7月7日、晴れ




湿気がある生温い風が吹き、静雄の金の髪がふわりと揺れた。
もう直ぐ日付が変わりそうな時間帯のせいか、静雄のアパートがある道は人通りが少ない。道路脇には小さな街灯が灯り、静寂が辺りを包んでいた。そんな静けさの中で、コツコツと静雄の靴音だけがアスファルトに響く。
静雄は突然立ち止まると、ポケットから煙草の箱を取り出した。そのうちの一本を口に銜え、先端にジッポーで火をつける。そのまま深く煙を吸い込めば、立ち上った紫煙が白く視界を覆った。
見上げた夜空には星が瞬き、白い月がぽっかりと浮かんでいる。残念ながらこの都会の空では天の川なんて見えないけれど、あの空のずっと向こう側では彦星と織り姫が会っているのかも知れない。彼らにとっては一年ぶりの逢瀬なのだし、きっと楽しんでいることだろう。
一年に一度しか好いた相手に会えぬというのは、一体どういう気持ちなのだろう──。
静雄はガードレールに腰掛けると、吸い込んだ紫煙を吐き出した。真っ白な煙は風に流れて消え、燃え尽きた灰は地面に落ちる。
一年に一度しかないこの日、雨が降ったら彼らは会えないのだという。新暦の7月7日は東京は大抵梅雨空で、気持ち良く晴れる日は殆どない。そういえば去年も一昨年も、確か雨だったような気がする。
静雄は煙草を口に銜えたまま小さく息を吐くと、街明かりで明るい夜空を見上げた。
会いたい、会いたい、会いたい──。
会えぬ日は、そんな風に思って焦がれるのだろうか。
会いたくて会いたくて会いたくて、胸が苦しくなったりするのだろうか。
今の自分のように──…。静雄は夜空を見上げながら、幼なじみとの会話を思い出していた。





「最近、臨也を池袋で見ないねえ」
冷たい麦茶をグラスに注ぎ、新羅は静雄の前へそれを差し出した。普段はコーヒーばかりのこの家も、夏は煮出した麦茶になる。
「噂もばったり聞かなくなったし、仕事が忙しいのかな?」
眼鏡の奥の目を細め、新羅はズズ…と音を立てて麦茶を飲んだ。その拍子にグラスの中で氷が転がり、カランと涼しげな音を立てる。
「あいつが居ない方が、この街は平和だろ」
静雄は無表情なままそう言い放ち、手にした麦茶を一気に喉に流し込んだ。夏の暑さで渇いた喉には、冷たい飲み物は心地好い。
「ま、確かに」
ははは、と新羅は声を上げて笑い、静雄の言葉に同意した。街で起きる大抵の事件に、あの男は一枚噛んでいるのだから。
「じゃあ、静雄も最近臨也には会ってないんだ?」
空になった静雄のグラスに再び麦茶を注ぎながら、新羅はにこにこと聞いた。
「別に用もねえしな」
「そっか」
ほんと、素直じゃないなあ…。無愛想に答える静雄に、新羅は内心苦笑する。
会えなくて寂しい、って顔に書いてあるよ?
──なんて口にしたら、静雄は烈火の如く怒るのだろう。一発くらい殴られるかも知れない。そんなことを思いながら、新羅はまた麦茶を一口飲んだ。
「──そういえば、今日は七夕だね」
ちらりと壁に貼られたカレンダーを見て、新羅は話題を変える。
「七夕?…ああ、そういや今日は7月7日か」
日本人で七夕を知らない人間はいないだろう。元は中国からの伝承なのだそうだが、東北地方では祭りもあるくらいだ。
静雄は新羅の言葉に頷き、窓の外へと視線を向けた。外は朝からずっと曇り空で、午後は夕立が降るとニュースで言っていた気がする。
「予報では、夜は晴れるんじゃなかったかなあ」
「そうなのか」
「一年に一度しか会えないなんて、寂しいよね」
新羅はそう言って、にっこりと笑う。他意はないのかも知れないが、その言葉に静雄は黙り込んだ。
──寂しい、か…。
臨也とは、もう一ヶ月以上会っていない。多分、新羅の言う通り、仕事が忙しいのだろう。会えなくても時折あちらからメールは来たが、静雄はそれに一度も返事を返していなかった。まさかこんなに会えないとは思ってはいなかったし、あちらも会いたいとも言って来ない。返事などしたら余計なことを言ってしまいそうで、最近はメールを開くのも億劫だった。
「会いたいなら、会いたいって言えればいいのにね」
「え?」
穏やかな新羅の声に、静雄は思わず顔を上げる。新羅は相変わらず笑みを浮かべているが、内心は何を考えているのか分からない。
「一年に一度しか会えないより、ずっとマシだと思わない?」
「…なんの話だ」
「一般論としてさ、」
目付きの鋭くなった静雄に笑い、新羅は窓の向こうの空を眺める。
「普段、会える距離にいるのは、なんて幸せなことなんだろうね」
「……」
静雄はそれには答えず、新羅と同じように空を眺めた。空は明るいが薄い灰色をしていて、青空なんてちっとも見えやしない。夜に晴れるなんて予報は、到底信じられなかった。
「彦星と織り姫ってのは、雨が降ったら会えないんだろ?」
「日本ではそう言われてるけれど、中国ではこの日の雨は、嬉し涙とも言われているらしいよ」
やっと会えたことの、嬉し涙なのだという。
「ふうん」
「でも、晴れるといいね」
新羅はそう言って、一気に麦茶を飲み干した。冷えたグラスは汗をかき、付着した水がぽたりと床に落ちる。
「好きな人に会うなら、晴れの方がいいだろう?」
「…そうだな」
にこにこと笑う新羅の言葉に、静雄は素直に頷いた。
もし。
もし今夜、晴れたのなら──。
電話をしてみようか。
久しぶりに声を聴き、下らない会話でもしてみようか。
例え会えなくても声が聴けるのなら、この気持ちが少しは楽になるのかも知れない。
静雄はそう思いながら、薄暗い空を見上げて目を細めた。





