三千世界の鴉を殺し




川越街道沿いの高級マンション。静雄の幼なじみの男は、そのマンションに愛しい彼女と住んでいる。
静雄がそのマンションに訪れるのは月に1、2回程度だ。何か怪我をする度に、治療をしに行っていた。他には新羅に誘われて行くこともあれば、親友である彼女に誘われて行くこともある。行くのはいつも不定期で、時間も曜日も決まってはいない。
静雄がその日、そのマンションに行ったのは、親友である彼女が鍋をしようと言ったからだった。静雄の親友で、新羅の恋人でもある彼女は、頭部がないせいで食事が出来ない。それでも最近知り合いが増えたせいか、以前にも鍋パーティーを催していた。今日も恐らく、人が集まっているのだろう。
静雄はエレベーターに乗り込み、目的の階のボタンを押す。続けて『閉』のボタンを押した時、その男は滑り込むようにして中に入って来た。
「な、」
静雄がその人物を認識した瞬間、静かに扉は閉まる。瞠目する静雄をよそに、エレベーターは目的の階を目指して動き出した。
「やあ」
真っ黒な身形、漆黒の髪、瞳だけが凜と赤い。相変わらずムカつくくらい端正な顔をして、臨也は口端だけを器用に吊り上げた。
「…なんで手前がここにいんだよ」
天敵と遭遇したせいで、静雄のこめかみには青筋がいくつも浮かぶ。こんな狭い密室で、大嫌いな男と顔を見合わせた自身の不運を呪った。
「なんでって、新羅に呼ばれたからさ」
臨也の方は肩を竦め、エレベーターの壁に寄り掛かる。余裕ぶった態度だが、いつでも静雄から攻撃を受けてもいいように身構えているのだろう。この男は決して隙を見せない。
静雄はわざとらしく大きな舌打ちをした。新羅に呼ばれたと言うことは、この男も鍋に呼ばれたに違いない。まさかこんなところで鉢合わせするとは──前は居なかったせいで油断していた。
「手前がいるなら俺は帰る」
「おや。君が帰ったら親友は悲しむんじゃないかな?」
吐き捨てるような静雄の言葉に、臨也は面白そうに目を細める。その声は酷く楽しげで、静雄はますますそれに苛々した。
新羅の部屋に着く前に、さっさとこれを降りよう。静雄はそう思い、適当な階のボタンを押そうと腕を伸ばす。
──その時、突然ガタンとエレベーターが停止し、電気がパッと消えた。
「あ?」
「…ちょっとシズちゃん、何やったの」
驚いて間抜けな声を上げる静雄に、臨也の咎める声が重なる。
「ちげえ!俺はまだ何も押してねえよ」
振り返って臨也を見るが、そこは真っ暗な闇だった。臨也がどこにいるか分からず、静雄は一瞬鼻白む。
「停電か、火災か…。まあ、火災ではないようだけど…」
臨也の声だけが、闇の中で響く。確かに煙のような匂いはしないし、火災というわけではなさそうだった。となると、何かの事故だろうか。
「取り敢えず、助けを呼ばないと」
暗闇の中でカチャ、と何かの音がした。やっと暗闇に慣れた目で見れば、臨也が非常ボタンを押したのだと気付く。
「…○○マンションのエレベーターです。…ええ。…二人です。──はい、…はい」
臨也が話している間、静雄はズルズルと床に座り込んだ。こんな狭い密室で臨也と二人きりだなんて──最悪だ。さすがに強引に扉を開けて出るわけにも行かないし、暫くはこうして助けを待つしかなさそうだ。
「復旧に30分は掛かるってさ」
通話を終えた臨也が、こちらをゆっくりと振り返る。いくら暗闇に慣れたとは言え、その表情は静雄には見えない。
「そんなに掛かるのかよ」
「上々だと思うけどね?本来なら数時間掛かってもおかしくないよ」
臨也はそう言って、ポケットから携帯を取り出した。携帯画面の仄かな光が、暗闇の臨也の顔を照らし出す。その表情はやけに落ち着いていて、何を考えているのか静雄には分からない。大嫌いな筈の相手と閉じ込められて、この男は嫌じゃないのだろうか。
「新羅にメールしとくよ。ひょっとしたらこのマンション自体、停電なのかも知れないけど」
臨也はそう言って、カチカチとメールを打ち始めた。白く無表情なその顔から、静雄は目を逸らす。
エレベーターの中は静かだった。空気が澱んで、酷く蒸し暑い。あんなファー付きのコートを着て、臨也は暑くないのだろうか──静雄はそんなことを思いながら、ワイシャツのボタンをひとつだけ外した。さして体感温度は変わらないが、気分的にはマシだ。
カチ、と小さな音がして、臨也が携帯を閉じた気配がする。途端に明かりを失い、エレベーター内はまた暗くなった。
──…嫌な沈黙だ。
静雄は舌打ちしたいのを懸命に堪え、折り曲げた膝上に顔を埋める。思えば臨也とこうしていることは稀だった。普段は顔を見合わせれば直ぐに喧嘩か、厭味と暴言の応酬だからだ。こんな狭い空間では喧嘩をするわけにもいかず、饒舌な臨也が口を噤めば、静雄からは話すことなどない。
