佇立瞑目




合縁奇縁の静雄視点

静雄は池袋と言う街で、借金の取り立てをしている。たまに逃げた相手を追って池袋を出ることもあるが、大抵はこの街で活動に勤しんでいる。取り立ての仕事は休みも出勤も不規則で、日曜や祝祭日だからといって休暇なわけではない。
だから明日、急に仕事が休みになったのは、全く予期していない出来事だった。


明日の休暇を告げられたその夜、静雄は新宿の街にいた。夜の新宿は華やかで、ネオンの明かりがチカチカと眩しい。静雄には馴染みが薄い、不夜城と呼ばれる街。
静雄は繁華街を抜け、高層ビルが建ち並ぶ西新宿を目指した。飲食店や風俗店がある中心街とは違い、こちらは比較的静かな道だ。時折対向車のライトが眩しくて、静雄はすれ違い様に目を眇める。
暫く真っ直ぐに歩くと、見慣れたマンションが見えて来た。エントランスをくぐり、エレベーターに乗って、目的の部屋を目指す。この道のりにももうすっかり慣れ、目を瞑っても着くことが出来そうだ。
すうっと静かにエレベーターの扉が開き、静雄はマンションの通路に足を踏み出した。「これから行く」とは連絡してないが、きっと家主はいるだろう。明日休みだから行っていいか、なんて静雄からは言えるわけもない。それは矜持や意地もあるが、一番は気恥ずかしいからだ。
どうせならいきなり行って、あの男を驚かせてやろうか──なんて、珍しくらしくもない悪戯心が湧いて来る。
静雄はポケットからマンションの鍵を取り出した。相手から渡されたまま、まだ一度も使っていない合鍵。初めて使うのが相手を驚かす為なんて──それが楽しくて、静雄は思わず口角を吊り上げる。
鍵穴に鍵を差し込んで、ゆっくりと扉を開けた。気付かれないように細心の注意を払い、玄関口へと侵入する。そして家の中に入ろうとして、静雄はふと足を止めた。
奥の部屋から微かに、甲高い女の笑い声がする。それはあの秘書のものでも、双子の妹たちのものでもない。もっと下卑た、嫌な感じの笑い声。
臨也のマンションに女が居る──。その事実は、静雄の思考をぴたりと停止させた。臨也は簡単に他人を自分のテリトリーには入れない。仕事場ならば分かるが、この声は奥の部屋から聴こえて来る。つまりはある程度は、近い関係の女なのだ。奥の部屋──即ち寝室に入れるぐらいには。
やはり、連絡をするべきだったのだろう。静雄は震える手で再びノブを掴んだ。勝手に来て驚かせようなんて考えて、全く碌なことがない。電話かメールでも送っていれば、こんな事にはならなかった筈だ。
静雄は手に持ったままの鍵を、靴箱の上へと置いた。もうこれは、自分には必要がない。初めて使ったその日に不要になるなんて、思っても見なかった。なんだか急に、この鍵が汚らしいものに感じられる。
怒りは湧いて来なかった。自分は男で、相手も男だ。同じ性を持つ者同士、長くは持つわけがないと思っていた。いつか終わりが来るんじゃないかと、ずっと不安に思っていたのだ。それが突然、今日だっただけだろう。怒りよりも、虚無感が心を支配した。
静雄は踵を返し、音を立てないように部屋を出る。今気付かれたら、自分は酷く間抜けに見えるだろう。せめて臨也に見付からないうちに、早くここを出て行きたい。
来た時と同じようにエレベーターに乗り、静雄は素知らぬ顔でマンションを出た。月が浮かぶ灰色の夜空も、ビルだらけの周囲の風景も、今の静雄には見る余裕はなかった。まるでそうプログラムされたロボットのように、機械的に駅に向かって足を運ぶ。きっと今の自分の顔は、酷く無表情に見えるのだろう。幽霊みたいな顔をしているかも知れない。
来た時より軽くなったポケットに手を入れ、静雄は鼻水を小さく啜る。ツン、と鼻の奥が痛かったけれど、涙は少しも出なかった。
どんよりとした気分の中で、明日が休みで良かったと静雄は思った。




静雄はうっすらと瞼を開けた。窓からは、チュンチュン、と鳥の鳴き声がする。遮光カーテンの隙間からは、朝の光も漏れ出していた。いつの間にか朝になっていたらしい。
昨夜はあまり良く眠れなかったせいで、体がやけに重い。うつらうつらとしていても、直ぐに目が覚めてしまっていた。嫌な汗もかいていたようで、体中がべたべたと気持ちが悪い。
静雄は体を起こすと、畳の上に放り出していた携帯を手に取る。真っ黒な画面のそれは、昨夜から電源を切ったままだ。臨也から連絡が来ることを恐れていたが、あの男は朝起きるのが遅い。置いて来たあの鍵に気付くまでは、まだ時間があるだろう。
静雄は手にした携帯をまた放り投げ、布団から完全に抜け出す。取り敢えずシャワーを浴びて、頭をスッキリとさせよう。今後を考えるのはそれからだ。
静雄は小さく溜息を吐くと、重い体を引きずるように浴室へ向かった。



