也の手を振り払った。臨也はむっとする。
「そんなフラフラで良く言うよ。今のシズちゃんなら簡単に殺せそうだ。ナイフも刺さりそうだし」
「うるせえ」
静雄は舌打ちをして背を向けた。
「どこ行くの」
臨也が問うのに静雄は答えず、ブーツを履いて外に出ていく。
臨也は溜息を吐くと、静雄の後を追って外に出た。
「ついて来るなよ」
「船は明日じゃないともうないよ」
「分かってる。だからお前があの家いろ」
「シズちゃんは?」
「俺は平気だ」
静雄はゆっくりだけどしっかりした足取りで砂利道を歩いていく。
「そんなに俺と居たくない?」
臨也がそう言うと静雄の歩が止まった。
「たった一晩だよ。それさえも嫌なの」
臨也はコートのポケットに手を突っ込んで、静雄の細い背中を見た。静雄はゆっくり振り返る。
「手前の方が俺と居たくねえだろ」
「気持ちが悪いって言ったから?」
臨也の言葉に、静雄はびくんと体を震わせた。舌打ちをして再び臨也に背を向ける。そのまま早足になった。
ムカムカと胃から吐き気がやってきて、気分が悪い。
「シズちゃん」
後ろから声をかけられるも、もう殆ど走り出していた。
頭がくらくらする。指先が震えた。すぐに息が切れ、吐き気が限界に近い。
ぐらり、と視界が歪むのに、後ろから腕が伸ばされて抱き止められた。
「そんな体で走るからだよ」
臨也は呆れた声で言い、静雄の体をこちらに向かせた。
静雄は本当に具合が悪そうで、されるままになっている。
「触…るな」
「支えなきゃ倒れる癖に」
臨也は深く溜息を吐いて静雄の背中に腕を回した。「今のシズちゃんじゃお姫様抱っこでもできそうだけど…まあ格好つかないからね」
「死ね」
「文句ならあの家に着いてから腐るほど聞くよ」
臨也はそう言って静雄の体を抱いたまま歩き出す。静雄も観念したのか、抵抗せずに従った。
…細いな。
前から細いとは思っていたが、こうやって静雄の体に触れるといかにこの男が華奢か分かる。一体この体のどこにあんな力が出せる要素があるのか不思議で仕方がない。
家に着くと臨也は静雄に水の入ったペットボトルを渡した。
「飲んで」
「いらねえ」
「水分くらい摂らないと本当に死ぬよ」
「……」
静雄は無言で目を逸らし、肢体をフローリングに投げ出して転がる。そのまま臨也に背を向けて丸まってしまった。
臨也は溜息を吐くと、ペットボトルの水を呷る。そのまま静雄の体を強引にこちらに向かせ、唇を重ねた。
静雄の目が驚きで丸くなるのを見ながら、臨也は口から水を流し込んでやった。静雄の喉がごくんとそれを飲み込むまで。
抵抗しようと振り上げられた両手をフローリングに押し付けた。弱っているのと重力の関係で、外すことができないようだ。
もう水なんてなかったけど唇は離さず、寧ろ深く深く舌を絡め取っていく。くちゅくちゅ、と水だけのせいではない音がした。
足もバタバタと動かし始めて抵抗が強くなった頃、やっと臨也は唇を離した。
即座に蹴りが繰り出されるのを避けて、臨也はペットボトルを差し出す。見下ろした静雄は口から漏れた水で口元が少し濡れて扇情的だった。臨也が差し出すそれを受け取らず、きつい眼差しでこちらを睨んで来る。
「また飲ませて欲しいの」
「…死ね」
上半身だけ身を起こし、静雄は臨也の手から乱暴にペットボトルを引ったくった。
静雄が水を口にするのを見ながら臨也は立ち上がる。
取り敢えず何か食事を作ろう。お粥か何かが良いだろうか。
臨也がキッチンに居る間、静雄はぼんやりと窓際に座っていた。外はいつの間にか夜で、遠くで虫の鳴き声がする。
夜の匂いがするな、と静雄は思った。田舎だろうが東京だろうが夜の匂いは同じだ。
食事中、臨也と静雄は一言も口を利かなかった。つけっぱなしにされたテレビだけがベラベラとニュースを伝えている。食事を終えて風呂に入るともう眠そうにする静雄に、臨也は少し驚き、呆れた。田舎にいるとこうなるものなのだろうか。眠そうに目をゴシゴシと擦る姿はまるで子供だ。
静雄は寝る、と一言言って和室に引っ込み、布団を敷いてさっさと寝てしまった。
さすがに夜型の臨也には9時に寝るなんて無理で、仕方がないので持ってきた文庫を読んで時間を潰した。





続。

(2010/08/07)
×