怯えた声で愛の言葉を


朝起きて静雄は、まず真っ先に顔を洗った。いつもの衣服に着替え、トースターで食パンを一枚だけ焼く。焼けたそのパンにバターをたっぷり塗って、時間があれば目玉焼きやベーコンも調理して食べる。パックの牛乳をコップ一杯だけ飲んで、食べ終わった食器を水が溜まったボウルに入れて、付け置きする。毎日繰り返される、静雄の朝の日常だ。
歯を磨き、髪型を整え、サングラスを掛けて、さあ出掛けようとした時に、不意にリビングに誰かが入って来た。土足で生活する形式のこの家は、靴のせいで足音が響く。入って来た人物は今はスリッパなのだろう、歩く度にパタパタと軽快な音がした。
静雄はそちらを見ない。後ろから気配と物音がするのを、なんとなく感じているだけだ。手にした鍵を手の平に握り込み、さっさとリビングを後にする。急がねば仕事に遅れてしまう。この家を出たら新宿駅に行き、池袋に行く為に電車に揺られなくてはならない。
その人物はキッチンに入って行ったようだ。キュッと蛇口を捻る音がし、続いて水が流れる音がした。水でも飲んでいるのだろうか。コツン、とグラスがシンクに置かれたらしい音もした。
珍しいな、と思う。いつも静雄が家を出る時、この人物はまだ眠っているのだ。ひょっとしたら静雄を見送る為に起きたのだろうか──いや、それは有り得ないか。
静雄はポケットに鍵を入れ、マンションから静かに出て行った。




臨也は欠伸をし、また布団に潜り込もうか悩んだ。昨日も深夜までパソコンで情報収集をしていて、まだ睡眠時間は足りていない。夕方にはとあるクライアントと約束していて、他の街に出掛けなくてはならないのだ。舐められない為にも、顧客に寝不足の顔を見せるわけにはいかなかった。
シンクの中にある大きなボウルに、食器が付け置きされているのが目に入る。牛乳を飲んだであろうグラスと、白い皿が一枚。ボウルに入れる前に皿を流さなかったのだろう、溜まった水には細かなパンの屑が浮かんでいる。臨也はそれに、不快そうに眉根を寄せた。
サイドボードからグラスを取り出すと、蛇口を捻って水を出す。あまり水道水を飲むのは好きではないけれど、寝起きの一杯くらいは構わないだろう。一口だけ飲めば、水は意外に冷たかった。
廊下の向こうで、バタン、と扉が閉まる音がする。続いて鍵を施錠する音も。彼が出て行ったのだ──と、臨也は直ぐに察した。毎日毎日、律儀に同じ時間に彼は出て行く。アングラ的な仕事の癖に、まるでサラリーマンみたいだ。
臨也はキッチンを出て、リビングを見回す。微かに残る、パンを焼いた匂いが気持ち悪い。はあ、と大きな溜息を吐くと、臨也はベランダに続く窓を全開にした。
見上げた空は、嫌になるくらい快晴だった。




喧嘩の理由なんて、いつだって些細なことだ。
静雄は煙草を口に銜え、サングラスの奥の目を細める。いつだって明るい池袋の街は、サングラス越しでも眩しいくらいだった。まだ昼間だというのに、如何わしい店にはネオンが点灯している。電気代の無駄だな──静雄は冷えた頭で思った。
臨也との付き合いは、高校からで約十年。こんな関係になってからは数年経つ。こんな関係、とは、所謂『恋人』という反吐が出る関係だ。憎み、殺し合いをして来た『天敵』だった頃から比べると、嘘のように穏やかな関係になっていた。
一年の始めは一緒に初詣に行き、甘酒を飲んで、おみくじを引いた。今年のおみくじは自分が小吉で、臨也は大吉だったのを静雄は覚えている。同じ月に自分の誕生日があり、その日も一日中一緒に過ごした。プレゼントを貰ったし、生クリームたっぷりのケーキも食べた。静雄は甘い物は好きだったので喜んだが、臨也は複雑な顔をして食べていた。バレンタインには無理矢理チョコレートを買わされて渡し、ホワイトデーには有名店のスイーツがあちらから返ってきた。春には夜桜を見に行ったし、新羅の誕生日も一緒に祝ってやった。ゴールデンウイークには臨也の誕生日があり、その日も一日中一緒にいた。雨の時期はたまに相合い傘もしたし(不本意ながら)、夏は一緒に土手で花火を見てラムネを飲んだ。秋は紅葉を見に旅行に行き、冬はクリスマスを家で過ごした。年末は互いに忙しかったけれど、一緒に紅白を見て年を越せた。
そんなことが繰り返され、それが当たり前のことになり、感謝の言葉も感動も薄れ、ただ行事を消化するだけになる。そうやって怠惰や倦怠の中で、臨也に対する不満や不安がどんどん膨らんでいった。
臨也は俺のどこが良いのだろう。俺のどこが良くて一緒にいるのだろう。こんな風に同性である自分と一生を過ごし、本当にいいのだろうか──。
胸に根付いたこの不安は、少しずつ大きくなってゆく気がした。




