青い空、白い雲、エメラルドグリーンの海。
せっかく沖縄に来て、海が目の前にあるのに『修学旅行では遊泳禁止』。別に泳ぎたいわけではないが、それはそれで寂しい気がする。クラスメイトが何人か不平を漏らしていたのを、臨也は思い出した。
真っ青な空から視線を逸らすと、前方を歩く男に目を向ける。金の髪が太陽の光を受けて、キラキラと輝いていた。真っ白なワイシャツは強い風のせいで、パタパタとはためいている。夏が似合う男だ、と臨也は思った。
後ろ姿ばかりを見ているのが癪で、臨也は幾分歩みを早くする。隣に並んで顔を見れば、相手は驚いた顔になった。目を丸くして、随分と可愛らしい表情だ。
しかしそんな表情も直ぐに霧散して、いつもの仏頂面になってしまう。臨也が良く知る、静雄の不機嫌な表情。
臨也はこの修学旅行に来るまで、『静雄のこの顔は臨也に対する嫌悪から来るもの』、と認識していた。けれど実際にこうやってまじまじと静雄を眺めれば、その耳も目許も僅かに赤い。照れていても無愛想な顔になるのだな、と臨也は新たな発見をした。嫌悪し、喧嘩ばかりしている相手に抱くその心情は、何やら複雑な気分だった。
「…なんだよ」
じろじろと見ていたのが気に入らないのか、静雄が低い声で文句を言う。不機嫌なその声も、怒りが含まれていないことを臨也はもう知ってしまった。
「いや。──…沖縄の空は綺麗だね」
臨也はにっこりと笑って、静雄の手を不意に掴む。ぴく、と相手の指先が震えたが、その手を離してやる気はなかった。自分の手とは違って、静雄の手はいつも温かい。
ぎゅうっと手に力を入れれば、珍しく静雄は抵抗しなかった。この沖縄に来た数日間で、諦めてしまったのかも知れない。
臨也から見える横顔は更に赤くなっていたが、今はそれを指摘するのはやめてあげることにする。
手の温度も、声も、表情も──。
自分は何も知らなかったのだな、と臨也は思った。



