合縁奇縁




自分より前を歩く男の足を、新羅は先程からずっと見詰めていた。濃紺のジーンズに、白いスニーカー。スニーカーのサイドには、真っ黒なラインが入っている。彼にしては珍しい格好だ。ここ数年、新羅は彼が革靴を履いた姿しか見たことがない。ジーンズ姿なんてのも、実に久し振りに見た。
今日は夏前だというのに陽射しも強く、アスファルトの照り返しが暑い。前を歩く彼の足元には、黒い影が小さく出来ている。太陽はほぼ真上で、もう直ぐ昼になるのだろう。
「結局、」
白いスニーカーが目の前で立ち止まる。勿論その影も。
「どれにするか決めたか」
「海賊は?」
新羅はやっとスニーカーから顔を上げ、目の前の男を見た。蜂蜜色の髪の毛は、太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。いつものサングラスは無く、薄茶色の瞳が気怠そうに新羅を見下ろしていた。
「あれは混んでるんじゃねーか?」
静雄は眉根を寄せ、うんざりとした顔になる。今話題の、超大作の海賊映画の話だ。平日とは言え、きっとそれを上映する映画館は混んでいるだろう。静雄は混雑が大嫌いな男だった。
頭上に青空が広がる、とある平日の池袋。新羅は久しぶりに(ひょっとしたら高校以来かも知れない)、友人である平和島静雄と外出していた。
「どっか行こうぜ」なんて、高校生の時でも滅多になかった静雄からの誘い。今日は愛しの彼女も居なかったし、戸惑いながらも新羅がそれに承諾したのが1時間前のことだ。毎日着ている大事な白衣を脱いで(静雄が脱げと脅したのだけれど)、新羅はいま静雄と映画館前にいる。
「じゃあ、こっちにしよう」
混雑するであろう話題作を避け、新羅は違う映画のポスターを指差した。静雄はそれをやっぱり不機嫌な顔で見たが、渋々と頷く。人が少なければ、きっとなんの映画でも良いんだろう。彼は別に、映画を見たいわけじゃないのだ。
案の定、その映画はそんなには混んではいなかった。公開してから二ヶ月は経つので、旬が過ぎたのだろう。それでも平日にも関わらず、座席の半分以上は埋まっていた。二人はポップコーンとコーラをそれぞれ買い、指定の席に座る。
映画が始まるまで、二人は他愛もない話をした。最近の出来事や、二人の共通の話題──セルティのこと──、仕事の話や昔の話。やがて館内が暗くなり、映画の予告が始まると、二人は黙り込む。
…なんか、あったのかな。
塩気が強すぎるポップコーンを食べながら、新羅はちらりと静雄の横顔を盗み見た。静雄は無表情にスクリーンを見ている。静雄がどこかに行こうと誘うだなんて、嬉しいけれどやっぱりなんだか気持ちが悪い。いつもの静雄らしくないからだ。口にしたコーラも、やけに味気なく感じてしまう。
いつの間にか予告が終わり、映画の本編が始まった。新羅は静雄からスクリーンへと意識を戻す。映画が始まってしまえば、静雄のことはそれ以上気にならなくなった。
格闘アクションや銃撃戦もあるその映画は、意外にも新羅を夢中にさせる。久しぶりに見た邦画だったが、日本のアクション映画も悪くないなと思う。主人公の上司が撃たれた時は、観ていた新羅も思わず身を乗り出した。
1時間半ほどの映画が終わり、テーマソングと共にエンドロールが流れる。たまには映画もいいなあ…なんて思って隣を見ると、静雄はぐすぐすと鼻を鳴らして目を擦っている。どうやら今の映画に感動して、泣いてしまったらしい。新羅はそれに気付いてぎょっとした。
「ちょっ…、静雄」
慌ててハンカチをポケットから取り出す。どうせ静雄はハンカチなんて自分で持ってないのだ。目を擦る静雄の手に、ハンカチを握らせた。
「っ…、目にゴミが入ったんだよ…」
なんて言って、静雄はハンカチで乱暴に涙を拭う。それは分かりやすい嘘過ぎて、新羅は思わず苦笑した。今の映画は確かに良かったけれど、泣くようなシーンなんて無かった筈だ。本当に涙もろいところは、昔から変わっていない。
