細い手首を掴んで、引き寄せた。
驚きでサングラスの奥の目が開くのを視界に入れつつ、もう片方の手で腰を掴んで体を密着させる。
そのまま顔を僅かに傾け、柔らかな唇に吸い寄せられるように口づけた。
ガコンと、重い音がアスファルトに響く。驚いた静雄が、手に持っていた標識を落としたのだろう。
臨也は静雄の頭を両手で包み込み、更に口づけを深くした。
開いた唇から舌を侵入して上顎を舐める。舌の先端で相手の舌を何度も舐め、絡ませた。上唇を唇で噛み、下唇は舌で感触を楽しむようになぞる。ピチャピチャと濡れた音がするのに、どちらの唾液の物かもう分からない。
「…っ、ん」
静雄は息苦しくなり、臨也の肩を両手で押した。いつもの力が出ないそれは、臨也にまるでしがみつくみたいになってしまう。
「いざ…、」
「黙って」
一度離された唇はまた重ねられた。再び歯列を割って、まるで生き物みたいに舌が入り込んで来る。
路地裏の、廃ビルの薄汚い壁に背中を押し付けられて、静雄は目の前の男に唇を犯されていた。
唾液を啜られて、口腔の全てを舌先が触れていき、静雄はくらりと眩暈がする。
羞恥で顔が熱い。心臓の音がでかく、他は唾液が混ざり合う音しか耳に入って来なかった。
「シズちゃん…」
キスの合間に何度も名前を呼ばれた。
切羽詰まったようなその声は、熱くじわじわと静雄の鼓膜を侵してゆく。
何度も何度も角度を変えて口づけられ、喰われるかと思うくらい舌を舐め取られた。
指先が震えている。足も力を失って、背中を預けている壁がなければ崩れ落ちていただろう。
静雄は耐え切れなくなって、臨也の唇を噛んだ。
臨也はピリッと走った痛みに驚き、動きを一瞬止める。静雄はそれを見逃さずに、弱くなった力で臨也を突き飛ばした。
はあはあと肩で息を整えながら、静雄は臨也を睨みつける。
臨也は親指で唇の血を拭い、それと同じくらい赤い目で静雄を見返した。

「…んだよ、これ…っ」
「キスしたんだよ」
「そんなこと聞いてるんじゃねえだろ」

臨也の顔にはいつもの笑みはなく、ただ真っ直ぐに静雄を見つめている。
静雄は怒りやら憎悪やらごちゃまぜになった目で臨也を睨んでいた。

「もう限界だったから」
「…何が」
「シズちゃんだって、」
分かっている癖に。


臨也が最後まで言い終わらないうちに、どっかの店のゴミ箱が飛んできた。
臨也が避けると、それはアスファルトに投げ出され、中身がぶちまけられた。
「死ねよ」
静雄は唇を手の甲で拭い、臨也に背を向けて走り去って行った。



「打撲も骨折もなし。擦り傷が多少と、噛まれた唇くらいだね」
ざっと臨也を診察した新羅はそう言って、絆創膏を差し出した。
臨也はそれを忌ま忌ましげに受け取ると、ポケットへ無造作に突っ込む。
「ちょっと滲みるかもしれないけどコーヒーでも飲む?」
新羅はそんな臨也に臆することもなく、返事を聞く前にカップにコーヒーを入れた。
「てかさあ、新羅。驚かないってことはあれだよね…いつから気付いてたの」
熱いそれを受け取って、臨也はテーブルに置いた。今はまだ飲む気はないらしい。
「そうだなぁ。確信したのは高校一年の夏くらいかな」
「……」
新羅の言葉に臨也はコメカミを指先で押さえた。さすがにそんなに昔からだとは思わなかった。ぐうの音も出ない。
「限界が来るのは静雄の方が先だと思っていたから、少し意外だったけど」
新羅はそう言って笑うと、臨也の向かい側のソファーに座った。
「どう言う意味?」
臨也が問えば、
「臨也はほら、ごまかすのが得意だろう?そうやって自分の気持ちもごまかしてしまう気がした」
とサラっと返答がかえってくる。
伊達に何年も傍観者じゃないのだな、と臨也は妙に感心した。
「それでさ、臨也はどうする気なの」
「何が」
「君が何年も掛けて築き上げて来た『平和島静雄の天敵』と言うポジションが崩れるわけでしょ。この先どうするの」
「どうもしないよ。諦めるわけでもないし」
臨也はカップの中の黒い液体を見詰めた。白い湯気が絶え間無く立ち上っては消えて行く。
「意地になったら静雄は手強いよ。まあもう8年も片思いしてるんだから今更だろうけどね」
ふふ、と目の前の闇医者は少しだけ楽しそうに笑った。
「新羅は協力してくれないのかい」
「するわけないじゃないか。僕は中立…どちらかと言えば静雄寄りか」
セルティが静雄の親友だからなぁ、と新羅は首を傾ける。まあ僕は基本傍観者だからさ。と続けた。
「でも臨也が少し可哀相だからちょっといいこと教えてあげる」
「勿体振った言い方だね。なんなの」
臨也はその形の良い顔を歪めた。眉間の皺が深い。
「君が来る1時間前、静雄が来たんだよ」



