Shutting from the sky






 はあ、と深く溜息を吐いて、臨也は傍らのベンチに腰を下ろした。
 口から逃げ出した真っ白な息が視界を掠める。刺すような冷たい空気と、澄んだ高い青空。もうこの世界は冬なのだ。
 ──疲れたな。
 どんな精力的な人間だとて、働き詰めでは疲れる。例え、素敵で無敵な情報屋さんでも。
 臨也は再び小さく息を吐き、青い空を見上げた。臨也は普段、あまり空を見上げるようなことはしない。何かを見上げるより、見下ろす方が好きだからだ。空を見上げ、憧れるのは、地べたを這うように惨めな気がしていた。人は決して、空には住めないのに。
 ──ああ、そう言えばあの男は良く空を眺めている。
 ふと、脳裏に天敵のことを思い出した。
 授業中の教室や、誰もいない屋上で。あの金髪の男は、学生時代から良く空を眺めていた。たくさんのチンピラを返り討ちにした時も、ビルを半壊させた後も。
 今も空を眺めているのだろうか。学校を卒業し、会う機会もぐんと減り、臨也はあの男が空を眺める姿をもうずっと見ていない。会えば当たり前のように喧嘩だったし、あの鋭い目は臨也といる時は他を見ない。真っ直ぐに獲物を逃すまいと、臨也だけを見つめているのだ。臨也はそれに少しばかりの優越と、薄暗い喜びを感じていた。

 運がいいのか悪いのか──。

 臨也は目の前をゴミ箱が掠めるのに、深い深い溜息を吐いた。ガシャン!と、後ろの方で、それが地面に落下した音がする。

「いーざーやあああああ!」

 怒声の方を振り返れば案の定、今考えていた男がこちらを睨んで立っていた。人工的な金の髪にサングラス。昼間の公園に不釣り合いなバーテンダーの服装。そのこめかみにはくっきりと青筋が浮かんでいる。
「シズちゃん…俺は今疲れてるんだけど。」
 やれやれ、と殊更疲れたように溜息を吐いて、臨也はゆっくりとベンチから立ち上がった。会いたかった、と言えば語弊があるが、今考えていた男が現れたのは運命かも知れないなと思う。まあ、運命だなんてそんなもの、ちっとも信じてはいないのだけど。
「疲れてんなら死んだら楽になるぞ。今すぐ俺が殺してやろうか、なあ?」
 バキバキと指の骨を鳴らして、静雄は不敵な笑みを浮かべた。その細い体からは怒りのオーラが滲み出ていて、普通の人間ならそれを見ただけで震え上がるだろう。
「俺が死んだら悲しむ人間がたくさんいるからね。その人たちの為にも俺はまだ死ねないな。」
 芝居がかった様子で両手を上げ、臨也は口端を吊り上げてにこやかに笑った。臨也はどんな時でも余裕がある態度を崩さない。
「手前が死んだらみんな大喜びだろうよ。」
 静雄はそう言ったのと同時に、突如臨也に向かって走り出した。二人の距離は僅か10メートル程だ。
 臨也はそれよりもコンマ数秒ほど早く、踵を返してその場から逃げ出した。戦闘能力の差は歴然なのだから、臨也としては逃げて間合いを取るしかない。