エンドロールが完全に終わり、館内の照明が明るくなった。見終わった観客たちは、次々と映画館を出てゆく。次の上映までに清掃をするだろうから、自分たちも早く出なければならない。
「ほら行くよ、静雄」
新羅は静雄の手から空の紙ップなどを奪い取り、急いで席を立った。出口に向かう新羅の後を、静雄も無言でついて来る。これではいつもと立場が逆だ。
二人が映画館を出ると、相変わらず陽射しが眩しい。太陽は少しだけ傾いて、足に出来る影の位置も変わっていた。
ちらりと静雄を見れば、まだ目のあたりが赤い。さすがに涙はもう引っ込んではいるが、酷く悲しそうな顔をしていた。
全くしょうがない友人だ。新羅は気付かれないように小さく息を吐く。
「ちょっと、お茶でも飲もうよ」
新羅はそう言って、静雄の腕を掴んで歩き出した。静雄の方も、別段それに抵抗はしない。まだ映画の余韻に浸っているのか、おとなしく新羅について来た。
世話が焼けるなあ…。
新羅は内心小さく苦笑する。こんなしょげた静雄は、まるで大きな子供みたいだ。そしてこんなことを思っているのがばれたなら、きっと自分の命はないだろう。
手頃なカフェでコーヒーを飲み、その後はゲームセンターに行った。買い物をしたり、ボウリングをしたり、久し振りの友人との外出は、新羅でもそれなりに楽しかった。
たまに静雄がいやにぼんやりしていることがあったが、新羅はそれに気付かない振りをする。聞いて欲しいのならば、静雄から言ってくるだろう。こちらから何かを聞いたとしても、静雄は何も言わない気がした。今の静雄は多分、気分転換がしたいだけなのだと思う。
「そろそろ帰る?」
左腕に嵌めた腕時計を見ながら、新羅は静雄に聞いた。
時刻はもう直ぐ7時。あまり空腹ではなかったが、静雄がいいなら夕飯を食べて行っても良いかも知れない。せっかく久し振りに二人で外出したのだから。
「…そうだな」
静雄はまたぼんやりとした顔で、紺色の空を見上げる。日が長くなった今は、この時間でも空が未だに明るい。
「まだ…帰りたくねえな」
ぽつんと静雄が呟いた言葉は、きっと彼の本心なのだろう。恐らくその日初めて、静雄が新羅の前で口にした本音だった。
新羅はぽん、と静雄の肩を叩くと、手を引いて歩き出す。
「新羅?」
いつになく強引な新羅の行動に、静雄は目を丸くした。
「ご飯食べて、お酒でも飲もうよ」
奢ってあげるからさ、と言って、新羅は屈託なく笑う。ひょっとしたら家にはもうセルティが帰宅しているかも知れないけれど、今だけはこの目の前の友人を優先することにした。多分それは、一生にあるかないかの出来事だ。
新羅は静雄の手を引いて、ロシア人が経営する寿司屋へと歩く。セルティには後で連絡をしておこう。彼女も人間みたいに食事が出来たなら、親友の静雄の為にきっと付き合ってくれただろうに。
平日のせいか、今日の露西亜寿司は客が少なかった。サイモンの姿が見えないので、出前が忙しいのかも知れない。常連の門田たちの姿も今日はなかった。
新羅と静雄はカウンター席ではなく、奥の個室の座敷に座ることにする。何か静雄が話したくなれば、カウンターよりは個室の方が良いだろう。
静雄はあまり酒が強くない。熱燗の一本目で、既にその目許は真っ赤になっていた。新羅もあまり酒は嗜む方ではないけれど、静雄よりはまだ飲める方だと思っている。でもお酒というのは多分、直ぐに酔える方が良いのだ。嫌なことを忘れたい時なんかは、特に。
「あ、セルティにメールしよう」
そう言って新羅は、ポケットから携帯を取り出す。それを見た静雄が、アルコールでとろんとした目で「今何時だ?」と聞いてきた。
「もう直ぐ9時だよ。あれ?静雄、携帯は?」
そういえば今日一日、静雄が携帯を開く姿を見ていない気がする。誰かと居る時に携帯ばかり弄るのは印象が悪いが、さすがに一度も携帯を見ないなんて珍しい。静雄は腕時計もしていないし、時間を確認するのに携帯ぐらいは普通は見るだろう。