陽射しが眩しい。
静雄は空を見上げ、眩い太陽を見て目を細めた。久し振りに私服で外出した為、いつものサングラスはしていない。こんなことなら掛けて来るんだった。
「じゃあ映画とか観ない?」
半歩後ろをついて来る旧友が、映画館のある方向を指差した。
ところどころ撥ねた髪に、いつも飄々としている顔。静雄の幼馴染みの、岸谷新羅だ。新羅は珍しく、真っ白なワイシャツに濃紺のスラックスと言った服装だった。トレードマークの白衣は、マンションを出る時に静雄が無理矢理脱がせてやったのだ。遊びに行くのに白衣で歩くなんて、いくら静雄でも体裁が悪い。
「お前は何が観たいんだ?」
「スプラッタ」
「死ね」
「冗談だよ」
あはは、と新羅が声を上げて笑う。静雄はそれに不機嫌に眉を寄せ、映画館に向かって歩き出した。
平日の午前だというのに、池袋の街は人だらけだ。メイド服を着た女がチラシを配っていたり、スーツを着たサラリーマンが気怠そうに歩いている。騒がしく、喧しい街だ。
起床してシャワーを浴びた後、静雄は新羅の家を訪れることにした。家にいて悩むよりは、誰かと一緒にいる方がマシだと思ったからだ。
マンションに着けば、残念なことに親友のライダーの姿はなく、出迎えたのは幼馴染みの闇医者だけだった。扉が開いて、その旧友の顔を見た途端に、静雄は何故か酷く安堵した。泣き出しそうな、とはさすがに言わないが、それに似たような気持ちになった。
静雄は新羅を見て開口一番に、「どっか行こうぜ」と口にした。新羅はそれに驚いたようだが、直ぐに破顔して頷く。「じゃあ今日は仕事は休みにしよう」と言って。多分、聡い新羅のことだから、何かを悟ったのだろう。新羅の一番は彼女で、新羅はセルティのことしか見ていないが、その実誰にでも優しい。
そして今、静雄と新羅は池袋のメインストリートを歩いている。空は太陽が燦燦と降り注ぎ、まるで夏みたいだ。例年より早く梅雨入りした筈なのに、雨が降ったのは月の初めだけだった。今年の夏も、猛暑になりそうだ。
さすがに臨也はもう起きている頃だろう。ほぼ真上にある太陽に、静雄は僅かに目を眇めた。ベッドの隣には、昨日の女がいるのだろうか。静雄が置いてきた鍵を、見付けることが出来ただろうか。
無意識にポケットに手を触れ、携帯電話を置いてきたことを思い出す。電話を掛けて来たりしているのかも知れない。いや、案外何も思っていないかも知れない──。
駄目だ。どうしても臨也のことを考えてしまう。もし心の傷が目に見えるのならば、ぱっくりと口を開けて血が流れていることだろう。身体の傷は癒えるのが早い癖に、自分は本当に欠陥品だ。
「結局、」
静雄は小さく息を吐くと、新羅を振り返った。
「どれにするか決めたか」
「海賊は?」
「あれは混んでるんじゃねーか?」
新羅が言った海賊映画は、静雄でも知っている程の超大作だ。今日は平日だったが、都心の映画館ならば混雑しているに違いない。
「じゃあ、こっちにしよう」
新羅はあっさりと引き下がり、これまた静雄が知っている映画を指差す。確か人気ドラマが映画化された作品だ。正直この映画に興味はなかったが、こうやって悩んでいるよりはマシだろう。静雄は渋々と頷いた。



