三千世界の鴉を殺し




青い空だ。
静雄は空を見上げて目を細めると、手にしていたナイフをアスファルトに放り投げた。
真っ白な雲は、綿菓子のように大きい。空はどこまでも青く、鳥の囀りが聴こえて来る。
こんなに綺麗な空なのに、自分はなんて不釣り合いなのだろう──。
静雄は血まみれの自分の手を、冷めた目で見下ろした。



静雄はその日、朝から他校の不良に絡まれて疲労していた。いつもに増して訪問者は多く、さすがの静雄も疲労が蓄積すれば油断をする。
最後の一人を蹴り飛ばして息をついた時、静雄はふと脇腹に違和感を覚えて腹を見下ろした。
贅肉のない自身の腹に、一本のナイフが刺さっていた。銀色に光る、なんの変哲もない小さなナイフ。
静雄の体は大層丈夫で、腹に刃物が刺さることは非常に稀だ。今思えば、それだけ体は疲弊していたのだろう。痛みに鈍いせいで、なかなかそれに気付かなかったのだ。
静雄はそのナイフを、無造作に腹から引っこ抜いた。その途端、血が面白いくらいに噴き出し、あっという間に制服のシャツが血で赤く染まる。静雄はそれを他人事のように見下ろし、手の平で傷口を軽く押さえてみた。しかし当然の如く、そんなことでは血は止まらない。
こんな青空の下で、俺は何をしているんだろう──。
酷く冷えた頭でそう思いながら、静雄は僅かに目を眇める。この血が全て流れ出たら、自分は死ぬ事が出来るのだろうか。普通の人間のように、痛みを感じて死ねるのだろうか。