「…家に忘れてた」
一瞬の間のあと、静雄は短くそう答える。新羅はそれに「ふうん」と相槌を打ちながら、聞いちゃ駄目なことだったかな…なんて思っていた。電話かメールが来たら、何かまずい事でもあるのだろうか。案外電源を切って、部屋に放置しているのかも知れない。つまり、誰かからの着信を恐れているのか。
──…まあ、静雄がこんな不安定になる相手って──。
一人しか思い浮かばない。
セルティにメールを送りながら、新羅は静雄をそっと盗み見る。目の前の静雄はいやに沈んだ表情で、手にした猪口で酒をちびちびと飲んでいた。きっと今、自分がどれだけ寂しい表情をしているのか、全く気付いていないのだ。
──まったく、しょうがないなあ。
はあ、と小さく溜息を吐いて、新羅はメールの新規作成画面を開いた。



新羅がメールを送ってきっかり5分後。新羅からメールを受け取った相手は、露西亜寿司に慌ててやって来た。がらりと扉が開き、息を弾ませて入って来たその男に、新羅と静雄は驚きで目を見開く。
「…うわあ…」
メールを送って数分で来るなんて。あまりの行動の早さに、新羅は少し呆れてしまった。大方、静雄を探して池袋中を歩き回っていたのかも知れない。息を弾ませ、随分と焦った表情で。臨也のそんな顔は珍しくて、少しだけ溜飲が下がる。
「シズちゃん」
臨也は店員のロシア人もメールを送った新羅も無視し(どうやら目に入っていないようだった)、真っ先に静雄の元へと駆け寄って来た。座敷の中に入るのに、靴を脱ぐのももどかしそうだ。
静雄が暴れ出したらどうしよう──と新羅は内心焦ったが、静雄は意外にも何も言わず、ただ顔を伏せて臨也から目を逸らしていた。
──…あー…。
なぁんだ、やっぱり臨也と喧嘩してたのかあ。
そんな二人を見て、新羅は漸く合点がいく。普段から体を痛め付けるような喧嘩はしている癖に、精神的な喧嘩は互いに弱いらしい。まったく、とんだバカップルだ。
「僕、ちょっとトイレ」
新羅はそう言って、そそくさと席を立った。静雄が縋るような目をしてこちらを見たが、今はそれに気付かない振りをする。だって今の新羅の立場は、誰がどう見たってお邪魔虫だ。
新羅は座敷を抜け出し、ついでに引き戸も閉めた。これであの二人は個室に二人っきりだ。何があったのか知らないけれど、二人だけで話せばいいんじゃないかと思う。夫婦喧嘩は犬も食わない──あの二人は勿論夫婦なんかじゃないけれど、新羅にとっては似たようなものだ。口を挟むのは野暮だろう。
「お茶、飲むかい?」
ロシア人の店主はくしゃりと笑って、カウンターに緑茶を差し出した。新羅の為に、わざわざ淹れてくれたのだろう。様々な魚の名前が書いた湯呑みからは、真っ白な湯気が上がっている。
新羅はそれに頷き、溜息を吐いてカウンター席に座った。背後では何やら言い争うような声がしていたが、暫くしてそれはピタリと止んだ。中で何が行われているかなんて、新羅は想像もしたくない。
──あ、そういえばまだ少し食いかけの寿司があったんだ。勿体なかったな…なんて思いながら、新羅は熱いお茶を音を立てて啜る。眼鏡は白く曇ったけれど、体が温まって少しホッとした。
「支払い、折原臨也のツケにしておいてくれますか」
お茶を飲みながら新羅がそう言うと、店主は笑って承諾した。よし、それならセルティに高い寿司でも土産に持って帰ろう。彼女は食べれはしないけど、どうせ臨也の支払いだ。
新羅は土産の旨を店主に告げ、お茶をまた一口飲んだ。たまにはこんな休日も悪くない。今度は自分から誘って静雄と出掛けよう。臨也も一緒でもいいか──。
新羅はそう思い、口許を綻ばせた。


合縁奇縁
(気が合うのも、気が合わないのも不思議な縁だ、と言う意味)

(2011/05/26)
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