『どうして』




ずっと弄んでいた青色の百円ライターが、するりと指の間からコンクリートの床へと落ちた。カツン、と些か甲高い、嫌な音が周りに響く。
静雄はぼんやりとしていた自身に舌打ちをし、身を屈めてそれを拾おうと手を伸ばした。が、そのライターを掴もうとしたその瞬間、それはあっさりと他者に拾われてしまう。学ランから覗く、白皙で華奢な手によって。
静雄は顔を上げ、直ぐに苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。ライターを拾ってくれた目の前の男は、この炎天下の屋上でも酷く涼しげな顔をして立っている。薄い灰色のコンクリートの床は、太陽の光を反射して随分と熱かった。
「授業をサボって屋上で喫煙とか、絵に描いたような不良だね」
臨也は器用に口端を片方だけ吊り上げると、わざと揶揄するような笑い声を立てた。赤みがかったその瞳を三日月のように細め、造型が整った顔に浮かぶその笑みは、まるで猫のようだと静雄は思う。
「まだ吸ってねえよ」
そんな臨也の手からライターを奪い返し、静雄はそれをさっさと制服のポケットへと仕舞った。たった百円の在り来りなライターだったが、臨也にそれを持たせたままなのは嫌だった。自分の所有物をこの男に奪われるのは、例え塵一つだとて気に入らない──否、恐怖を覚えてしまう。その得体の知れない恐怖の理由は、静雄自身にも説明出来ないけれど。
「吸ってなくても、煙草を所持しているだけで停学処分だよ。気をつけなよ、君は学校側から疎まれているんだから」
「うるせえよ」
そんなことは臨也に言われるまでもなく分かっている。学校側は『停学処分』どころか、静雄にはさっさと退学し、学校を去って欲しいだろう。これ以上問題を起こし、校舎や備品を破壊されたくないに違いない。
「どうせ、あと半年ちょっとだろ」
秋が来て冬が来て、春が顔を覗かせる頃には、静雄はこの学校を去るのだ。当然、目の前にいる同級生のこの男も。
人の一生のうち、『若者』の時代は短く、更に『学生』の時代はもっともっと短い。だから数年後には、この学生時代を懐かしく思ったりするのだろう。大人になった自分など、今は全く想像つかないけれど。
「その『学生』の話だけど、」
いつもより低めな臨也の声に、静雄はゆっくりと顔を上げる。真上にある太陽のせいで、互いの顔にはほんの少し影が出来ていた。だが臨也の真摯な表情は、はっきりと見て取れる。
「進学しないんだって?」
──やっぱりその話か。
尋ねられた内容に、静雄は内心で舌を打つ。臨也がここに来た時から、何となく予感はしていた。先週の放課後に、進路について教師との面談があったばかりだからだ。
静雄はそれになんと答えるるべきかを悩み、数秒間ほど黙り込んだ。その間にも灼熱の太陽はじりじりと体を焼き、額に滲んだ汗が顎を伝って床へと落ちる。
「…勉強したくねえからな」
やっとのことで搾り出した答えは、酷く低俗で下らないものだった。しかし半分は、静雄の本音でもある。
静雄にとって学校で教わる授業内容は、人生に於いて殆ど役に立たないと思っているからだ。
「シズちゃん、成績悪くないじゃないか」
それに対しての臨也の返事は、静雄には酷く冷たく感じられた。臨也が静雄の言葉を信じていないのは明らかで、その赤い目は非難するようにこちらを見遣る。
「実は勉強がそんなに嫌いじゃない癖に」
「…んなことねえよ」
静雄だとて、テストや授業が好きだとは思ってはいない。ただ数学や物理のように、自身で計算して答えを導き出すような科目は得意ではあった。…そう、確かに静雄は、勉強が嫌いなわけではないのだ。
「…新羅だって進学しねえだろ」
論点をずらす為に、同級生である旧友の名前を出して見る。あの変わった幼馴染みは、高校を卒業したら直ぐに闇医者になるのだと言う。学年一位の成績の癖に、有名大学を受験しないのだ。学校側はそれを、さぞかし苦々しく思っていることだろう。
「俺が今話しているのは、君のことだよ」
臨也の声のトーンが、またひとつ下がった気がした。
静雄はそれに再び黙り込み、眉根を寄せて臨也をねめつける。臨也は何がそんなに気に入らないのだろう──たかが静雄が進学をやめたぐらいで。
大学なんて、何となく行っている奴らばかりじゃないかと、静雄は思っている。将来の目標も特に無く、ただ遊ぶことが目的で、授業をサボり、平気で留年し、バイトや合コンに明け暮れる──そんなマイナスのイメージしか、静雄にはないのだ。そんな所に行くくらいなら、高卒の方がマシだと半ば本気で思っていた。
「シズちゃんが進学しないなら、俺も受験をやめよう」
「は?」
さらりと告げられた言葉に、静雄は思わず目を見張る。まじまじと目の前の男を見れば、彼は涼しげな顔をしてこちらを見返していた。
「何言ってんだ。手前、成績はいいだろ」
臨也はこの高校に入学してからずっと、新羅と学年首位の座を争って来た。つまりは新羅と同じく、有名大学を狙えるくらいの成績を修めているということだ。そんな臨也まで進学をしないとなると、学校側はますます頭を抱えるに違いない。
「元々、シズちゃんと同じ大学に行くつもりだったんだ。だから君が行かないなら、意味がない」
臨也はそう言って、混乱した様子の静雄を見て笑う。唇の端を吊り上げて、いつもの厭な笑い方を浮かべていた。
太陽は相変わらず暑く、校庭の木々からは蝉時雨が聴こえて来る。青く広い空の向こうには、やけに大きな白い雲が見えていた。コンクリートから照り返す太陽の熱が、静雄の思考をどんどん奪ってゆく。暑くて怠くて──上手く思考が働かない。
「…どうして」
暫く無言の時が過ぎ、やがて囁くように発した静雄の声は、酷く掠れていた。
──どうしてお前はいつも、俺にそんなに執着するんだ。
ぐるぐると疑問が頭を駆け巡る。ずっとずっと思っていて、聞けずにいたことだ。これを聞いて、返って来る答えが怖くて──。
だから静雄は、それ以上は何も言えずに黙り込む。答えを聞いてしまったなら、もう後戻りが出来ない予感がした。
「どうして?」
しかし静雄の低い呟きは、臨也には正確に聞き取れたらしい。
「どうして、なんて今更だ」
低くくぐもった笑い声を漏らし、臨也は静雄の伏せられた顔をじっと見詰めた。
暑く照り付ける陽射しも、煩い蝉の大合唱も、静雄には何も聴こえない。今静雄が感じているのは、この目の前の男のことだけ。臨也の衣擦れの音、何気ない体の動き、唇から漏れる息遣い。臨也の一挙一動が、静雄を追い詰め、息苦しくしてゆく。
ゆっくりと臨也の唇が静雄の耳許に近付き、吐息がふわりと耳朶に触れた。渇いた唇が耳の縁を僅かに掠め、静雄はビクッと体を震わせる。
言うな、言うな、言うな。
頼むからそれを、口にしないでくれ。
耳に臨也の温度を感じながら、静雄はぎゅっと強く目を瞑った。
「──シズちゃんこそ、どうして俺から逃げるの」
臨也の耳障りの良いテノールが、静雄の耳に直接吹き込まれる。その言葉は静雄が覚悟していたそれではなく、安堵と不満と失望と──複雑な感情が一瞬にして静雄の胸に広がった。
「…別に、逃げてなんか…」
答える静雄の声は更に掠れ、語尾が僅かに小さくなる。
「そうかな?」
臨也の冷たい指先が、熱くなった静雄の頬に触れた。
思わず静雄が顔を上げれば、赤い真っ直ぐな瞳と目が合う。
「まあ、…シズちゃんが逃げても俺は、」