「何してんの」

その時、背後から冷たい声がして、静雄はぴくりと体を僅かに震わせた。聞き慣れた、少し高めの甘いテノール。どんな雑踏に紛れていても、自分は決してこの声を聞き間違えたりはしないだろう。
静雄は小さく舌を打つと、わざと思い切り顔を顰めて後ろを振り返った。
「臨也」
丈の短い学ランに、緋色のTシャツ。酷く端正な顔の男が、路地裏の入口に立ってこちらを見詰めていた。
チッと、静雄はまた小さく舌を打つ。この疲労した体で、臨也の相手をするのはいくら静雄だとて骨が折れる。出来ることなら今は会いたくない相手だった。
「手負いのシズちゃんと喧嘩する気はないよ」
静雄の考えを読んだのか、臨也はそう言って口端を吊り上げる。表面は笑顔を浮かべているのに、その目だけは笑っていなかった。
「出血多量で死ぬんじゃない?」
「…そのうち塞がる」
さすがにこの傷は深そうで、塞がるまでには時間はかかるだろう。が、静雄は自身の治癒力を熟知している。時間はかかっても、血はもう直ぐ止まる筈だ。
「新羅のとこに行こう」
臨也は突然そう言って、血に汚れた静雄の手を掴んだ。
そのまま強引に手を引かれ、静雄は驚きで目を大きく見開く。
「え…おい、臨也!?」
静雄は困惑し、抵抗するように腕を引いた。しかし臨也の手は強く、静雄の手を掴んだまま離れない。
臨也は静雄の手を掴んだまま、路地裏を抜けて歩き出した。
あの襲って来た不良たちは、どうせ臨也が嗾けた奴らだろう。なのにどうして、当の本人が静雄を心配するのだ。どうせ静雄のことは、死ねばいいと思っているくせに。
「どうしてかな」
臨也は小さくそう呟き、どんどん先を歩く。その言葉は静雄に答えると言うよりは、まるで独り言のようだった。
新羅のマンションがある通りまで、二人には道行く人々の好奇と畏怖の視線が降り注いだ。血まみれの高校生が二人、街を闊歩しているのだから当然だろう。
下手をしたら通報されるな──静雄はそう考えながら、臨也に手を掴まれたまま足を早めた。
アスファルトにはいくつもの血の滲みが出来ている。滲みは少しずつ、その間隔が大きくなり始めていた。静雄の予想通り、傷口が塞がり始めているのだろう。
そのままマンションのエントランスを抜け、二人はエレベーターに乗り込んだ。もうその頃には血は滴り落ちず、床を汚さずに済んだことに静雄はホッとした。ここの住人である新羅に迷惑がかかるのは、静雄にとっても不本意だ。勿論、治療しに行くこと自体が迷惑をかけているのだが、それは今は考えないようにする。
ここに来るまで、静雄と臨也は全く口を利かなかった。静雄には臨也が何を考えているのか分からなかったし、何を話していいのかも分からなかった。自分と臨也には、共通の話題なんて何もないのだ。一つも。
臨也はやっと静雄の手を離すと、その手でエレベーターのボタンを押す。ちょうど住人が使った後なのか、エレベーターは上の階に停まっていた。一階に戻って来るまでは、まだ時間が掛かるだろう。
ふと視線を落とせば、学ランから覗く臨也の左手は血で汚れて変色している。化け物と蔑む相手の血で汚れることを、臨也は嫌悪しないのだろうか。
「…なあ」
「なに?」
「お前、なんで──」
静雄が理由を問おうと口を開くと、ちょうどエレベーターが一階に到着した。臨也はさっさとその中に乗り込み、静雄も戸惑いながらもそれに続く。
「どうしてかな」
臨也は先程と同じ言葉を呟き、静雄をゆっくりと振り返る。同時に静雄の背後で扉が閉まり、狭いエレベーターに二人きりになった。
「痕が残るかな?」
そう言って臨也の赤い双眸は、静雄の脇腹をちらりと見遣る。今や脇腹の血は完璧に止まり、チクチクと静雄に鈍痛を覚えるだけになっていた。
「残らねえだろ、…多分」
わざと淡々とそう口にし、静雄は小さく息を吐く。この傷が治るのが早ければ早いほど、静雄は自分の異常な体質に気が滅入るのだ。自分がどんなにこの力を厭うているか、きっと周りは誰も知らない。
「そう。──…俺以外が付けた傷が残ったら、ムカつくからね」
臨也は低いテノールでそう言うと、最上階を目指すボタンを押した。
静雄は目を丸くし、驚きで体を強張らせる。今の臨也の言葉は、どういう意味なのだろう──。戸惑っている間に、エレベーターがゆっくりと動き出した。静雄はもう大分塞がった傷口を手で押さえ、今の臨也の言葉の意味を考える。
自分であの連中を嗾けておいて、臨也は一体何故怒っているのだろう。今の言葉にははっきりと執着が滲み出ており、静雄はそれに肌が粟立った。不安のような、恐怖のような──良く分からない感情が、胸にどんよりと押し寄せる。
「シズちゃん」
後少しでエレベーターが目的の階に着くという時、不意に臨也に肩を掴まれた。
静雄はそれに驚き、目を大きく見開く。
「なん──、」
驚愕の言葉は、口にすることが出来なかった。乱暴に壁に背中を押し付けられ、ガツンと頭を打ち付けられる。痛みを感じるより先に、唇へ触れた柔らかいそれに瞠目した。
「…ん、」
目の前には臨也の端正な顔があり、漆黒の長い睫毛が伏せられている。血の匂いと共に、微かな香水の香りが鼻を掠めた。
上唇を甘噛みされ、歯列を舐められて、肉厚な舌が口腔内に入り込む。奥に隠れていた舌を探し出され、そのまま強く絡められた。
「…っ」
臨也の体を押し返そうとするのに、静雄の腕にはうまく力が入らない。それが出血のせいなのか、それとも他の何かのせいか、静雄は自身でも良く分からなかった。
臨也の後ろの扉が開き、いつの間にかエレベーターが目的の階に着いたことを知る。開いた扉のずっと奥に、新羅の家の扉が見えた。
もし、今あそこから誰か出て来たら──静雄はそれに動揺し、体が凍り付く。
互いの唾液が混ざり合い、飲みきれなかったものが静雄の顎をしとどに濡らした。息が苦しくて口を開けば、更に深く唇を貪られる。
なんで、こんなことを──。
生理的な涙で視界が霞む。徐々に体からは力が抜け、臨也を押し退けようとしていた手は縋り付くようになっていた。
やがてエレベーターの扉が、音も立てずに静かに閉まる。静謐な空間の中、ちゅくちゅくと濡れた水音だけがエレベーターに響く。時折鼻から甘ったるい声が漏れ、静雄は羞恥で顔が熱い。
長い長い口づけが終わりやっと唇が離れる頃、静雄は息も絶え絶えになっていた。
「…はっ…、」
肩で息をしながら、静雄は自身の胸倉を掴む。手は情けないほどに震え、目の前の臨也の目をまともに見ることが出来なかった。
なんで…どうして──。
そう口にしたいのに、唇からは言葉が出てこない。酸素不足のせいか、くらりと眩暈がした。
「シズちゃん…」
臨也の声が、直ぐ耳元で聴こえる。心臓がバクバクと煩いのに、臨也の声はいやにクリアーに耳に届いた。
──…やめてくれ。
もう何も言わないでくれ──。
息が苦しい。
胸も苦しい。
くらくらと眩暈が酷く、もう何も考えられない。
それなのに臨也は、静雄にとどめの一撃を口から吐いた。