映画は意外に面白く、夢中になっている間は臨也を忘れることが出来た。感極まって涙まで出てしまい、新羅には呆れられてしまったぐらいだ。臨也の家から出た時でさえ泣かなかったのに、映画に感動して泣くだなんて。
まだ鼻水を啜る静雄に、新羅はカフェに連れて行ってくれた。温かく甘いカフェオレを飲み、ついでにケーキも食べる。男二人でスイーツを食べる姿はきっと滑稽だろうが、静雄も新羅もそれを気にするタイプではない。
その後もゲーセンに行ったり、ボウリングをしたりと、普通の友人がすることをした。力の加減を覚えていた静雄は、何かを破壊することもなく、それらを楽しめた。たまに臨也のことを思い出して胸が痛んだが、なるべく考えないように努めた。
そんな静雄に気付いているだろうに、新羅は何も言って来ない。ただ笑って静雄にずっと付き合ってくれる。そんな幼馴染みの気遣いが、静雄には酷く嬉しかった。
夜は露西亜寿司で飲みながら、二人は最近の話や、昔の思い出話をした。相変わらず新羅の惚気話には閉口したが、今日だけは付き合ってやることにする。セルティは確かにいい奴だし優しいが、新羅の話を聞いているとたまに本当に同じ人物の話なのか疑問に思う。美人だとか、笑顔が可愛らしいとか──首が無いのに何故分かるんだろう。これも愛の力ってやつなのだろうか。
新羅がセルティにメールを送信中、静雄は家に残した携帯のことを考えた。電源も入れず、部屋にずっと放置したままの携帯。弟から電話でも来ていたら、繋がらない事に心配しているかも知れない。家に帰ったら、一度電源を入れなくてはならないだろう。静雄にはそれが少し気が重い。
静雄が手にした猪口を飲み干した時、露西亜寿司の引き戸がガラリと開いた。奥の座敷の部屋からは、ちょうど入口が良く見える。
「うわあ…」
前の席で酒を飲んでいた新羅が、それはそれは嫌そうな声を上げる。
静雄の方はただぽかんと、寿司屋に入って来た男を見詰めていた。
真っ黒なコートに真っ黒なスラックス。眉目秀麗なその顔は、珍しく酷く焦ったような顔をしていた。走って来たのだろうか、小さく肩で息をしている。
「シズちゃん」
臨也は座敷の方へ駆け寄ると、靴を脱いで中に入って来た。部屋の中は当然、他に出入口があるわけではない。静雄は咄嗟に身を引くが、逃げることも叶わずに、臨也から目を逸らすしか出来なかった。
「僕、ちょっとトイレ」
臨也と入れ違うようにして、新羅が席を立つ。静雄はそれに内心慌てるが、新羅はさっさと扉を閉めて出て行ってしまう。
「……」
密室に二人きりにされ、静雄は俯くしかない。今は臨也の顔をまともに見ることが出来なかった。怒ればいいのか、喚けばいいのか、それすらも分からない。
「誤解だから」
臨也は静雄の隣に座ると、開口一番にそう言った。
その言葉に思わず静雄が顔を上げれば、真剣な顔をした臨也と目が合う。
「誤解だよ」
臨也はもう一度、同じ言葉を繰り返した。
何が誤解なのだろう。静雄はじっと臨也を見る。
臨也のこの白い頬に、誰かの手が触れたのだろうか。
臨也のこの赤い唇に、誰かの唇が重なったのだろうか。
臨也のこの黒い髪を、誰かの手が撫でたのだろうか。
「…別に、」
発した自分の声は、酷く掠れている。
「別にいいんだ」
そう、別に良かった。自分と臨也は男同士だ。臨也だって、付き合うなら女の方がいいだろう。抱くのも、柔らかい女の体の方が良いに決まっている。
そう思うのに、静雄は今、胸が苦しい。チリチリと胸の奥が痛くて熱くて、息の仕方を忘れたみたいになる。嫉妬や悲しみなんて、これ以上知りたくなんかなかった。もう放っておいてくれ──こんな感情は、もう抱きたくない。
「何がいいの」
臨也の手が伸びて来て、静雄の手首を掴んだ。その力は強く、白い臨也の指先が更に白くなる。
「いいわけないだろ」
珍しく、臨也の口調は粗暴だ。掴まれた手首が痛くて、静雄は思わず腕を引く。けれど、臨也の手は離れない。
「こんな誤解で、シズちゃんと離れるのは嫌だ」
「…っ、」
腕を引かれ、抱き締められる。静雄はびくっと体を強張らせた。臨也の体からは、香水と、汗の匂いがした。
「シズちゃんが、好きなんだ」
そう告げた臨也のテノールは、いつもより低く震えている。その言葉は、臨也から初めて告白された物と同じだった。
「好きだ」
抱き締める力が強くなる。衣服越しでも、臨也の心臓が強く高鳴っているのが分かった。自分と同じように。
突き放すことも、抱き締め返すことも出来ず、静雄はただ顔を伏せていた。誤解だろうが本当だろうが、もうどうでもいい気がした。この臨也の言葉だけが真実で、静雄はそれを信じるしかない。
「…お前は馬鹿だ」
「ごめん」
「死ね」
「ごめん」
静雄の悪態にも、臨也は謝罪するだけだ。視界に入る臨也の襟足が、僅かに汗で濡れている。ずっと走って静雄を探していたのだろう。電話が繋がらなくて、きっと焦ったに違いない。そう考えれば、少しだけ溜飲が下がる。静雄は思わず低い笑い声が漏れた。
「言い訳なら後でちゃんと聞いてやる」
静雄は体を離し、臨也の顔を正面から見詰める。臨也は酷く悲しげな、まるで泣き出しそうな顔をしていた。
「だから今は──、」
それ以上は口に出さなかった。否、声に出せなかったと言う方が正しいのかも知れない。
後頭部に手を回され、優しく降ってきたキスに、静雄はゆっくりと目を閉じた。


佇立瞑目
(目を瞑って立ち尽くすこと。深い悲しみのせいで目を閉じたまま佇むこと)


500000HIT企画、ゆの子様リクエスト
臨也さんの浮気疑惑に悩むしずおとめ
(2011/06/04)
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -