イノセントワールド
(innocent world)


6月の雨は物憂げだ。
臨也は廊下の窓から見える、鉛色の空に目を眇めた。
土砂降りではないが、今日は朝からずっと雨が降り続いている。静かな雨音は世界を覆い、普段は騒がしい校舎はいやに静謐だ。尤も今は授業中で、静かなのは当たり前だったのだが。
臨也はゆっくりとした足取りで、階段を昇ってゆく。普段は気にならない自身の足音も、静かな空間にはやけに煩く感じられる。時々上履きが床に擦れ、キュッ、と高い音が響いた。
最上階までの階段を昇り切ると、目の前の古ぼけた扉に手を掛ける。キィ、と軋んだ嫌な音がして、扉はあっさり開かれた。
ザアアアアアァ。
扉を開けた途端、静かだった空間が雨音によって支配される。空は臨也が思っていたよりは暗くなく、時折雷鳴が雲の合間に響いた。
コンクリートの床は、雨のせいで色が変わってしまっている。緑色のフェンスが風で揺れ、設置された屋上のベンチもずぶ濡れだった。
──ああ、やっぱりだ。
臨也が思っていた通り、目的の男は雨の屋上にいた。彼の蜂蜜色の金髪は、今は色濃く変化している。白いワイシャツは肌が透け、制服のズボンもずぶ濡れだ。
彼はフェンスに背中を預け、俯いて床に座り込んでいた。雨にずっと打たれたまま、両足をコンクリートに投げ出して。
「シズちゃん」
臨也が来たのは分かっている筈なのに、静雄は顔を上げもしない。声を掛けても、こちらを見ようともしなかった。
そんな静雄を見ながら、臨也は暫し逡巡する。臨也だとて、この雨で濡れるのは御免だ。静雄の傍に行く用事があるわけでもないし、静雄の体を気遣う義理もない。なら、構うべきではないのだ。そう思うのに、臨也の足は動かない。
──今の静雄は危険だ。
臨也は扉に手を掛けたまま、雨に濡れる男を見る。
危険だというのは、憤怒や狂気や暴力や、そう言ったものではない。もっと目に見ることが出来ない、多分、臨也にしか分からないもの。
標識で殴られたり、自動販売機を投げられたり、互いを傷付け合うことしか出来ない。そんな殺伐とした関係なのに、静雄がたまに見せるあの眼差し──。臨也はそれに、ずっと気付かない振りをしている。
一体いつからなのだろう。一体いつからあんなに熱く、焦がれた目で自分を見るようになったのだろう。
一体いつから──…静雄は自分に惹かれたのだろう。殺し合いにも似た、馬鹿馬鹿しい喧嘩をずっとしているのに、どこに好きになる要素があったのだろう。
臨也は人間が好きだ。その分、人間を良く観察している。話し方、癖、態度、性格を考えて、この人間はどんな風に動くかを予測する。残念ながら静雄は例外中の例外で、行動を予想することは臨也にも出来ない。けれど、あの目だけは分かってしまったのだ。あれは、恋をしている人間の目だ。静雄は臨也に、恋をしている。
稲光が光り、雷鳴が轟く。臨也は静雄から目を離さぬまま、屋上の入口に佇んでいた。屋根があるとは言え、開けっ放しの扉からは雨の雫が飛んで来る。それは制服のズボンの裾を濡らしたが、それでも臨也はそこを動かなかった。
多分、これから先も臨也は気付かぬ振りを続けるだろう。静雄も行動を起こすつもりはないだろう。当たり前だ。自分達は男同士で、世間一般的には犬猿の仲で通っている。恋情を抱くなど、有り得なかった。
なのに──。
臨也は扉から手を離した。支えを失ったそれは、バタン、と音を立てて閉じられる。その音を背後に聞きながら、臨也は雨の中に一歩を踏み出した。
コンクリートの床は、ところどころに水溜まりが出来ている。上履きが濡れ、顔や体にも容赦なく雨が降り注いだが、臨也はゆっくりとフェンスに近付いて行った。視線を静雄から逸らさないまま。
「シズちゃん」
静雄の前に立ち止まり、普段自分より背の高い男を見下ろす。静雄は俯いたまま、いまだに顔を上げない。
「風邪を引くよ」
そう口にしても、静雄は何も答えなかった。
その間にも雨は降り続き、二人をもっともっと濡らしてゆく。臨也の漆黒の前髪からは水が垂れ、頬を伝って雨がこぼれ落ちる。
この日の静雄は、きっと何かがあったのだろう。そして臨也も、この日は少し変だったのだ。それは物憂げなこの雨のせいかも知れないし、たまたま何かが重なったのかも知れない。
臨也は何も答えない静雄の前に、膝を付いてしゃがみ込んだ。ぴく、と静雄の濡れた肩が揺れ、ゆっくりと顔を上げる。赤い臨也の目と、静雄の茶色の目が、その日初めて合った。
「…臨也」
静雄が臨也の名を呼ぶ。その声はやっと聞き取れるくらいに小さく、少しだけ掠れていた。
──ああ、なんて目をして見るんだ。
静雄の瞳から目が離せない。熱に浮された、凛とした瞳。
彼は知っているのだろうか。恋しい人間を見ている時の、自分の目を。どれだけ自分が熱く強い眼差しをしているのかを。
「──…臨也、」
静雄がまた名前を呼ぶ。臨也はそれには答えない。今臨也が考えていることは、『自分が静雄を見詰める眼差しは、どう見えているのだろう?』と、いったことだった。
それは同じだろうか。自分も静雄と同じ、蕩けるような眼差しをしているのだろうか。そして静雄はそれを知っていて、自分と同じようにやはり黙っているのだろうか。
「……、」
静雄が薄い唇を開き、何かを口にしようとする。しかし言葉を口にする前に、臨也は静雄の口を塞いでしまう。
まだ臨也は、その言葉を聞きたくは無かった。まだ自分には、そんな勇気など湧いては来なかった。殻を破ろうとする、静雄の潔さ──これが臨也と静雄との、決定的な違いなのだろう。
初めて触れた静雄の唇は、雨で濡れて冷たかった。触れるだけだったそれは、徐々に熱を帯びる。
何度も角度を変え、吸い付きながら、思うがままに唇を貪った。上唇を食み、歯列に舌を這わせ、雨の味がする口づけを交わす。
「…ん…、」
時折漏れる静雄の声に、臨也の体は熱くなった。後頭部に手を回し、更に深く口づける。静雄の背中に当たるフェンスが軋み、ギシギシと嫌な音を立てた。けれど今の臨也には、そんなことはどうでもいい。
静雄の震える指が握り締められ、臨也の背中に回される。こんな風に縋り付くようにされては、臨也の心は歓喜に震えてしまう。
──これは気の迷いだ。
深く、静雄の口腔を侵しながら、臨也は思う。
恐らく互いに、この日のことは死ぬほど後悔するだろう。言葉を口にしようとした静雄も、それに口づけてしまった臨也も。
多分、この体を離した瞬間から、無かったことになるのだろう。この口づけも相手の体温も、忘れた振りをするのだろう。互いの保身の為に。
稲妻が空を一瞬照らし、雷鳴が耳をつんざく様な音を立てる。雨が降り続く学校の屋上で、二人はずっと口づけていた。


あの日のことを。
高校を卒業し、成人して数年経った今も、臨也はずっと忘れなかった。
案の定、静雄はあのことについては触れて来なかったし、次の日からはまたいつものように喧嘩をした。
まるで夢だったのではないかと思えるほど、互いにいつも通りだった。いつも二人の傍にいた新羅でさえ、何かあったなんて気付かなかった筈だ。
秘書の女が淹れたコーヒーを口に含み、臨也はそっと窓を見る。窓には雨粒が幾つも張り付いて、軒下からは雨垂れが落ちていた。
薄い、灰色の空。6月の物憂げな雨は、臨也にあの日のことを嫌でも思い出させる。
あの日のあの口づけを、臨也は何度後悔したか分からない。未だに胸の奥が震え、そこに何かが燻っているような気がした。6月のこの時期は、臨也には毎年息苦しい。
カチャン、と小さな音を立て、まだ湯気が上がるカップをソーサーに置く。時間を掛けて淹れられたそれは、ほんの少ししか減っていなかった。
「ちょっと出掛けて来るよ」
そう言って臨也は、6月には些か季節外れのコートを身につける。
「あら」
それを見た秘書の女が、感情のない瞳を雇い主に向けた。
「今日は雨だから出掛けないって言っていたのに?」
「用事を思い出した」
臨也は素っ気なくそう言って、足早に部屋を出て行く。玄関まで歩き、靴箱の横にある傘立てが目に入った。外は雨が降っており、大抵の人間なら傘を持って出掛ける筈だ。だが臨也はそれを横目で見るだけで、何も持たずにマンションを後にした。
静かに降り注ぐ雨の中を、傘も差さずに歩いて行く。高層ビルが建ち並ぶ通りを抜ければ、直ぐに地下広場の入口が見えて来た。階段を下り、通路を真っ直ぐに進むと、やがて駅の中へと入る。改札を抜け、緑色のラインの電車に乗り込み、臨也は小さく息を吐いた。
