吾輩は猫である 後編 にゃあ、にゃあ、にゃあ。 猫が遠くで鳴いている。 静雄は微睡みの中で、その声を遠くに聞いていた。 起きて、起きて、起きて──。鳴き声はそう言っているように聞こえる。 ──静雄、起きて。 誰かが自分を呼んでいる。早く、早く起きて。彼が行ってしまうよ。 にゃあ、にゃあ、にゃあ。 静雄はその猫の声に促されるように、ゆっくりと瞼を開けた。 薄暗い見慣れた木目の天井、気怠さの残る体と、まだ少し熱い下肢。静雄はぼんやりとした頭のまま、ゆっくりと布団から身を起こした。 汗で濡れたシーツが気持ち悪いものの、体は特にべたついてはいない。きっとあの男が後始末をしてくれたのだ──。静雄は瞬きを繰り返し、まだ温もりの残るシーツに目をやった。 臨也はいつも自分を抱いた後、深夜にそっと帰ってゆく。朝に静雄が目を覚ますと、隣にはもう温もりさえ残っていないのだ。何度も抱かれてそれを経験するうちに、静雄はすっかりそれに慣れてしまっていた。この心臓の痛みと共に。 だけど今は何かが違っていた。畳の上の猫は、まだ静雄を見上げ、にゃあにゃあと鳴き続けている。何かを静雄に訴えたいのかも知れない。 静雄はTシャツを身に付け、薄暗い室内を見回した。猫は静雄を追い越し、キッチンの端に走って行く。そちらは玄関がある方だった。 「臨也…?」 臨也はちょうど帰るところだったのだろう。いつもの真っ黒なコートを着た後ろ姿が、ぴたりと玄関先で動きを止める。 「臨也。」 静雄はもう一度はっきりと、臨也の名前を呼んだ。何故かその時、そうせねばならぬような気がした。 「──…起きたの?」 そう言って振り返った臨也は、いつもの笑みを浮かべている。けれどそれはどこかちぐはぐで、静雄にはなんだか普段の臨也とは違って見える。 「…帰るのか。」 「うん。」 静雄はチラリとテーブルの上に置いた時計に視線を送った。部屋が薄暗いせいで分かりづらいが、今の時間は夜中の3時くらいだろう。 「もう少しいろよ。」 何故そんな言葉が出て来たのか分からない──。静雄は自分でもそれに驚き、目を丸くする。しかしそれを言われた男の方は、更に驚いた顔をしていた。 「し、終電ももうねえしよ。」 静雄はしどろもどろになって言い訳を口にする。終電が無くったって、臨也ならタクシーへの金を出し惜しみしたりはしないだろう。実際、普段はタクシーを捕まえて帰っているはずだ。 自分が発した言葉に動揺したせいで、静雄は頬に熱が集まるのを感じた。何故、こんな馬鹿なことを口にしたのだろう。きっと臨也は馬鹿にするに違いない。性欲さえ解消されれば、臨也にはこんなぼろアパートに居る理由なんてないのだから。 「やっぱ今の、」 無しだ──と、静雄が言おうとしたその時、 「そうだね。」 と、臨也の少し高いテノールに言葉を遮られた。 「終電もないし、朝までシズちゃんちにいようかな。」 臨也はそう言うと、途端に踵を返して部屋へと戻る。静雄はそれに少し唖然としたが、慌ててそんな臨也の後に続いた。その更に後ろを、黒猫が追い掛けて行く。 静雄は臨也に気付かれないように、小さく息を吐いた。胸の鼓動がバクバクと早く、なんだか酷く落ち着かない。羞恥と照れのせいなのだろうか、こんな自分がむず痒くて居た堪れない。ひょっとしたら自分は、セックス以外で臨也が傍にいることを望んでいたのだろうか。 「その猫、賢いね。」 部屋の明かりをつけてから、臨也は畳に座り込んだ。視線をチラリと猫に送り、赤い双眸を僅かに細める。 「まるで人間の言葉が分かるみたいだ。」 それは、静雄も感じていたことだった。くろ(仮称)は、今まで見て来たどの動物よりも賢く、静雄の感情を汲み取ってくれている気がする。 「飼い主を探してるならさ、俺が飼うよ。」 「え…、」 臨也の言葉に、静雄は驚きで目を見開く。大して動物好きでもない癖に、臨也がこんな申し出をして来るのは意外だった。 「うちのマンションはペットOKだし、俺が飼うならシズちゃんも会いに来れるだろう?」 