この声が枯れるくらいに





いつも身に付けている二つの指輪を、臨也はデスクの上へと置いた。
装飾の少ないシンプルなそれは、窓から入り込む夕陽の光を受けて鈍く光っている。今まで嵌めていた指に視線を落とせば、僅かに凹んで指輪の跡が付いていた。臨也はその箇所を無意識に摩りながら、ブラインドの隙間から覗く夕陽に目を細める。
高校生の頃も、若かったあの頃も、太陽は昔から何も変わらない。そして多分、これからも変わらないのだろう。人間は時に流されてどんどんと老いてゆくと言うのに、なんと不公平なことか──いや、本当は違うのだと臨也は分かっている。空を支配する太陽でさえも、少しずつ変化はしているのだ。人間の目には見えないだけで。
変わらないものなど、この世には何一つ存在しない──。
臨也はそんな哲学めいたことを考え、そんな自分に嘲笑を浮かべた。




「指輪、外したの?」
もう殆ど臨也用になった黒のカップにコーヒーを淹れ、新羅は臨也の白い手をちらりと見た。臨也はその白い肌と対照的に相変わらず真っ黒な服装をし、ソファに静かに腰掛けていた。
「ずっとしていた指輪だったからね。もう傷だらけさ」
「だろうね」
臨也の言葉に頷きながら、新羅はテーブルの上にカップを置く。臨也のその返答から、もうその指輪はする気がないことを悟る。
新羅は向かい側のソファに腰掛けると、自身のコーヒーに口を付けた。ここ数年は毎日カフェインを摂取していて、知らず知らずの内にコーヒー中毒になっている気がした。日本全国にはきっと同じような人間がたくさんいる筈だ──新羅は半ば本気でそう思っている。
「で、今日は何の用なの?」
臨也はコーヒーを一口飲むと、新羅の顔を探るように見た。好奇心と少しの警戒心、そんな感情が入り混じった赤い目で。
新羅はそんな臨也を、暫く無言で見詰め返した。こうして良く見れば、臨也の目尻や口許には小さく皺が見える。お互い歳を取ったのだなあ…と、新羅は少しだけ感慨深く思った。
「…昔使ってたSDカードが出て来てね」
新羅は白衣のポケットから、黒い小さなメモリーカードを取り出した。大きさから見て、携帯電話によく使われるタイプのものだろう。
それをテーブルの上へと置くと、新羅は臨也の方へ差し出した。
「君にあげる。中には動画が入ってるから、見てみるといいよ」
それがなんの動画かは、新羅は口にはしなかった。言わなかったことで、寧ろ相手には伝わった筈だ。
臨也はそれを見下ろし、何度か目を瞬かせる。受け取らない方がいい──そう本能は告げるのに、手は勝手に伸びてそれを掴んだ。
そんな臨也を見詰める新羅の目は、悲しみと憐れみの色をしていた。それを長く見ていられなくて、臨也は慌てて新羅から目を逸らす。大抵の人間は、誰かに自分の心情を見透かされるのは居心地が悪いものだ。例え抱いているその感情が、お互い同じものだとしても。
メモリーカードをコートの内ポケットに仕舞い、臨也は小さく息を吐く。胸に広がった鈍い痛みに、今にも蹲ってしまいそうだった。ここ数年でこの痛みや悲しみに慣れたと思っていたのに、感情を殺して生きるのはやはり無理だったらしい。
「…コーヒーのお代わりでもどう?」
新羅が掠れた声で聞いて来る。さっき淹れてくれたばかりのコーヒーは、まだ殆ど減っていないというのに。
「お願いしようかな」
けれど、臨也はそう答えた。何かをしていないと、新羅も悲しみに押し潰されてしまうのかも知れない。同じ悲しみを抱く者として、その気持ちは痛いほど臨也には理解出来た。
新羅がカップを手にして席を立つ。臨也はその間、額を手の平で覆って目を閉じていた。新羅がゆっくりとコーヒーを淹れて来るまで、この痛みが少しでも和らげば良い。
この悲しみは一体いつ癒えるのだろう──。
答えは未だに出ない。




