帰宅すると扉の鍵が開いていたのに眉間に皺を寄せた。
盗まれるものなんて何もないが、不法侵入なんて気分が悪い。
そしてその不法侵入者の心当たりがあって静雄はうんざりした。
「遅いよ」
中に入れば案の定、ソファーに真っ黒な塊が座っていて、静雄は溜息を吐く。
「何でここに居んだよ。出てけ」
毎回毎回、鍵を勝手に開けるのもどんな非常識だ。
「シズちゃんちって本当に何もないね。待ってる間、超暇だったよ」
臨也は足を組んでソファーに踏ん反り返ってる。
「うぜえ。何の用だよ。Zippo返してくれんのか」
静雄は自分の家だと言うのに部屋には入らず、入口に手をついて立っていた。
「捨てちゃったよ、あんなの」
「死ね」
はあ、と静雄は大袈裟に溜息を吐く。忘れた自分が悪いとは言え…やっぱりあの時に取りに行くんだった。
「じゃあ何の用だよ。殺されに来たのか」
「取り敢えず中に入ったらどうだい」
臨也に促され、静雄はやっと靴を脱いで中に入った。自分の部屋なのに何故こうも警戒しなければならないのだろう。
「で?」
「なに」
「何しに来たんだよ」
苛々するのを抑えて、静雄はフローリングに胡座をかいて座り込んだ。ソファーはこの黒い男が占拠してるし、側には行きたくない。
「シズちゃんを抱きに」
しれっと言われた言葉に、静雄は一瞬思考が飛んだ。
「…何だよそれ」
「もう来ないとは聞いたけど、抱かれないなんて言わなかったよね」
臨也はソファーから静雄をじっと見下ろしてる。
「そんなん屁理屈だろ」
「まあね」
沈黙が落ちた。
静雄は小さく舌打ちをする。
「俺なんか抱いてないで女を抱けよ」
「美人な助手とか?」
臨也は口端を吊り上げた。目だけは冷たく、笑っていない。
「そう。あの人美人だな」
静雄は臨也のそんな態度にも動じない。伊達に人生の三分の一を共に過ごしてない。慣れっこだ。
「お前にはあんな女がいんじゃないか」
「ブラコンは御免なんだよね」
「ブラコン?」
静雄は波江の正体を知らないのだろう。首を傾げる。
「それに俺にだって好みのタイプがあるんだよ」
「へえ」
「綺麗な顔の癖に目付きが悪くて、色が白くて痩せてる癖に背が高くて、金髪でバーテン服の子がいいなあ」
臨也が言い終わらないうちに灰皿が飛んできた。
加減して投げられたそれを手で受け止めて、臨也は楽しげに笑う。
「まあ波江はそんなんじゃないよ。安心しなよ」
「何だよ、安心って。」
静雄はうんざりしながら煙草に火を付けた。真っ白な煙が部屋に漂う。
「シズちゃん、波江に嫉妬とかしたりした?」
臨也は足を広げて、自分の膝に頬杖をつく。赤い双眸が綺麗に細められた。
「してねえよ」
ふぅ、と煙を吐いて、静雄はサングラスを外す。
中から現れた目は少し疲れた表情をしていた。
「だよねえ。じゃあ何でもう来ないなんて言ったの」
「今更何でそんな事聞くんだ?」
あの時止めなかったくせに。
「止めて欲しかったの」
「まさか」
即座に否定を返し、静雄は煙を吸う。臨也の方へと手を伸ばして、灰皿を渡すよう促した。「でもどっちでも良かったな」
「何が?」
臨也は灰皿を差し出しながら、ソファーから立ち上がった。
「お前との関係」
静雄は灰皿をフローリングの上に置き、それに灰を落とす。
「シズちゃんでも一応悩んだり考えたりするんだね」
臨也は失礼な事をさらりと言い、静雄の側に膝を抱えて座った。
「こっち来んなよ、死ね」
静雄は条件反射のように悪態をつくが、別段嫌がっていないようだった。
「何で来ないなんて言ったの」
臨也はもう一度同じ質問を繰り返し、手を伸ばして静雄の頬に触れた。
静雄はその行為に不快そうに眉を顰めるが、払いはしなかった。
「意味ないだろ、こんなの」
「何が」
「セックスなら女としろよ」
「今更言う?」
「今更思ったんだからしょうがないだろ」
静雄はゆっくりと煙を吐き出す。
「つまり意味を持たせろってことかな」
「は?」
臨也の言葉に静雄は首を傾げた。
「シズちゃんって無自覚だから、たち悪いんだよね」
臨也は苦笑して静雄の顎を持ち、上を向かせる。そのまま素早く唇を重ねた。
静雄は驚いてぽかんと口を開ける。そこから舌が入り込んで来て、身体が硬直した。
手にしたままの煙草から灰が落ちる。臨也は唇を重ねたまま笑い、静雄からそれを取り上げて消した。
久々に味わう静雄の唇は甘い。ニコチンの味しかしない筈なのに不思議だな、と臨也は思う。
臨也はそのまま静雄を床に押し倒した。静雄の腕が抵抗するみたいに臨也の肩を押すが、力は弱い。
「抱くよ。いいね?」
臨也が静雄の顔を覗き込む。
「…何で俺なんだ」
静雄は諦めたように体の力を抜いて、溜息を吐いた。
「実は何回か女を抱こうとしたんだけどさ」
静雄の額にかかる前髪を払ってやりながら、臨也は目を細める。
「シズちゃんじゃないと勃たない」
「気持ち悪い事言うな」
「自分でも気持ち悪いよ。でもしょうがないんだ」
臨也は自嘲気味に笑った。
静雄はそんな臨也の顔を見たくなくて視線を逸らした。
「…バカな奴」
「シズちゃんのせいだから、」