PIECES OF A DREAMC



「うわあ」
静雄の横で、新羅が小さく感嘆の声を上げる。そしてお喋りな新羅にしては珍しく、それっきり黙り込んでしまった。どうやら目の前の光景に、余程感激しているらしい。
手摺りに片手を付き、静雄もそれを目を見開いて見上げていた。自分の身長の何倍もある、大きな水槽。その巨大な水槽の中を、悠々と泳ぐ様々な魚たち。
「マンタだ」
後ろで臨也がぽつりと呟く。その視線の先を追えば、たくさんの魚の中で、一際大きなエイが泳いでいた。
サンシャインシティの水族館しか知らない静雄には、こんな大きな水槽は生まれて初めて見る。世界一巨大なエイも、共に泳ぐジンベエザメも。何もかも初めての経験だった。
「滅多に見れないよ、こんなの」
手にしていたカメラを構えながら、新羅は興奮したように口にする。
「やっぱり沖縄に来て良かった!静雄もそう思うでしょ?」
「…まあな」
新羅の言葉に一瞬答えを窮したが、静雄は素直にそう返事をした。青い空も白い雲もエメラルドグリーンの海も、都心に住む静雄たちにとっては珍しいものだ。そしてこんな美しい水槽も、沖縄でなければ体感できなかっただろう。
夢中でシャッターを切る新羅から視線を外し、その隣にいる男をそっと盗み見る。臨也は先程から楽しげに、門田に何やら話しかけていた。
同じ班になって気付いたが、臨也と門田は意外に仲が良いようだ。たまに門田が嫌そうな表情をするものの、臨也に合わせて普通に会話をしている。
──…まあ、俺には関係ねえけど。
臨也が誰と仲が良かろうが、自分には関係ない。
静雄は二人から目を逸らし、また大きな水槽を眺めた。巨大なアクリルパネル越しに、魚たちが静雄の目の前をゆらゆらと泳いでゆく。それをずっと眺めていると、まるで自分も海の中にいる錯覚さえ覚える。深い深い、海の底。
「静雄がさ、」
水槽にカメラを構えたまま、新羅がまた口を開く。パシャ、とフラッシュの光が瞬いた。
「静雄が来て良かったって思えるなら、僕も嬉しいよ」
新羅はそう言って微かに笑った。カメラのせいでその目は見えないけれど、きっと優しい眼差しをしているのかも知れない。
この友人は、自分が修学旅行を行けるように色々と尽力してくれた。静雄が天敵の男と喧嘩をしないのも、班を作って過ごせるのも、全て新羅のお陰だと思っている。──そう、臨也が静雄と共にいるのは、新羅が頼んだからだ。臨也の意思ではない。
「…色々悪かったな」
胸にちくりと走った痛みを無視し、静雄は新羅にそう言った。勿論、感謝の気持ちを込めて。
「ははっ、謝罪なんて静雄らしくないよ」
新羅は声を出して笑い、水槽を眺める静雄の姿を一枚カメラに収めた。突然のことに静雄は目を丸くしたが、それに文句は言わない。
「俺も撮ってよ」
不意に横から腕が伸びて来て、静雄の腰に回される。驚いて顔を向ければ、臨也が口端を吊り上げて立っていた。
「シズちゃんとツーショット写真が欲しいなあ」
「別にいいけど…、現像代は貰うからね?」
新羅は笑いながら、カメラを二人に向かって構える。
「おい、」
ぴたりと引っ付いて来る臨也に、静雄は不機嫌に眉根を寄せた。なんで自分が臨也なんかと写真を撮らなくてはならないのか。気に食わない。
「写真くらいいいじゃないか。ほら笑って」
静雄の腰に回した腕の力を強くし、臨也はファインダーに向かってにっこりと微笑む。空いている片方の手は、ピースサインをして。
静雄はそんな臨也に幾分呆れたが、それ以上抵抗はしなかった。目の前では新羅がカメラをこちらに向けていたし、その場の雰囲気に流されてしまったのかも知れない。
「はい、笑って!」
新羅の掛け声と共に、フラッシュの光が瞬く。きっと写真の中の静雄の顔は、酷い仏頂面になっているだろう。顔をほんの少しだけ赤くして。
その後も数枚、門田や新羅と代わる代わるに写真を撮った。新羅は携帯のカメラでも撮影し、ウキウキと愛しの彼女へメールで送る。あまり写真が好きではない静雄は、新羅のカメラマン振りに呆れるばかりだった。
この黒潮の海の水槽は、水族館の順路の最後にある。これを見終わったら後はホテルに帰るだけ。修学旅行三日目も、無事に一日が過ぎそうだ。
ガイドの説明や新羅たちのお喋りを後ろで聞きながら、静雄はぼんやりと水槽を見詰める。こんなに大きな生物の前では、人間というのは酷くちっぽけな存在だ。
「さっき、新羅と何を話していたの?」
いつの間にか臨也が隣にいて、静雄の顔を覗き込んで来る。
「手前には関係ねえだろ」
素っ気無く答えてやれば、臨也は肩を竦めて両手を上げて見せた。芝居がかったその態度に、静雄は小さく舌を打つ。臨也の姿を見ただけで、今の自分は気分が悪い。
「手前だって門田と色々話してんだろうが」
そう口に出してしまってから、静雄は直ぐさま後悔した。これではまるで拗ねているみたいじゃないか。少なくとも、臨也を意識をしていることが丸分かりだ。
案の定、それを聞いた臨也の口端が楽しげに吊り上がる。臨也のこの表情は、碌でもないことを考えている証拠だった。
「へえ」
「…んだよ」
ニヤニヤと笑う臨也に、静雄はますますムッとする。
ああ、苛々する。このどろどろとした感情は何なのだろう。今まで感じたことのない、不安感にも似た痛み。
臨也の冷たい手が、手摺りを掴む静雄の手に重なった。びく、と静雄の体は震え、眉根を寄せて臨也を睨む。
「シズちゃんって、結構可愛いとこあるよね」
「死ねよ」
言われた言葉に顔を赤くし、静雄は臨也の手を乱暴に振り払った。あはは、と笑う臨也の声も耳障りだ。
「沖縄に来て良かったって話をしてたんだよ」
大きな水槽に再び目を向け、静雄は吐き捨てるように言う。水族館の通路は、同級生や他の観光客の話し声で喧しい。こちら側はこんなに煩いのに、水の中はきっと静かなんだろう。
「俺も来て良かった」
手摺りに手を付いて、臨也も同じく水槽を見上げる。いつもは赤い臨也の瞳が、水の青い光を反射していた。
「最初はシズちゃんと同じ班なんて気まぐれだったけれど、」
臨也の瞳が僅かに眇められる。
「色んなシズちゃんの顔も見れたし、悪くはなかったね」
そう臨也は笑い、再び静雄の方を振り返った。その顔はいつもみたいに厭味なところがひとつも無くて、静雄はそれに目を見開く。
青く美しい水の中を、魚たちがゆっくりと流れてゆく。人々の喧噪や笑い声も、静雄の耳に一切入らなくなった。今ここに、魚と臨也と自分しかいないような、奇妙な錯覚。
不意に臨也の白い手が、再び静雄の手を掴んだ。冷たくて、華奢な臨也の指。その手は緩やかに握られたが、今度は静雄は振り払わない。
しかし、握り返したりはしなかった。静雄にはまだ、そんな風に臨也に接することは出来ない。
巨大な水槽の前で手を繋ぐ二人を、魚たちだけが見ていた。




(2011/05/15)
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