臨也は穏やかに笑い、猫の頭を優しく撫でる。にゃあ、と猫は甘えた声を出した。どうやらくろ(仮称)も、臨也を気に入ったらしい。 静雄はそれを複雑な思いで眺めていた。自分に懐いた可愛い猫を、天敵である男に預けるだなんて──。しかし臨也は金持ちであるし、家で仕事をしていることも多いと聞く。ならば、猫にとってはいいことなのかも知れない。 「…名前はどうすんだ。」 「シズちゃんはなんて呼んでたの。」 「くろ(仮称)。」 「……。」 臨也が呆れたように静雄を見る。そんな臨也に、「なんだよ。」と、静雄は唇を尖らせた。 「チェルナ、ライラ、リリィ、ケイト、ポール…ロックなんてのもいいね。」 臨也はつらつらと候補を上げていく。新羅が言った『黒ごま』や、『きくらげ』とは偉い差である。 「そう言えば新羅は、『チョビ』って呼ぶって言ってたな。」 「新羅はこういうセンスはないからねえ。」 あはは、と臨也が声を出して笑えば、静雄も釣られて笑ってしまった。思えば二人でこんな風に笑い合うのは、これが初めてだったかも知れない。 二人はそのまま朝まで他愛もない話をして過ごした。殺し合いも喧嘩もせず、二人でこんな風に穏やかに時が過ぎたのは奇跡に近い。きっと新羅やセルティがこれを知ったなら、卒倒するだろう。 明け方になり、太陽が顔を覗かせる頃、臨也は猫を連れて新宿へと帰って行った。静雄はこの古ぼけたアパートに一人になる。狭いはずの自分の部屋が、何故か広く感じてしまう。 誰も居なくなった静かな部屋。窓からは朝陽が入り込み、部屋の中は少しだけ明るい。外からは早起きの鳥たちの声が聞こえて来る。 ──寂しい、なんて。 臨也が帰ったせいか、猫がいなくなったせいか。 きっと、猫がいないからに違いない──。静雄はそう思うことにした。 この日から、静雄は良く新宿に出向くようになった。臨也に会う為ではない。猫に会う為だ。 新宿で会っている間は喧嘩もしなかったし、比較的セックスもせず──たまにはしていたけど──穏やかに時間を過ごした。 猫の体調をわざわざ新宿まで診にやって来た新羅は、驚き半分、揶揄が半分といった風で、静雄と臨也を見て笑っていた。高校の時からこうだったなら、きっと今の関係は変わっていただろうね──と言って。 そして静雄はやっと自覚する。 いや、認めただけなのかも知れない。この胸の痛みも息苦しさも切なさも執着も、全て全て全て、 ──俺は、臨也が、 「自覚したなら、君にしては上出来だ。」 ふふ、と笑い声を漏らしながら、新羅は眼鏡の奥の瞳を優しく細めた。 ここは新宿の臨也のマンション。今はその家主は仕事中で、この場には居なかった。テーブルの上には紅茶のカップが二つ置かれていて、これは別室にいる臨也の秘書が淹れてくれたものだ。 「お前は知ってたのかよ。」 不機嫌な顔で静雄が問えば、 「なんとなくそうなあって。」 と、新羅は屈託無く笑う。全く油断の出来ない男である。 静雄はわざと深く溜め息を吐いて、部屋の窓から見える青空を見上げた。空には白く薄いうろこ雲が広がっていて、いかにも秋の空といった風だった。それも後1ヶ月もすれば冬の空に変わるのだろう。 「告白はしないのかい?」 「するわけねえだろうが。」 新羅の言葉に、静雄は空を見上げたままそう答える。これは絶対に言わない──いや、言えるはずがなかった。口にしたら最後、臨也は静雄を軽蔑するに違いない。 「そっかあ…。案外いけるかもしれないのに。」 半ば独り言のようにそう言って、新羅はソファから立ち上がる。 「そろそろ帰るよ。」 「ああ。」 静雄も同じく立ち上がり、新羅を見送る為に玄関先まで付いて来た。その二人の後を、猫も走って付いて来る。 「その猫、名前決まったんだっけ?」 診察用の鞄を手にしながら、新羅が猫を振り返った。 「あ?、ああ。臨也が『チェルナ』って。」 「それで呼んで返事はする?」 「え?」 言われた言葉の意味が分からず、静雄は小さく首を傾げる。