責任取ってよね。




臨也に抱かれた後はいつもうんざりするぐらいの後悔の波が襲って来る。

はあ、と溜息を吐いて静雄はベッドから身を起こした。
隣にはこちらに背を向けて男が眠っている。寝息は聞こえないが多分眠っているのだろう。
静雄はベッドから下りようと、足をフローリングにつけた。
その途端、腕を引っ張られ、あっという間に柔らかなベッドの上に体が戻される。
静雄が驚いていると直ぐに唇が重ねられる。舌を差し込まれて、吐息さえも奪われて、性急過ぎるその口づけに静雄は体の力が抜けて行く。
「…っ」
抗議するように肩を押しやってやれば、やっと唇が離された。
「んだよ…起きてたのかよ…」
静雄の目元は赤くなり、瞳は生理的な涙で潤む。赤い唇が濡れて、扇情的だった。
「行かないでよ」
「…あ?」
「ここにいなよ」
臨也の赤い目は、真っ直ぐに静雄の目を捉えて離さない。
「……別にどこにも行かねえよ。ここ俺んちだし」
「いつも抱かれた後に煙草吸いに行くじゃないか」
「それくらいいいだろ」 
「嫌だ。ここにいてよ」
俺に朝まで抱かれてなよ。
臨也はそう言って静雄の体を強く抱いた。
「なんだよ。お前どうしたんだよ」
いつもと違う臨也に、静雄は少し戸惑う。恐る恐る臨也の背中に腕を回した。
「俺さあ、いつも不満だったんだよね。シズちゃんが直ぐにベッドからいなくなるの」
臨也は少し腕の力を弱めたが、静雄を離す気はないようだ。
「手前だっていつも背中向けて寝てんじゃねえか」
静雄は呆れて溜息を吐く。
この言葉に臨也は少し驚いた。
「なに、シズちゃん抱いてて欲しかったの」
「ちげえ」
体を離してまじまじと静雄の顔を見れば、ほんのりと頬が赤い。
「何でもっと早く言わないの」
「違うって言ってんだろ」
ああ、うざい。
静雄は舌打ちをした。
何でこいつ妙に嬉しそうなんだろう。ニヤニヤしてるし、本当に気持ち悪い。
「シズちゃんって意外にツンデレだよね」
「死ね」
悪態をつく静雄に笑って、臨也は再び静雄に覆いかぶさる。
「今日は朝まで抱きしめててあげる」
「…死ね」
「はいはい」
臨也は静雄の温かい裸体を抱きしめ、髪を優しく撫でた。



臨也はいつもの真っ黒なコートに腕を通すと、静雄を振り返った。
静雄は黒のスラックスに真っ白なワイシャツを羽織っただけの格好で、ソファーに座って煙草を吸っていた。
「シズちゃん」
名を呼んでやっとこちらを向く。不機嫌そうなその顔は、大抵の人間なら怯えるものだが臨也には通じない。
「なんだよ」
「俺帰るよ」
「さっさと帰れ」
煙草の煙を吐きながら、静雄は視線を逸らす。ソファーから動く気はないらしい。
臨也は軽く溜息を吐いてソファーまで近付いた。
静雄はそんな臨也を不審そうに見上げる。
「シズちゃん、これあげる」
臨也が何かを持って手を伸ばして来るのに、静雄は思わず空いている手を差し出す。チャリン、とその手に鍵が落とされた。
「…これ。こないだ返したやつだろ」
静雄は驚いて目を見開く。
「また持ってて」
もう返却不可だからね。
臨也は笑って静雄の髪を撫でると、優しく唇に触れるだけのキスを落とした。
「…行かないかも知れないぞ」
僅かに頬を染める静雄は、煙草を灰皿で揉み消す。
「シズちゃんは来るよ」
「なんでだよ」
自信満々に言う臨也を、訝し気に見上げる。
「Zippo取っておいてるから」
臨也は口端の片方を吊り上げた。静雄は驚いて目を丸くする。
「は!?捨てたんじゃなかったのかよ」
「隠してあるから探しにおいで」
あはは、と笑い声を上げ、臨也は今度こそ踵を返した。
靴を履く音がし、やがて扉が閉まる音が聞こえる。
静雄はハァ、と溜息を吐いて手の中の鍵を見つめた。
ダラダラと続いているこの関係も、どれくらい経つのだろう。
いつ終わるんだろうと思っていた。こんな惰性だけで体を繋げる行為に意味はあるのだろうかと思っていた。
ひょっとしたら、もしかして、考えたくはないけれど、そこにはちゃんと意味があって、静雄も臨也も身体を重ねているのかも知れない。
「…Zippo、取り返しに行かねえとな」
静雄はぽつりとそう呟き、手の中の鍵を握り締めた。





(2010/08/04)
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