マンションに帰り、臨也は真っ先にパソコンを起動した。メモリーカードをパソコンに接続し、目的のデータを呼び出す。ソフトを使ってパソコン用にファイルを変換し、アイコンをクリックする。ファイル名は、今から10年前の日付になっていた。
黒い画面が表示された後、すぐに動画が再生される。
真っ黒なライダースーツに、頭部のない首の女が映し出された。首からは黒い湯気のような霧が立ちのぼり、何か撮影者(恐らく新羅だろう)に話し掛けている。いつものようにイチャついているだけなのかも知れない。最近はこんな様子を見ることも少なくなり、臨也は懐かしさに目を細めた。
画面がゆっくりと横にスライドし、セルティの隣にいる男が映し出される。金の髪に細い長身の体、そして不機嫌な顔──臨也が数年ぶりに見た、動く静雄の姿だ。
静雄はセルティに話し掛けられ、相槌を打ちながら時折声を出して笑う。臨也には滅多に見せることのなかった、酷く穏やかな顔をしていた。
臨也はパソコンのディスプレイを、食い入るように見つめる。画面の中にいる静雄は、臨也の記憶と寸分も変わらなかった。その少し低い声も──人の記憶は声から忘れてゆくと言うけれど、臨也は静雄の声を忘れたことなど一日もない。
毎日綺麗に掃除されているディスプレイに、臨也はそっと指を這わせる。どんなに手でなぞっても、指に伝わる感触は液晶の滑らかな手触りだけ。画面の中にいる静雄には、触れることなど出来ない。ディスプレイは電源の熱で僅かに温かく、内蔵されたスピーカーからは、静雄の楽しげな笑い声が響いた。
ふと画面の中の静雄が、何かに気付いたように顔を上げる。その茶色の瞳が臨也を捉え、真っ直ぐにこちらを見た。
たったそれだけのことなのに、臨也の心臓は鼓動が早くなる。
『なに撮ってんだよ、新羅』
怒ったような声と、不機嫌な顔。彼が呼んだのは臨也の名ではなく、撮影者である新羅の名前だった。この撮影時に臨也はいなかったのだから、それは至極当たり前のことだ。
頭ではそう分かっているのに、臨也は小さく唇を噛む。もうこの低いテノールで、静雄が臨也の名を呼ぶことは決してない。
『携帯を新しくしたから、動画を撮ってみたくてさ』
あはは、と新羅の笑い声が聴こえ、画面が前後にぶれる。それに静雄は呆れたような顔になり、動画はそこで唐突に終了した。
シン…、と部屋が静まり返る。再生ソフトは真っ暗な画面に戻り、再生時間1:38の文字が表示された。二分にも満たない、短い動画。
臨也はそんなディスプレイを見詰めたまま、微動だにしない。右手はマウスに乗せ、左手はデスクの上で握り締められたままだった。まるで時間が止まってしまったかのように、体は少しも動いてくれない。
やがて視界が霞み、生温い感触が頬を伝う。臨也はそこで初めて、自分が泣いていることに気付いた。
──…シズちゃん。
静雄はあの頃のままだった。
黒いベストに白いワイシャツ。蝶ネクタイに青のサングラス。煙草を吸っていなかったのは、セルティのマンションだったせいだろう。彼は親友のセルティには、とても気を遣っていたから。
あの姿をした静雄を、もう目の前で見ることは出来ない。
彼の低い声も、もう直接耳にすることは出来ない。
殴られたり、自販機を投げられたり、彼の温もりを、感じることはもう出来ない。
臨也の喉からは、小さく嗚咽が漏れる。静雄を失ったあの時でさえ、涙なんて流れなかったというのに。
──…どうして。
君はどうして、俺を置いて逝ってしまったんだろう。
俺は君を厭うてた筈なのに、君がいなくなってから酷く寂しい──。
心にはぽっかりと穴が開き、虚無感が臨也の心を蝕む。自分はただ機械的に生きているお人形だ──臨也はそんな風に思って生きて来た。
静雄と出会った頃からしていた指輪も、真っ黒なこの服装も、もう辞めてやろうかと思っていた。
反吐が出るような情報屋の仕事も辞め、共通の友人である闇医者にも会わずにいれば、少しは君を忘れられるのだろうか。
池袋や新宿の街から出て行けば、少しは君を思い出さずに居られるのだろうか。
臨也は両手で顔を覆い、肩を震わせて涙を流し続ける。キーボードの上にはぽたぽたと雫が落ち、静かな部屋にはパソコンの稼働音だけが響く。
ああ──こんなことになるのなら俺は、


君に好きと言えば良かった。


(2011/07/03)
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