この猫は頭がいいし、自身の名前が分からないなんてことはないはずだ。 「試しに呼んで見るといいよ。じゃあね、静雄。」 新羅は屈み込んで猫の頭を撫でると、にっこりと笑って部屋を出て行った。猫はにゃあ、と鳴いて新羅を見送る。 「なんだありゃ…、」 残された静雄は、意味が分からず眉間に皺を寄せた。臨也が猫に名前を付けてから、もう2ヶ月足らず経っている。さすがに猫も名前くらいは覚えているだろう。 「自分の名前くらい分かるよな、チェルナ。」 静雄は部屋に戻ると猫の体を抱き上げ、わざとその名前を呼んでみた。が、猫は返事をしない。 「…チェルナ?」 試しにもう一度名を呼んでみるが、猫はやはり返事をしなかった。 「…なんだよ。」 まさか名前を勘違いしているのだろうか。一時期に静雄が『くろ(仮称)』と呼んでいたせいで、そちらで覚えているのかも知れない。 「『くろ』…?」 その頃の名前で呼んでみるが、それでも猫は返事をしなかった。 「『ライラ』」 「『リリィ』」 「『ケイト』」 「『ポール』…『ロック』…、」 色々な名前で呼んでみるが、猫はやはり返事をしない。ヘイゼルの綺麗な瞳で、ただじっと静雄を見上げているだけだ。 「ひょっとして、どれも名前違うのか。」 そう問うと、猫は答えるように「にゃあ」と鳴く。 どういうことだろう。臨也は普段、この猫を違う名前で呼んでいるということか。 ──…まさか。 静雄の脳裏に、先程の新羅の様子が思い出される。 『じゃあね、静雄。』 新羅は帰るとき、そう言って猫の頭を撫でていた。猫はそれに、にゃあと小さく鳴いて──。 ──まさか、そんなこと。 静雄は目を見開き、猫の顔をまじまじと見下ろす。心臓がばくばくと音を立て、顔に熱が集まってゆくのを感じた。 『ペットに好きな人の名前を付けるなんて、ロマンティックじゃない?』 なんて旧友に言われたのは、いつのことだったろう。 静雄は怖ず怖ずと、自分と同じその名前を口にする。 「…『静雄』?」 ──にゃあ。 その言葉に、猫は嬉しそうに返事をした。 「『静雄』」 ──にゃあ。 「『静雄』」 ──にゃあ。 「『静雄』」 ──にゃあ。 名前を呼ぶ度に、猫は小さく返事をする。これは私の名前、と主張しているように静雄には感じた。 「…んだよ…、」 静雄は猫を床に下ろし、その場に蹲る。顔が熱い、耳まで熱い。握り締めた拳は汗をかき、足は小さく震えていた。真っ赤になった顔を膝に埋め、静雄は早くなった鼓動を落ち着かせるのに必死だ。 ──なんだってんだよ、クソ。 恥ずかしかった。ただひたすらに恥ずかしかった。今まで生きて来て、こんなに恥ずかしかったことはなかった。そしてそれと同時に、酷く嬉しくもあった。だってそうだろう?、だってこれは、つまり──。 「どうしたの?」 突然後ろから声がして、静雄はびくりと肩を跳ねらせる。どうやら仕事を終えた臨也が、この部屋に戻って来たらしい。 「具合でも悪いの?、そんなところに蹲って。」 不思議そうに聞いてくる臨也に、静雄は前を向いたままぶんぶんと首を振る。今はまだ、臨也の方を振り返る勇気などなかった。きっと今の自分の顔は、林檎みたいに真っ赤なはずだ。 「シズちゃん?」 けれど臨也の方は、訝しげにこちらに近付いて来る。静雄がいつまでも床に蹲っているのだから、臨也が疑問に思うのは当たり前のことだろう。 ──なんて、聞けば。 静雄は口許を手で押さえ、近付いて来る足音に覚悟を決める。 この猫に付けた名前のことを、臨也になんて問えばいいだろう。臨也はそれになんて答えるだろうか。惚けるか、認めないか、それとも──。 静雄はゆっくりと顔を上げ、大きく深呼吸をした。 「シズちゃん──、」 やがて臨也は直ぐ後ろで立ち止まり、静雄の肩に手が掛けられる。 にゃあ。 猫の鳴き声が部屋に響いた。 2011/10/26
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