電車の窓には、雨の雫が幾つも流れている。吊り革に掴まり、ネオンや広告だらけのビルを眺めながら、臨也は昔を思い出していた。若く、まだ青かった、高校生の頃。
あの頃、まだ世界は小さくて、自分がいつか大人になると言うことを実感出来ずにいた。高校に入学し、静雄に出会って、世界の広さの一片を見た気がした。
毎日のように喧嘩をし、毎日のように相手を陥れることを考えた。生傷が絶えず、袖口にはナイフを隠し持った。通学路には標識が一本も無くなり、自動販売機の残骸が道を埋め尽くす。それが当たり前の、日常だったあの頃。
初めはただの興味だった。行動パターンが読めず、思考や感情が予測不能。そんな人間は初めてだったし、手なずけようとも試みた。結局はどれも失敗に終わり、結果嫌悪感を抱くようになる。どんなに静雄に関するデータを集めても、彼を理解し、解り合うことは出来なかった。
なのに互いに惹かれるなんて──。
臨也にとって、多分静雄にとっても、笑えないジョークだった。
気付けば車内のアナウンスは、池袋への到着を告げている。電車の扉が開き、乗客たちが湿気が酷い構内へと流れ出た。その雑踏の波に紛れ、臨也もプラットホームへと降り立つ。
階段を昇り、改札を潜って、池袋の駅を出る。相変わらず空は灰色で、雨がしとしとと降り続いていた。人々は色とりどりの傘を持ち、それぞれの目的地に進んでゆく。臨也はその中をかい潜り、当ても無く街を歩いていた。傘も差さず、ずぶ濡れの姿のまま。
真っ黒なコートが、雨水を吸って重くなる。ショップのショーウインドウに映る自分の姿は、酷く滑稽に思えた。
自分は何をしに、この街を訪れたのだろう。
何の為に、誰を探しに──。
ぽたぽたと、濡れた前髪から雫が落ちた。濡れて体に張り付く衣服が不快だ。それでも臨也は足を止めることなく、雨に打たれたまま街をさ迷う。メインストリートを抜け、路地裏をひとつずつ確認しながら、誰かを探して歩いてゆく。
アスファルトが濡れ、表面に雨の膜が出来た。その鏡のような水溜まりに、灰色の空が映り込む。空を見上げれば、黒い雲の隙間に稲妻が見えた。それに遅れて響く、鋭い雷の音。
張り裂けるような雷鳴に、街を歩く少女たちの悲鳴が重なる。臨也はそれに眉根を寄せ、人通りのない路地裏へ入り込んだ。
そしてその場所で、ぴたりと足を止める。
薄暗く、シャッターが下りた店が並ぶ袋小路。
今はもう営業をしていない風俗店の前に、臨也が探していた人物が座り込んでいた。
普段は冠のように光り輝く髪が、今は雨に濡れて色が濃い。白いワイシャツは肌が透け、細い腕に張り付いている。黒のスラックスから覗く足は、アスファルトへ投げ出されていた。その儚げな姿は、あの時のまま。
そんな静雄の姿を見て、臨也は小さく息を吐いた。容赦無く降り注ぐ雨が、一際強くなって来る。
あの時と同じ灰色の空。鳴り響く雷鳴と、他に誰もいない静かな空間。6月の物憂げな、とある雨の日。
臨也はポケットに両手を隠し、拳を強く握り締める。毎日会っていたあの頃とは違い、今では月に1、2度遭遇するかどうかだ。会っても直ぐに喧嘩に突入し、会話をすることは殆どない。彼は今でも、あの恋焦がれた眼差しをしているだろうか。あの熱く蕩けるような眼で、自分を見るだろうか。
今なら──。
あの頃より大人になった今なら、自分は静雄を受け入れるだろう。恋や体面を恐れていたあの頃よりも、今は溺れる覚悟は出来ていた。
臨也は一歩前に踏み出し、静雄との距離を詰める。地面に出来た水溜まりが、パシャンと小さく音を立てた。それでも静雄は俯いたまま、顔を上げない。
「シズちゃん」
名前を呼べば、静雄の体がぴくりと揺れる。臨也はゆっくりとした足取りで静雄に近付いて、やがて目の前で立ち止まった。
「シズちゃん」
もう一度名前を呼び、静雄の傍らに膝を付く。濡れた手を差し延べれば、微かにその指先は震えていた。臨也はその手で、静雄の華奢な肩を掴む。
静雄がゆっくりと顔を上げる。静雄の美しい茶色の瞳に、雨に濡れた臨也の姿が映し出される。

その目を見た瞬間、もう言葉なんて要らなかった。


(2011/05/22)
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