静雄は煙草を踵で踏み消すと、ポケットから携帯を取り出す。ピ、ピ、とボタンを押してゆくと、暫く掛けていなかった電話番号が画面に表示された。
あと数分で日付が変わり、7月7日が終わってしまう──。
別に今日は取り立て特別な日ではない。クリスマスでも無ければ、誕生日でも無い。ただの7月7日、七夕祭りの日だ。けれど今この時を逃せば、きっと自分はもう電話なんてしないことを分かっていた。
静雄は携帯を手にしたまま、星が瞬く夜空を見上げる。都会の空は明るくて、天の川はおろか、ベガやアルタイルさえも見ることが出来ない。しかし恋人達の逢瀬など、見えない方が良いのかも知れないと思う。たくさんの大衆に見られては、きっと本人達も恥ずかしいだろう。
そんな空想的な考えに苦笑しながら、静雄は思いきって通話のボタンを押した。見慣れた電話番号が横に流れ、上部に『発信中』の文字が表示される。緊張のせいかやけに鼓動が煩くて、静雄は深く深呼吸をした。
『──はい。』
きっかり三回目のコール後、相手の声が静雄の耳に届く。
「……よう」
『…珍しいね、シズちゃんから俺に電話なんて』
電話の向こうで臨也は笑ったようだ。低くくぐもった声がし、少しだけ雑音が聴こえて来る。どうやら外を歩いているらしい。
「最近、手前の姿を見てねえと思ってな」
携帯電話を左手に持ち直し、静雄は自身の右手に視線を下ろした。ほんの微かだが指先が震え、手の平は僅かに汗が滲んでいる。たかが電話を掛けただけで、情けないことだ──。静雄は相手に気付かれないよう、小さく舌打ちをした。
『──へえ、』
答える臨也の声は、いやに楽しげだ。
『俺に会えなくて、寂しかったの?』
臨也が発したその言葉に、ぴくりと静雄の体が揺れる。
『俺の声や温もりを、思い出したりした?』
笑いを含んだ臨也の声は、静雄の耳からゆっくりと浸食してゆく。
『俺を想って、泣いたりなんかした?』
静雄は何も答えない。いや、答えられなかった。内心を言い当てられ、自身の頬が熱くなるのを自覚する。
──…ああ、畜生。お見通しかよ。
いつもいつも、臨也はこんな風に自分を追い詰める。
きっと自分だけが会いたくて、自分だけが寂しかったのだ。
一ヶ月ちょっと会えなかったことなんて、臨也にはどうでもいいことなのだ。
ずっと姿も見ず、声も聴かなくたって、きっと臨也には──、