「好きだ」

心臓の鼓動が、止まった気さえした。

「シズちゃんが好きだ」
臨也はそれをまた口にし、静雄の髪を優しく撫でる。
好きだ、好きだよ。と、何度も耳に囁かれた。
どうして、そんなことを──。
苦しくて苦しくて、胸が痛い。苦しいだけじゃなく、得体の知れない恐怖が静雄を襲った。
怖くて怖くて堪らない。俺の中に入って来るなと、心の奥底で何かが叫ぶ。
知りたくなかった。
こんな感情、気付きたくなかったのに──。
「シズちゃん?」
臨也の訝しげな声。
静雄は今更やっと、左の脇腹がじくじくと痛み始めた。
塞がりかけていた傷が開き、血がどんどん流れ出る。眩暈がしていたのは、出血のせいだと気付く。
「シズちゃん!」
珍しく動揺した臨也の声を聞きながら、静雄はそのまま意識を手放した。



目を開くと、真っ白な天井が見えた。
ここは──。
微かな消毒液の匂いと、コーヒーの香ばしい匂い。この二つの匂いが混在する場所を、静雄は一箇所だけ知っている。
「気が付いた?」
幼なじみの優しい声。
「新羅…」
静雄は目を瞬かせ、ぼんやりと自分を見下ろす男を見上げる。
見慣れた天井、見知った顔。ここが新羅の家のリビングだと気付くのに、目覚めたばかりの静雄には時間がかかった。
「傷はもう塞がってるよ。でも出血が多かったから、貧血で倒れちゃったみたいだね」
そう言って新羅は笑い、静雄の腹を些か乱暴に叩く。
「相変わらずの治癒力だ」
茶化すよう言われ、静雄は自身の腹を見下ろした。薄く筋肉のついた腹に、真っ白な包帯が幾重にも巻かれている。痛みももう殆ど無く、後は体が少し怠いくらいだった。
「──…臨也は?」
静雄は掠れた声で口を開いた。自身の体のことより、今は臨也の方が気になった。あの告白が夢ではないのは、静雄自身が分かっている。
「臨也は君を置いて直ぐに出て行ったよ」
カップにミルクと砂糖たっぷりのコーヒーを入れ、新羅は静雄へとそれを差し出した。
「珍しいよね。臨也が君を助けるなんて」
「……」
静雄は目を伏せて黙り込む。新羅のこの言葉に、なんて返せば良いのか分からなかった。
──…『好きだ』
あの時の臨也の声が、静雄の耳から離れない。掴まれた手の冷たさも、唇の柔らかな感触も。
たった三文字の言葉なのに、静雄と臨也の関係を破壊するには十分過ぎる言葉だった。睨み合って、ナイフを向けて。自分たちはそんな関係だった筈だろう。
いっそ嫌がらせだったなら、そっちの方がまだマシだ。
静雄はぼうっとしたまま体を起こし、テーブルに置かれたカップを手に取った。真っ白な湯気がふわりと揺れ、静雄の視界が一瞬遮られる。
明日から、どんな顔をして臨也に会えばいいのだろう。
今までのように、振る舞えるのだろうか──。
静雄は憂鬱な気分になりながら、深い深い溜息を吐く。
そんな静雄の姿を、新羅は心配そうに見ていたが、それに気付く余裕さえ今の静雄にはない。
静雄はゆっくりとカップに口を付ける。熱い湯気が、頬を緩やかに掠めて消えた。

それは甘いはずなのに、静雄にはとても苦く感じられた。


(2011/06/16)
エレベーターって監視カメラあるんじゃないの?と言うツッコミはいけません
×