Lesson




 はらはらと落ちる黄色のイチョウ葉と、道を覆い尽くす赤や茶色の枯れ葉。時折吹く風は冷たく、見上げた先にある空は青い。まだらな鱗雲の向こうに、白い飛行機雲が見えていた。まるで空を二つに分けたみたいに一直線だ。
 静雄は椅子の背もたれに深く背中を預け、ぼんやりと外を眺めていた。静雄がいるこの教室の窓からは、ちょうど校門の辺りが良く見える。授業が終わったこともあり、次々と生徒たちがそこから帰路につく。残念ながらこれから補習授業がある静雄は、その光景を忌々しく見ているしか出来ない。
「じゃあ今日は先に帰るね。補習授業頑張って。」
 カバンにノートをしまい込みながら、新羅は静雄に同情めいた視線を送る。憐れんでいるような言い方なのに、その顔はニコニコといやに楽しそうだ。静雄は更に機嫌が下降するのを感じ、うんざりと舌打ちをした。
「あ、臨也だ。」
 新羅は窓の外を見つめながら、ますます静雄の機嫌が悪くなるような名前を口にする。静雄はそれを鬱陶しく思いながらも、新羅に釣られて再び外へと視線を移した。
 ブレザーが多いこの学校で、学ラン姿の臨也は酷く目立つ。左手に鞄を持ち、右側には臨也の取り巻きの女生徒たちを引き連れて。顔だけは良いせいで、あの男はモテるのだ。顔に性格の悪さは出ないらしい。
「あの中でどれが彼女なんだろうね?」
 不思議そうな顔で首を傾げる新羅に、静雄はまた小さく舌打ちする。
「全部だろ。それよりお前、帰らねえのかよ。」
「あ!そうだった。家でセルティが待ってるんだ。じゃあ、また明日!」
 補習頑張って!、と余計な一言をまた言って、新羅は教室を出て行く。
 バタバタと足音を立てて去る友人の後ろ姿を見送り、静雄は小さく息を吐いた。静かになった教室には、いつの間にか静雄しか残っていない。

 気怠い気分のまま視線をもう一度外に戻せば、もうそこには臨也の姿はなかった。





「どれが彼女かと言われると、どれも彼女ではないかな。」
 臨也は口角を片方だけ吊り上げて、新羅の問いに軽く肩を竦めた。右手には携帯電話を持ち、視線は電話の画面から外さない。
「わあ、臨也ってば最低だ。きっと彼女たちは恋人のつもりなんじゃないの?」
 新羅が呆れつつも笑って問えば、
「相手の思い込みなんて知ったことじゃないよ。」
と、辛辣な答えが返って来る。
「思い込みさせてる臨也にも問題があるんじゃない?ねえ、静雄はどう思う?」
 怖いもの知らずなのが、空気を読まないのか──新羅は先程から黙り込んでいる静雄の方を、笑顔で振り返った。
 静雄は話に興味なさそうに机に頬杖を付き、教室の窓から空を眺めていた。空は昨日と同じく秋晴れで、白いまだらな雲がゆっくりと流れて行く。今日は絶好の行楽日和である。
「シズちゃんに恋愛事を聞いたって分からないでしょ。」
 やっと携帯電話から顔を上げ、臨也は小馬鹿にしたように静雄を見た。その口調も表情も、嘲りが含まれている。
「手前がうぜえ奴だってことは良く分かってるぞ。」
 こめかみに青筋をいくつも浮かばせ、静雄もやっと臨也の方に視線を向けた。二人の視線が絡み合い、睨み合う。これが漫画かアニメなら、二人の間には火花が散っていることだろう。
「おや、それは嬉しいな。シズちゃんが俺のことを少しでも理解してくれるなんて。」
 パタン、と音を立てて二つ折りの携帯を閉じると、臨也は芝居がかった態度で両腕を上げた。
 いつの間にか教室には静雄、臨也、新羅の三人しかおらず、他の生徒たちは教室の外に避難していた。もしかしたら臨也が静雄のクラスに来た時点で、既に皆居なかったのかも知れない。
「大体、なんで手前が俺のクラスにいるんだよ。」
「シズちゃんじゃなくて、新羅に用があって来たんだ。」
「くだらねえ話ばっかしやがって。」
「どんな話をしようが、俺と新羅の自由じゃないかな?」