「少し休ませてくれ」
静雄はズカズカと家に入って来た。
例の相手と喧嘩していたのだ、と直ぐ分かるボロボロの格好。顔は真っ赤だし、目は潤んでるしで、臨也に強姦でもされたの?と冗談を言いそうになってやめた。新羅だって命が惜しい。
静雄は小声で延々と悪態をつき、何度も何度も唇を擦っていた。耳まで赤くなって。
強姦ってのもあながち間違ってなさそうだ。
静雄の為にミルクを温めながら、新羅はそんなことを思った。
「臨也になんかされたの」
思い切って聞いてみた。
静雄はそれを聞いた途端、とても恐ろしい顔になり、新羅は一瞬でその名を出したことを後悔した。
「俺の前で二度とあいつの名前を出すな。殺すぞ」
「何でそんな怒ってるのさ」
新羅は苦笑して静雄にホットミルクを渡す。機嫌が悪い静雄には食べ物や飲み物が一番だ。
「嫌がらせされた」
「嫌がらせ?」
「……」
静雄はそれ以上言う気はないらしく、ゴシゴシとまた唇を拭う。
「それって本当に嫌がらせなの」
「ああ」
あまりにも即答だったので、新羅は臨也が不憫になってしまう。
「じゃあもし嫌がらせじゃなくて本気だったなら、静雄はどうするつもりなの」
「…そしたら、」
「そしたら?」
「その時に考える」
静雄は低い声でそう答え、ミルクに手を伸ばした。



「嫌がらせってなんなの」
臨也は明らかに不機嫌な顔になった。
「僕に文句を言っても仕方がないよ。君が順序を間違えたのが悪いんじゃない?」
新羅はコーヒーを啜る。もう熱いとは言えない温度になっていた。
「順序って、」
「告白してないってこと」
「…したのと一緒だろうに」
臨也ははぁと溜息を吐いて頬杖をついた。珍しくこの男にしては余裕が無く、困ったような顔をしている。
「臨也ってさ、どれくらい静雄のこと好きなの」
新羅はテーブルに飲みかけのコーヒーを置き、まるで天気を尋ねるみたいに聞いた。
「凄い好きだよ。顔も声も中身もあの体もあの力も全て愛してる」
照れることなく臆面なく言ってのけた臨也に、新羅はうん、と頷く。
「臨也って好きな子ほど虐めるタイプなんだよね」
「悪かったね」
「悪くはないよ。――…静雄、聞いてた?臨也は君が大好きなんだって」

は?

この言葉に臨也は固まった。
新羅が向いた方向を振り返れば、真っ赤な顔をして静雄が立っていた。
「嫌がらせじゃなかったってことだね。だから静雄もちゃんと考えなくちゃね?」
新羅はにこにこと静雄に笑顔を向ける。
静雄は真っ赤な顔を隠すように手で頬に触れると、バタバタと玄関の方へ走って行ってしまった。
「新羅、君さあ」
臨也が抗議の声を上げるのに、「僕は静雄が来たとは言ったけど、帰ったとは言ってないよ」と、新羅は笑顔を浮かべる。
「8年間傍観していた僕から君達へプレゼントさ。早く追い掛けたら?静雄帰っちゃうよ」
「…っ、」
臨也が立ち上がって玄関の方へ行くのと、静雄が扉から出ていく音がしたのは同時だった。
バタバタと臨也も外へ出ていく。
「たった8年で済んで良かったじゃないか、二人とも」
新羅は一人、すっかり温くなったコーヒーを啜る。
僕なんて20年もセルティに恋してきたんだからさ。
新羅はそう呟いて小さく笑った。






(2010/08/05)
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