 今日も追いかけっこのスタートである。



 宙を舞う自動販売機と、引き抜かれた道路標識。破壊されたビルの壁。倒れた街路樹と、凹んだ居酒屋の看板。池袋の名物であるこの追いかけっこは、周りにとって大迷惑だ。
 ──くそっ、疲れてるってのに。
 臨也は小さく舌打ちをし、廃ビルの影に隠れ込んだ。今日の静雄はいつもにも増してしつこい気がする。こちらが疲労しているから余計にそう思うのだろうか。
 静雄は隠れている臨也には気付かずに、路地裏の向こうに走り去ってしまった。これだけ走ったというのに、相手は息一つ切れていない。
 ──化け物め。臨也は小さく一人ごちる。
 はあ、と大きく息を吐き、臨也はそのまま路地裏に座り込んだ。僅かに首から頭に掛けて痛みを感じる。頭痛の前兆だろう。気分が悪い。
 早く家に帰った方がいい。こんな時に襲われでもしたらことだ。臨也の敵は、静雄だけではないのだ。
「おい。」
 突如、頭上から降って来た声に、臨也ははっとして顔を上げる。路地裏の入り口に、金髪の男が仁王立ちで立っていた。やはり自分は疲れのせいで、相当勘が鈍っているらしい。相手が直ぐ傍にいるのに、全く気が付かなかったとは。
「シズちゃん。」
 青い空を背にしてこちらを睨み付ける男に、臨也は愛想笑いを浮かべて見せる。
「参ったなあ。逃げ切れたと思ったのに。」
 袖口に潜ませたナイフを確認しながら、臨也はゆっくりとその場から立ち上がった。その途端にくらりと眩暈がするが、それを表には出さない。
「俺、今日は本当に疲れてるんだよねえ。見逃してくれないかな?」
 おどけた口調の臨也の言葉に、静雄は何も言わない。ただ無言で臨也をずっと睨んでいる。不思議とその目からは怒りを感じられず、臨也は内心で困惑した。
「シズちゃん?」
「…手前、具合が悪いのか。」
 低く絞り出すような静雄の声。声だけを聴いたなら、怒っているようにも思える。
「…まあ少し。」
 戸惑いながらも臨也が正直にそう答えると、
「そうか。」
 静雄はぶっきらぼうに頷き、そしてそのままこちらに背を向けて行ってしまった。
 後に残された臨也は、暫くぽかんとその背中を眺める。確かに見逃せとは言ったが、本当に見逃してくれるとは思わなかった。どうせまた追いかけっこが始まるのだろうと、諦めにも似た気持ちを抱いていたと言うのに。
 自分には怒りしか見せない筈の静雄が、珍しく同情でもしたとでも言うのか。怒りが籠もったあの眼差しを、こんなことであっさりと逸らしてしまうのか。ずっと憎しみ合って来た、この自分から?
 ──冗談じゃない。
 臨也は腹の奥底から、怒りがふつふつと湧き上がって来るのを感じた。例え疲労しているとは言え、あの男に同情されるなんて御免だ。こんな風に見逃されるくらいなら、殴られた方がまだましだと思った。
 臨也は路地裏を素早く抜け出すと、まだ見えている静雄の背中に向かって走り出す。青い空に白い雲。冷たい冬の空気の中で、吐く息が僅かに白い。体が疲れている筈なのに、臨也は必死に静雄の背中を追い掛ける。何をこんな必死に、とは思ったが、臨也の足は止まらなかった。
「シズちゃん。」
 後ろから腕を掴み、強引に振り向かせる。静雄の目が驚きで見開かれ、きょとんと可愛らしい顔になった。静雄のこんな表情を見たのは、臨也は初めてだ。
「なんだよ。」
「俺疲れているんだ。」
「…さっき聞いた。」
 静雄の眉間に皺が寄り、あっという間にいつもの不機嫌な顔に戻る。静雄はいつだって、臨也にはこの表情しか見せないのだ。
「だから癒してよ。」
 臨也はそう口にして、自分でも内心酷く驚いていた。こんなことを口にするつもりではなかったと言うのに、それは勝手に口を付いて出る。
「シズちゃんに癒やして欲しい。」
「…何言ってんだよ、お前。」
 驚きと怒りが表れていた静雄の瞳が、戸惑いと警戒で微かに揺れる。そう言えばこんな風に普通に会話をするのも随分と久し振りだ。自分達には会話なんて、ただの喧嘩の前哨戦に過ぎなかったのに。
 臨也は手を伸ばし、静雄の華奢な肩を強い力で掴んだ。間近にある静雄の顔は睫毛が長く、薄紅色の唇は柔らかそうだ。見開かれた茶色の瞳は真っ直ぐに臨也を捉え、そこにはいつもの憤怒も軽蔑もない。
 そのまま首に手を回して引き寄せれば、静雄の向こうに青い空が見えた。青く澄んだ高い空。こんな都会ではなく違う場所なら、もっと青く綺麗に見えるんだろう。
 臨也は目を閉じ、もう空を見るのはやめた。
 噛み付くように重ねた唇は、僅かに血の味がする。どこか唇を切ったのかも知れない。上唇を噛み、下唇を舐めて、ぬるりと舌を差し込んでやった。驚いた静雄が体勢を崩して後退るが、その腰に腕を回して更に引き寄せる。徐々に深くなる口付けに、臨也は興奮している自分に気付いた。静雄の唇は甘く柔らかで、貪る臨也の体は火がついたように熱い。
 パシッ。
 乾いた音がして、臨也の左頬に鋭い傷みが走った。臨也は眉根を寄せ、目の前の静雄を抗議するように見やる。
 静雄は怒りを露わにした目で、こちらを強く睨み付けていた。
「…なにすんだ。」
「何って、キス。」
「なんで。」
「知らないよ、そんなの。」
 臨也は打たれた頬もそのままに、わざと見せつけるように濡れた唇を舐めて見せる。
「したくなったからしたんだ。シズちゃんにキスしたら、疲れが取れる気がして。」
 そう言ったのは臨也の本心だったのだが、静雄はお気に召さなかったらしい。見る見るうちにこめかみには筋が浮かび、目は怒りで細く眇められる。ギリギリと歯軋りの音も聞こえ、握り締められた拳は小刻みに震えていた。
「人がせっかく見逃してやろうとしたのによぉ…。手前はよっぽど早死にしてえらしいなあ…?」
 どうやら静雄の怒りに再び火をつけてしまったらしい。
 臨也は小さく肩を竦め、瞳を猫のように細めた。口端をゆっくりと吊り上げ、唇で綺麗な弧を描いて微笑む。いつも通りの静雄の態度に、胸が高鳴り、喜びが湧き上がって来た。
「うん、シズちゃんはやっぱりそうじゃなくっちゃ。俺を見逃そうなんて、反吐が出るよ。」
「反吐が出るのは手前の意味が分からねえ行動だ。さっさと死ね!」
 唇を過剰なまでに拭い、静雄は臨也をきつい目でねめつける。その顔が少しばかり赤いのは、怒りのせいだけではないだろう。
「でもキスはなかなか良かったよ。シズちゃんの唇って甘いんだねえ。」
 袖口からナイフを取り出して、臨也はこれ見よがしに静雄に翳して見せる。この発言が静雄の怒りを増長させるのは分かっていたが、これは臨也の本音であった。静雄とのキスは、なかなか悪くない。
「黙れ。死ね。今すぐ息止めろ。つーか殺す。今すぐ殺す。」
 可哀想なくらい真っ赤になった静雄は、そのまま道路脇の標識に手を掛けた。それを合図にし、臨也は静雄からさっと距離を取る。この化け物相手には、近接した距離にいるのは不利だ。
 振り回される標識を避けながら、臨也は低く笑い声を漏らす。ああ、そうだ。やはりこうでなくては。平和島静雄は自分だけを見てればいい。他の物なんて見なくていい。空なんて見なくてもいい。ずっと自分だけを見て、自分のことだけを考えていればいいのだ。

 いつの間にか臨也の体は、疲れを感じなくなっていた。


(2011/10/02)
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