 睨み合う二人の間で、新羅はどのタイミングで逃げようかと考える。それとも何か口を挟んだ方がいいのだろうか。口を挟んだところで聞いてくれるだろうか。静雄は新羅が何を言っても、耳には届かないだろう。臨也ならば聞こえてはいるだろうが、あっさりと無視するに違いない。なら、逃げるが勝ち──。
「シズちゃんって、誰かを好きになったことあるの?」
「あ?」
「女の子とデートしたり、キスをしたりしたことあるの?」
 臨也は嘲りを含んだ口調のまま、嫌味ったらしく笑った。どんなに危機的な状況でも、臨也はこの余裕のある態度を崩さない。それが静雄の神経をますます逆撫でするのを分かっていて。
「…それくらい、ある。」
 人を好きになったことくらい。
 静雄は小さく呟いて、睨み合う臨也から目を逸らした。自分を見詰める赤い二つの目が鬱陶しい。こんな眼差し、大嫌いだと静雄は思う。
「へえ。それはそれは。」
 猫のように目を細め、臨也は大袈裟に肩を竦める。大仰なその態度は、まるで芝居のワンシーンだ。
「シズちゃんみたいな化け物と付き合うなんて、特異な女の子もいたんだねえ!」
 ピリッと、教室内の空気が張りつめたのが分かった。いよいよ静雄も我慢の限界が来たらしい。新羅は今こそ逃げ出そうと、身を屈めて走り出す。
「いざやあああああああああっ!」
 ガシャーン!
 机が宙を舞ったのと同時に、新羅は教室を飛び出した。どうやら逃亡は間に合ったらしい。取り敢えず安全だと思われる所まで走ると、ほっと息を吐く。
 ──全くもう、なんであんなくだらないことで喧嘩するかなあ。
 恐る恐る後ろを振り返れば、窓ガラスが廊下に飛び散るところだった。あのままあそこにいたら、新羅も少なからず怪我をしていただろう。臨也みたいに器用に避けるのは新羅には無理だ。
 ──まあ、あの二人の関係は微妙だから。
 相手の恋愛遍歴はきっと気になるに違いない。相手が自分以外を見て、話し、誰かを想っている事実は、さぞかし不快だろう。けれどそんな自分は認めない。気付かない振りをする。蔑み合って、憎み合って、それが自分たちの正しい関係だと思い込んでいる。
 新羅は深い溜息を吐くと、まだ衝撃音が響く教室に背を向けた。この分では暫く授業は行われないだろう。今日は天気が良いし、もう家に帰るのもいいかも知れない。
 軽い足取りで生徒玄関に向かう新羅の頭の中は、もう家で待つ愛しの彼女のことでいっぱいになっていた。




 ばたばたと廊下に足音が響く。方向転換をする度に、上履きがキュッと音を立てた。手摺りを飛び越え、階段を駆け下りる。額には汗が滲み、息が苦しい。
 昼間青く澄んでいた空は、今は夕陽で赤く染まっていた。放課後の校舎は薄暗く、灯りがなければ廊下は見えづらい。グラウンドからは部活動に励む掛け声が聞こえ、まだ校舎に残る者の笑い声もする。
 ──なんで、俺はこんなことを。
 静雄は徐々に走る足を緩やかにし、やがて廊下の真ん中で立ち止まった。はあはあと荒い息を整え、額に滲む汗を腕で拭う。
 もうどれくらいあの天敵を追い掛けているだろう。午後の授業が始まる前だったから、かれこれ数時間になる。ひょっとしたもう校舎内にはとっくにいないのかも知れない。追い掛けていた筈の黒い背中は、いつの間にか見掛けなくなっていた。
 あんな低俗な話題でムキになってしまった自分を恥じる。馬鹿馬鹿しい、あんな挑発に乗るだなんて。好きな奴などいない、と言えば良かったのだ。付き合った相手もいない、と。
 ムキになってしまった理由など、本当はとうに分かっている。だがそんなこと、決して認めるわけにはいかなかった。この関係は捻れに捻れ、最早修復不可能なのだ。何かきっかけがあって関係が変化するのなら、それはきっと悪い方にだろうと静雄は思っている。
 窓から入り込む赤い光は、寒々とした校舎の壁に色濃く影を作る。もう直ぐ行われる文化祭のポスターや、『廊下を走るな』と書かれた貼り紙が、何だかとても滑稽だ。どこか窓が開いているのか、冷たい風が頬を擽るのが心地良い。