こんな風に臨也と二人きりになるのは──…あの時以来だ。
それを思い出しそうになり、静雄は片手で目を覆った。どうせ暗闇で相手は朧げだというのに、静雄は自分の視界を遮りたかった。
「暑いね」
不意に臨也がぽつりと呟く。静かな空間の中で、その声はいやに通った。
「それ、脱げばいいだろ」
「尤もだ」
臨也は静雄の言葉に低く笑い、続いて衣擦れの音がする。恐らくあの暑そうなコートを脱いだのだろう。空気が僅かに動き、微かに臨也の香水の香りがした。
「…こうしていると、」
ふう、と小さく息を吐き、臨也も床に座り込んだ。ほんの少しだけ、エレベーターが横に揺れる。
「あの時のことを思い出すね」
その臨也の言葉に、静雄は心臓が驚くくらい跳ねた。きっと暗がりでなかったら、体が震えたのが臨也にばれていただろう。
「…なんのことだよ」
答えた静雄の声は掠れている。
「覚えてない?前にもシズちゃんと一緒にエレベーターに乗っただろう?」
くくっと何が可笑しいのか、臨也は喉奥で笑い声を漏らした。その笑いは揶揄と言うよりは、自嘲気味に聞こえる。
そんなことあったか──静雄は惚けようとし、結局は口を噤む。あんな出来事を忘れるような人間は、なかなかいないだろう。
あんな、──あんな思い出は。
「あの時の傷痕、残ってる?」
答えない静雄に気にすることもなく、臨也はまた聞いて来る。その声はいやに真摯に響き、静雄は胸の奥が震えた。
嫌だ嫌だ嫌だ──。思い出したくなんかない。
ズキズキと胸が痛み、息が苦しい。あの時気付かされたこの感情を、静雄は必死に抑え込む。この想いが溢れ出したら、何を口走るか自分でも分からなかった。
「…なんで黙ってるの?」
臨也の声の位置が動き、静雄は顔を上げた。暗がりの中から白い手が伸びて、静雄の腕を掴む。
「な、」
両肩を掴まれ、暗闇の中で顔を覗き込まれた。静雄は驚きで目を見開くが、臨也は低く笑い声を上げる。
「なんだ、起きてるんじゃない。寝てるかと思ったよ」
「…っ、離せ」
静雄は乱暴に臨也の手を振り払った。そんな静雄の態度に薄く笑い、臨也はあっさりと手を離す。
「別に取って食いやしないよ」
「うるせえ」
内心の動揺を見透かされた気がして、静雄は頬が熱くなるのを自覚した。尤もこんな闇の中では、どんなに赤面しても臨也には分からないだろう。
「ここ、」
臨也の手がそっと、静雄の細い脇腹に触れる。ビクッと静雄の体が跳ねたが、臨也はそのまま手の平でそこを撫でた。
「痕は残っているのかい」
「っ、」
ぞわりと肌が粟立ち、静雄は制止する為に臨也の手首を掴む。
「やめろ、」
「どうなの?」
臨也の声は真剣だった。
あの時と同じように。
「…ねえよ」
静雄は闇の中の赤い目から視線を逸らす。こんな真っ暗な闇の中でも、臨也の赤い目は何もかも見透かしている気がした。
「痕は残ってない」
「そう」
良かった、と臨也は呟き、静雄の体から手を離す。
それに安堵し、静雄も掴んでいた臨也の手を離した。
「覚えていたんだね」
「何を」
「あの時のこと」
微かに笑いを含んだ臨也の声。静雄はその声に眩暈を覚え、両手で目許を押さえた。この男はきっと最初から、痕がない事は知っていたに違いない。ただ単に、あの時の話をしたかったのだろう。
「怖い?」
臨也の声が耳許で響く。微かに静雄の首筋に、臨也の熱い吐息が触れた。
「…何が」
応える静雄の声は掠れている。自身の心臓の音はやけに煩く、そして苦しかった。
「俺が怖い?」
臨也の気配が直ぐ傍にある。静雄は無意識に身動ぎをするが、冷たい壁に阻まれて逃げ場もない。蒸し暑いこの狭い空間の中で、空気が冷たくなった気がした。
怖い?怖いなど、あるものか。
そう思うのに、静雄はそれを否定する言葉が出て来ない。あの時から必死に押し込めていた感情が、今にも暴走してしまいそうだ。
「俺があの時のことを言わなくて、安心してた?」
臨也の言葉は、まるで毒のようだった。じわりじわりと、静雄の体を侵蝕してゆく。
「俺が何も言わないから、なかったことにしたかった?」
真っ暗闇の中で、臨也が静雄の背にある壁に両手をついたのが分かった。ギシ、と僅かにエレベーターが揺れる。
「返事は?」
「──…返事?」
発した静雄の声は震え、喉はカラカラに渇いていた。
「あの時の返事さ」
臨也の手が伸びて、静雄の頬に触れる。そのまま親指で頬を撫で、目許を確かめるようになぞった。何度も、何度も。
返事なんて──。
静雄は小さく吐息を吐き、一度だけ瞬きをする。闇の中で朧げに見える男が、縋るように自分を見詰めているのが分かった。
「……なんで今更」