「俺も会いたかった」


シズちゃん。

静雄を呼ぶその声は、電話からではなく背後から聴こえた。
静雄は驚きで体を強張らせ、後ろの歩道を振り返る。そこには街灯を背にし、いつもの黒い衣服を着た臨也が立っていた。
「──は、」
静雄はぽかんと口を開ける。
何故、臨也がこんなところに居るのだろう。これはひょっとして、自分が作り出した幻か?、静雄は頭が混乱し、目の前の現実が理解できない。
「久しぶり」
臨也は口端を吊り上げて笑うと、ゆっくりとこちらへ近づいて来た。コツコツと辺りに靴音が響き、徐々にはっきりと姿が見えて来る。静雄は目を丸くしたまま、そんな臨也を呆然と見ていた。
臨也は静雄の前で立ち止まり、その赤い目を僅かに眇める。静雄がガードレールに腰掛けているせいで、今は臨也の方が目の位置が高かった。
「お前、なんで…」
そんな臨也を見上げながら、静雄はまだ驚きの表情を浮かべている。問う声は自分でも情けない程に掠れ、戸惑いが表れていた。
「君の家の前で待ってたんだけどさ」
臨也は「やれやれ」と言うように、肩を竦めて見せる。
「なかなか帰って来ないから、電話しようと思っていたとこだった」
ちょうど良かったよ。
臨也はそう言って笑うと、手にしていた携帯電話をポケットに仕舞った。静雄もそれを見て、やっと携帯を耳から離す。ずっと握り締めていたせいで、電話は熱くなっていた。
「会えて良かった」
囁くようにそう言いながら、臨也は静雄の頬に手を伸ばした。冷たく、華奢な臨也の指が、耳に掛かる静雄の髪を掻き上げる。その手は酷く優しくて、静雄は体が動かなかった。
ただじっと動けずに、静雄は臨也の赤い双眸を見詰め返す。一ヶ月ぶりに見る、臨也の顔、臨也の声、臨也の温もり。静雄は瞬きを何度も繰り返し、臨也の端正な顔をずっと凝視していた。
「でも会えないでいるのも悪くないなあ」
唇で柔らかく弧を描き、臨也は低く笑い声を漏らす。
「なんでだよ」
顔が赤くなるのを感じながら、静雄は努めて無愛想に口を開く。髪を優しく梳く臨也の手が、酷く心地好かった。
「シズちゃんのそんな顔も見れたし」
「そんな顔?」
どんな顔をしていると言うのだろう──。静雄は思わず、手の平で顔を覆い隠す。
「俺に会いたくて堪らなかったって顔」
臨也は意地悪く笑うと、顔を隠す静雄の手の甲に口づけた。ちゅ、とわざと音を立て、指先にも唇を触れる。
「べ、別に俺は、」
顔が熱い。耳も熱い。首までもきっと、赤くなっている。
ああ、くそっ。静雄は小さく舌打ちをする。今すぐ目の前の臨也を殴りたいのに、勿体無くて出来やしない。
だってそうだろう?せっかく会えたのに喧嘩するほど、俺も馬鹿じゃない。
そんな葛藤する間にも臨也の手は動き、静雄の顔を隠す手を外されてしまった。
臨也の赤い双眸が静雄を見下ろす。熱い頬に触れる手が冷たくて心地好い。時折吹く風が髪を掻き上げ、臨也の表情を良く見せてくれる。
「臨也──」
臨也の顔を見上げ、静雄は僅かに目を細めた。
なんだよ、お前だって同じ顔をしているじゃないか。
会いたくて会いたくて、堪らなかったって顔。
徐々に近付いて来る臨也の顔に、静雄はゆっくりと目を閉じる。
臨也の後ろに見えた夜空には、逢瀬を楽しむ星たちが見えた気がした。


(2011/07/08)
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