 自分の教室に戻ろうか──。半壊されたあの場所は、まだ静雄の鞄が置いてある。早く帰って今日はもう休もう。明日登校したら、きっと朝から教師のお呼び出しだ。
 その時、急に横の扉が静かに開いた。
 伸びて来た白皙の腕に体を捕らえられ、扉の中に引きずり込まれる。「あ、」と声を上げる間もなく、静雄は薄暗い部屋の中にいた。そのまま乱暴に体を壁に押し付けられ、頭を強く打ち付けてしまう。いくら痛みに強いと言っても、痛いものは痛い。
「何す──、」
「シズちゃん。」
 文句を言おうと口を開いた静雄に、臨也の冷たい声が降って来る。驚いて顔を上げれば、臨也の赤い双眸が静雄を真っ直ぐに見据えていた。
「…なんだよ。」
 引きずり込まれた瞬間に、どうせ臨也だとは分かっていた。静雄に何かするのなら、臨也以外考えられない。逃げるわけでもなく、ナイフを突き刺すわけでもなく、こうして静雄を捕らえて一体何がしたいのか──静雄は眉根を寄せ、ねめつけるように臨也を見返した。
「好きな相手って、誰?」
「は?」
「俺の知ってる人間?」
 臨也の形の良い唇が、歪な形に吊り上がる。真っ白なその手は、静雄を逃がすまいと強く胸倉を掴んでいた。
「…手前には関係ねえだろ…。」
「じゃあ質問を変える。」
 眩しくもないのに目を細め、臨也は静雄を下から覗き込むように顔を近付けた。その顔はいつものように笑っているくせに、眼差しだけがいやに真摯だ。
「今まで付き合った子とは、どこまでいった?」
「どこまでって…。」
「セックスとか、した?」
 くつくつと喉奥から低い笑い声を漏らし、臨也は静雄の胸倉から手を離した。そしてその冷たい手で、静雄の白い首筋に緩やかに触れる。
「どんな風に相手に触れた?どんな風に愛を囁いた?…──ねえ、シズちゃん。」
 ──やってみろよ。
 臨也はそう囁いて、静雄の耳朶を唐突に噛んだ。
「…っ、」
 ピリッと小さな痛みが耳に走る。しかし痛みよりもぞくぞくとした何かが背筋を駆け抜け、静雄はびくんと体を小さく震わせた。「あっ…」と甘ったるい声が漏れ、羞恥に頬が赤く染まる。
「シズちゃんも、彼女にこんなことしたんだろう?」
 揶揄するように笑いながら、臨也の手は静雄の胸元に下りてゆく。カッターシャツの一番上のボタンだけを、わざとゆっくりと外してやった。
「ほら、俺にやってみなよ。キスぐらいは簡単だろう?…それともあの発言は嘘だったのかな?」
 学ランの袖から覗く真っ白な腕が、静雄の首に絡み付く。こうして密着すると、臨也の体臭と香水の香りが鼻を擽った。
「…手前は女じゃねえだろ。」
 寝言は寝て言え──。そう言って体を離そうとするのに、臨也の腕は絡み付いて離れない。力で突き放すのは簡単な筈なのに、静雄の体は壁に縫い止められて動けないのだ。
「ただの練習だよ。シズちゃんのテクニックを学ぼうってわけ。」
 臨也は口角を片方だけ吊り上げて、真っ黒な睫毛に縁取られた瞳を綺麗に眇めた。「教えてよ、平和島先生?」と優しく囁きながら。
 甘い毒のような臨也の声と、冷たい指先。静雄は目を逸らすことも瞬きも出来ず、眉根を寄せて臨也の顔を見つめ返すしかない。
 何が練習だ、くそったれ──。
 今すぐにこの目の前の男を張り倒してやりたい。けれどここから逃げ出すのはどうしても癪で、結局はこうして臨也の腕の中で息を潜めている。静雄は小さく悪態を吐き、せめてもの矜持で臨也を睨んだ。臨也はずっと笑っている。
 たかが、キスぐらい──。
 そう、たかがキスだ。静雄は自分にそう言い聞かせる。体の一部が触れ合うだけの行為。海外ではただの挨拶だ。
 静雄は臨也を間近で睨み付けたまま、ゆっくりと唇を近付ける。臨也の赤い目には静雄が映り、その瞼が閉じられることはない。甘い雰囲気などは皆無で、そこにあるのはギラギラとした眼差しと、張り詰めた空気だけ。