ピッ。
何度目かのエラー音に、臨也は忌ま忌ましげに舌打ちをした。もう作業をする気にはなれず、キーボードをそのままに立ち上がる。作業する時にだけ掛けている眼鏡を外し、眉間を指先で何度か押す。自身が考えているよりもずっと、目と体は疲れているようだ。無意識に深く溜息が出て、首を動かせば僅かに骨が鳴った。
「波江さん、お茶」
気怠げにそう言えば、同じく気怠そうに秘書が顔を上げる。
「さっき入れたばかりじゃない」
「そうだったっけ?」
言われてデスクを見れば、確かに白いティーカップが置かれていた。殆ど口を付けていないそれは、もう湯気は上がっていない。
「あなた、今日ずっと機嫌が悪いわね」
呆れたようにそう言って、優秀な助手はキッチンへと歩いてゆく。そう言えばボウルに入っていた皿はどうしただろう。この助手が洗うわけがないから(彼女は仕事で使われたカップしか洗わない)、家主が洗うしかないのだ。朝に使ったのは静雄なのだし、自分が洗ってやる気などない。
「平和島静雄と喧嘩でもしたの?」
やがて新しいティーカップに紅茶を淹れ、トレイに載せて助手が戻って来た。それにはたっぷりのミルクと砂糖が入っていて、臨也は僅かに眉間に皺を寄せる。
「紅茶はストレートがいいんだけど」
「甘い物でも飲んで落ち着いたら?、今のあなた、いつもよりみっともないわよ」
文句を言う臨也に対し、波江はぴしゃりとそれを封じ込めた。体制が悪いことをはっきりと言われ、臨也としては黙り込むしかない。八つ当たり気味に泡が立つほど紅茶を掻き混ぜれば、冷ややかな視線を向けられてしまった。仮にもこちらは雇い主だと言うのに、酷い扱いだと思う。
一口だけ口に含んだ紅茶は甘く、臨也の普段好む味には程遠い。一体この助手は砂糖をいくつ入れたのだろう。この味は自分よりは、静雄が好む甘さである。皮肉のつもりなのだろうか。臨也は再び小さく舌を打った。
「そんなに苛々するなら早く謝りなさいよ」
「あっちが悪いのに?」
臨也にしては乱暴にカップを置く。中の紅茶が飛び散り、ソーサーを酷く濡らしてしまった。ソーサーに添えられたティースプーンが、衝撃で床に落ちる。
「そのまま別れることになっても知らないわよ」
波江は突き放すように冷たく言い、これ以上の会話は終わりだとばかりにパソコンに向き直った。カシャカシャとキーボードを叩く音だけが部屋に響く。
──別れる?
その言葉に、臨也は眉根を寄せた。
有り得ない。有り得る筈がない、別れるなど。この胸を締め付ける憎しみと切なさに、もう何年苦しんで来たことか。やっとその感情の名を認め、自覚し、紆余曲折あって、相手を手に入れたのだ。今更それを手放せるわけがない。
はあ…、臨也は大きく溜息を吐く。いつになく狭量な自分に、酷く情けない気分だ。こんな風に自分に余裕がなくなるのは、彼が相手の時だけだけど。
中味が零れて濡れたカップを手に取り、臨也はまたそれを一口飲んだ。温かく、甘いミルクティーの味。この味は好きではないけれど、これを好む彼のことは好いている。
「…出掛けて来る」
臨也は秘書に一言そう告げ、財布を片手に部屋を出た。背中には秘書の冷たい視線を感じていたが、それに気付かない振りをする。今の臨也の頭の中には、あの金髪の男の機嫌をどう取るか──、ということしかなかった。




静雄が仕事を終えて帰って来ると、家中が静かで真っ暗だった。どうやら家主は現在家にいないらしい。静雄はそれに安心すると、ほっと小さく息を吐く。サングラスを外し、いつものバーテンダーの衣服を脱ぐ。真っ白なTシャツとジャージの下、というなんともラフな格好に着替えた。
何か飲もうとキッチンに行けば、あの男が水を飲んだグラスは片付けられている。残っているのは、静雄が朝食を食べた皿とグラスだけ。静雄はそれに舌打ちをしながら、喉を潤す前に食器を洗った。グラスと皿が一枚だけだったので、それは簡単に終わる。
家の中はいやにシンとしていた。壁に掛けられた時計を見れば、もう直ぐ針は7時を指すところだ。それを見た途端に体が空腹を訴え始め、静雄は腹を摩りながら冷蔵庫を開けた。冷蔵庫の淡い光の中で、ちょうど同じ目線の高さにプリンが置いてある。静雄が大好きな、某有名店のなめらかプリン。
──こんなの朝はあったっけ?
静雄はそれを手にし、しげしげとプリンの瓶を見た。するとプラスチックの蓋に、クリーム色の付箋紙が一枚貼ってある。

『ごめん』

付箋紙に書かれたその言葉に、静雄は驚きで目を丸くした。滅多に見ることがない、臨也の字だ。たった三文字でも、静雄がその字を見間違えるわけがない。
『ごめん』って──。
昨日の喧嘩のことだろうか。あの臨也が自分にそんな謝罪するとは──静雄は驚きを隠せなかった。だってあれは、自分が悪かったのだ。同性である臨也との関係を不安に思い、一方的に八つ当たりをした。臨也に愛されている自信がなくて、けれど本人にはそれを言えず、悶々と苦しんで──。
静雄は顔を手の平で覆い、へなへなと冷蔵庫の前に座り込んだ。
本当に自分は最低だ。謝るべきなのは自分の方なのに、臨也から謝らせるなんて──。自己嫌悪すると共に、自分がいかに臨也に愛されているかを静雄は知った。わざわざ自分の為にプリンを買った臨也を思い、浅ましくも喜びで胸が震えてしまう。
ああ、もう。俺は大馬鹿者だ──。
静雄はゆっくりと立ち上がり、リビングで充電中だった携帯電話を手に取る。掛け慣れた電話番号を呼び出し、通話のボタンを押した。
自分からも謝ろう。謝って、自分の気持ちを素直に伝え、──そして一緒にプリンを食べるのだ。
心臓がドクドクと鼓動を早め、電話を握る指先が微かに震えた。何度目かのコール音がし、相手が電話に出る。
『──はい』

静雄はふう、と深呼吸をすると、口を開いた。

「臨也?、俺──」


(2011/07/23修正)
Title 確かに恋だった
×