あんな、数年前のことを。
あれは高校生の時の、若気の至りではなかったのか。
ふざけていただけだと、ずっとずっと思っていたのに──。
「俺だって、矮小な人間のうちの一人なんだ」
闇の中で、臨也が僅かに笑った気配がした。
「怯えたり、後悔することだって、俺にもあるんだよ」
そんな臨也の告白に、静雄は目を丸くする。
臨也も悩んでいたというのか。
切なくて、痛くて──こんな苦しい感情を、抱いているというのか。
静雄はゆっくりと瞬きをし、間近に迫った臨也の顔を見詰めた。真っ暗な闇の中で、臨也の長い睫毛が伏せられたのが分かる。
徐々に近付いて来る唇。甘く優しい香水の香り。静雄はぎゅうっと目をきつく瞑った。

その時、パッとエレベーター内が明るくなった。
「っ、」
突然明るくなった世界に、静雄は驚いて目を開ける。眩しくて目を眇めながら、ぼんやりと明るい天井を見た。
「──…助けが来たみたいだね」
臨也が立ち上がったのと同時に、エレベーターの扉が開く。更に明るい通路から、幼なじみと親友の姿が現れた。
「二人とも大丈夫?災難だったねえ!」
白衣をはためかせ、新羅がエレベーター内に入って来る。中の淀んだ空気に、「ひいっ」と情けない声を出した。
「蒸し暑くて死にそうだったよ」
臨也はそう言いながら、脱いでいたコートに再び腕を通す。口ではそう言いながらも、その額には汗ひとつかいていない。
やっと明るさに慣れた静雄の目には、臨也の姿はいつもと変わらないように見えた。先程までのは夢だったんじゃないか──なんて疑えるほど。
「セルティがここまでエレベーターを引っ張り上げてくれたんだよ」
ぽん、と静雄の肩を叩きながら、新羅が苦笑いを浮かべる。どうやら救助の者が来る前に、セルティに助け出されたようだ。
『無事で良かった』
ホッとして駆け寄って来るセルティに礼を言いながら、静雄は臨也の後ろ姿を盗み見る。
マンション自体は停電ではなかった──。では何故エレベーターだけが停電を?
こんなに都合よく、自分たちだけが閉じ込められるものなのだろうか。
チラ、と新羅の顔を横目で見れば、彼は肩を竦めて苦笑するだけだった。つまり、『そういうこと』らしい。
携帯を見れば、閉じ込められてからちょうど『30分』が経っていた。臨也が話していた相手も、新羅が相手だったか、演技だったのだろう。──…馬鹿馬鹿しい。
「臨也」
静雄は小さく息を吐くと、家に入ろうとしていた男の名を呼んだ。
臨也はそれに振り返り、口端をいつものように吊り上げる。
「なにかな?」
「返事、いらねえのかよ」
そう言ってやれば、ぴたりと臨也の動きが止まった。
そんな二人の間を横切り、新羅とセルティが一足先に部屋へと戻る。扉が閉まる瞬間、「頑張って」と新羅の声がしたが、それは無視してやった。
「こんな回りくどいことしやがって。タイムオーバーしてんじゃねえか」
「何の事だか」
分かっている癖に、臨也は惚けて笑って見せた。臨也が浮かべる笑みは、ポーカーフェイスと同じだ。暗闇の中での方が、よっぽど素直だったと静雄は思う。
「返事はいるのか?」
「…くれるなら欲しいかな」
静雄は一歩、前に出る。視線はじっと、臨也の顔を見つめたまま。
こえやって良く見れば、臨也はいつもより顔色が悪い。静雄を見返す赤い目は、僅かに潤んでいるようにも見える。長く伸びた睫毛も、小さく震えていた。
──俺だって人間なんだ。
そう言った臨也の声が、静雄の脳裏に甦る。
そうか──そうだな。
この、いつも余裕たっぷりに見える男も、苦しんだり悩んだりするのだ。
恋に溺れ、身を焦がすなんてことも──…きっとあるんだろう。
コツ、と靴音を響かせて、静雄は臨也の前に立ち止まる。
臨也はまるで死刑宣告でも待つような、酷い顔をしていた。
今までされた嫌がらせを考えれば、返事はNOにした方がいいのかも知れない。あの時の怪我だって、元はと言えば臨也のせいなのだ。毎日毎日喧嘩をしていたあの頃──静雄はそれを、思い出したくもない。NOを突き付けてやれば、溜飲が少しだけ下がる気がした。
けれど静雄はもう──、そんなことは出来なかった。
あの日、あの時に、気付いてしまったから。
自分の中にあるこの苦しい感情を、静雄は知ってしまった。
「シズちゃん?」
黙ったままの静雄を、臨也が訝しげに見遣る。その赤い目が不安げに揺れているのが、今の静雄には分かる。

静雄は口角を吊り上げると、ゆっくりと口を開いた。



ちまるこさんからのリクエスト「狭い空間に閉じ込められる二人」
(2011/06/16)
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