──追うだけだ。

臨也はそう言って、また薄く笑った。
その熱に浮された声と瞳を見ただけで、静雄は全てを悟る。例え臨也が『それ』をわざと口にしないのだとしても、全身全霊で『答え』を静雄に伝えていた。それこそが臨也の狡猾で残酷な本質の顕れであり、その子供のような執着心はいっそ純粋でさえある。

静雄が進学を辞めたのは、そんな臨也の執着から離れようと思ったからだった。進学するのなら、臨也はきっと自分と同じ大学を選ぶだろう。ならば進学しなければ、今よりも離れられる──。そんな風に考えた浅はかな自分を、静雄は今はほんの少し後悔している。
静雄にとって臨也の執着は恐ろしく、そしてそれに慣れてゆく自分が怖かった。自分がひた隠しにするこの感情を、臨也によって暴かれ、露顕するのが嫌だった。

臨也の腕が静雄の腰に回され、逃がさないとでも言うように強く抱き寄せられる。静雄はそれに特に抵抗もせず、ただ黙ってされるがままになっていた。鼻先に臨也の香水と汗の匂いがして、体の熱が上がってゆく。
──…俺は、恐ろしい。
臨也に抱き締められ、静雄は緩やかに目を閉じた。
「シズちゃんは俺のものだろう?」
臨也の甘いテノールが、静雄の鼓膜を優しく震わせる。その手は蜂蜜色の髪の毛を緩やかに撫で、吊り上げた薄い唇は汗ばんだ静雄の首筋へと寄せられた。
ちくりと首筋に刺すような痛みが走り、静雄は微かに身を震わせる。首に歯を立てられたのだろう、痺れるような甘い痛みが項に広がった。ぞくり、と体の奥底から、昏い情慾が湧き上がって来る。
「だからずっと、俺の傍にいればいい──」
臨也は優しいテノールでそう言って、静雄の首筋から体を離した。手は静雄の腰に置いたまま、互いの目と目を間近に合わせる。臨也の双眸は、強く、昏く、そして射るように静雄を見詰めていた。

──…俺は、自分が恐ろしい。

臨也の執着や嫉妬や執念を恐ろしく感じながら、それに歓喜し、安堵している自分が、静雄には一番恐ろしかった。臨也だけではない、静雄だってこの男に執着や嫉妬や執念を感じているのだ。多分そんなこと、臨也にはとっくにお見通しなのだろうけど。静雄のこんな浅ましい感情など何もかも承知していて、きっと臨也はわざと『それ』を口にしないのだ。
──ああ、なんて厄介なのだろう。
思わず舌打ちをしそうになって、寸前でそれをこらえた。逃げ出したくても、この目の前の男はどこまでも追って来ると言う。臨也がそう宣言したのなら、きっと実行されるだろう。静雄は半ば諦観しながら、小さくそっと溜息を吐く。
そんな静雄の内心を読んだのか、こちらを見る臨也の目が愉しげに眇められた。腰に回されていた手がするりと伸びて、静雄の頬に添えられる。
「『どうして』──、」
臨也は口端を吊り上げ、親指を静雄の渇いた唇に触れた。まるで壊れ物を扱うように優しく撫でられ、静雄は何度も瞬きをする。
「どうして俺は、君を──」

こんなにも好きになってしまったんだろう?

言葉の途中で唇が重ねられ、それは静雄の耳には届くことは無かった。


(2011/08/13)
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