 重ねた唇は、存外に柔らかかった。臨也の唇は少しだけ冷たく、乾いている。ああ、なんだ、こんなものか──静雄は少しだけ冷めた頭で考える。臨也の香水の香りに混ざって、絵の具の匂いが微かにした。ここは美術室なのか、と、やっと静雄は気付いた。
「…これだけ?」
 唇が離され、冷たい臨也の声がする。嘲りの色が浮かんだ瞳。口端が意地悪く吊り上がる。
「ねえ、シズちゃん。これじゃあ小学生レベルだよ。」
 冷たい指先が静雄の頬を撫で、そのまま優しく耳朶を弄ぶ。長い睫毛が瞬いて、獰猛な光を宿した双眸が静雄を見た。
「俺が教えてやろうか。」
 静雄の後頭部に手を回し、金髪を鷲掴みにすると、臨也は力強く静雄を引き寄せた。
「…っ、」
 静雄が驚きで目を見開くと同時に、噛み付くように口付けられる。薄く開いた唇から、直ぐに臨也の舌が口腔に入り込んだ。歯列を舐められ、頬の内側に舌が這う。まるで生き物みたいに蠢く舌に、体の奥の、ずっとずっと奥が痺れるように疼く。
「…は…んっ、」
「ちゃんと鼻で息しなきゃ、苦しいよ。」
 息も絶え絶えに喘ぐ静雄の耳許に、臨也は笑いを含んだ声で囁く。それに言い返そうとした静雄の唇を、臨也の唇がまた塞いだ。
 舌を絡ませ合い、溢れた互いの唾液を啜る。それは勿論甘いはずもなく、どこか口腔を切ったのか、僅かに血の味がした。
「──ほら、シズちゃん。俺の首に腕を回して。」
「誰…、がっ」
 崩れ落ちそうな体をやっと支え、静雄は荒い息を吐く。臨也にしがみつくなんて、死んでも御免だ。飲みきれなかった唾液が顎を伝い、静雄の制服に染みを作った。それを拭う余裕さえ、今の静雄にはない。
「まだ終わってないのに。」
 開いたカッターシャツの隙間に手を差し入れ、臨也は静雄の鎖骨をゆっくりと撫でる。硬くしなやかな骨は、薄い肉によって守られていた。温かく滑らかな静雄の肌は、漂白されたみたいに真っ白だ。
 静雄の顎を伝う唾液を、臨也はその赤い舌で下からねっとりと舐め上げる。濡れた柔らかな下唇を唇で食み、その間にシャツのボタンを全て外してやった。顕わになった白皙の肌が眩しい。
 晒された肉のない静雄の腹を、臨也の冷たい手が撫で上げる。静雄はそれにびくりと体を揺らし、唇を強く噛み締めた。この手を払って逃げ出すことは簡単なことなのに、何故自分はそうしないのだろう──。
「シズちゃん──、」
 静雄を呼ぶ、甘ったるい臨也の声。きっとこれと同じ声色で、あのたくさんの女たちの名を呼ぶのだろう。気持ちが悪い、反吐が出そうだ。
「腰、上げて。」
 臨也の言うとおりに腰を上げれば、カチャリとベルトのバックルを外された。腰から引き抜かれた皮のベルトは、美術室の床に落とされる。
 従順に臨也の言葉に従い始めた静雄を、臨也がどう思っているかなんて知らない。きっと嘲り笑っているのだろう。そんなこと、確認しなくても分かりきっていた。静雄自身、今の自分を滑稽だと思うからだ。
 薄暗い美術室の扉の向こうから、居残っている生徒たちの笑い声がする。パタパタと走る上履きの音や、微かに聞こえる話し声。たった扉一枚隔てた向こう側は、静雄たちが普段いる日常なのだ。今、静雄と臨也が迷い込んだこの場所は、違う次元にある異世界みたいなもの。
「こうして体を愛撫して、」
「あ…っ、…は…ん、」
「耳許に愛の言葉を囁いてやればいい。」
 体中を這う臨也の指先は、いつの間にか熱を灯している。静雄は小さく体を震わせて、とうとう臨也の首に腕を回した。
「『好きだよ。』」
 熱い吐息と共に囁かれる嘘の言葉。
 静雄はその言葉を頭で反芻しながら、やはり関係は悪い方に変化したのだ──と、諦めに似た感情を抱いていた。



(2011/09/29)
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