PIECES OF A DREAMB



吐きそうだ、と思った。
臨也の唇の感触も、優しく髪を撫でる指先も、制服の下に入り込んだ手の動きも。全部全部、吐き気がする。
「…っ、」
足に力が入らない。
今、背中に回された手が離れたら、きっと自分は崩れ落ちてしまう。どうしてかこんな時に限って、自分のあの力は発揮されないのだ。
臨也の体を押し返し、その端正な顔を拳で殴り、鳩尾に右足で蹴りを入れる──いつもなら簡単に出来る筈なのに、何故今は出来ないのだろう。
沖縄の濃紺な夜空。吹いて来る南風は、微かに潮の香りがする。こんな、色気のない非常階段の踊り場で、自分たちは何をしているのか。重い扉を一枚隔てた向こう側では、同級生たちが修学旅行で浮かれている。枕投げなんて定番をしている部屋や、恋バナなんてのをしているのかも知れない。どちらにしろみんな修学旅行を楽しんでいて、こんな不純な行為をしているのは自分たちだけなんだろう。最低だ。
臨也の唇が離れ、そのまま静雄の耳朶を食む。首筋に歯を強く立てられれば、ぞくりと身震いがした。
「もう…やめろ…」
互いの唾液で濡れた唇を、静雄は乱暴に手の甲で拭う。非常灯の明かりの中で、臨也はその目を緩やかに細めた。
「君の体はやめろなんて言ってないよ」
そして囁くように毒を吐くのだ。
静雄はそれに何も言い返せず、睨みつけるしか出来ない。
臨也の腕はまだ静雄の腰に回されていて、互いの体温が顕著に感じられる。薄暗いこの場所では、いくら間近にいても相手の顔は良く見えなかった。自分の今の赤い顔を、臨也に見られたくなんかない。
「ま、そろそろ戻ろうか。先生が点呼に来るかも知れないし」
臨也はそう言って、あっさり静雄から手を離した。非常口の扉を開けて、一向に動かない静雄を振り返る。
「行かないの?」
「…まだここにいる」
静雄は臨也から目を逸らし、無愛想に呟く。
「そう。俺は先に行くよ」
臨也は目を眇め、ホテルの中へと戻って行く。重い扉が音を立てて閉まる頃、臨也の姿は完全に見えなくなっていた。
静雄は一人、誰もいない階段の踊り場で、空に浮かぶ月を見る。普段自分が見ている池袋の空より、星の数が多い。
──修学旅行、二日目。
今日も静雄は、臨也に振り回されっぱなしだった。
観光地の自由時間には、やたらと二人きりになりたがる。どこかに連れ込まれては、強引に口づけられる。人前でやらないだけマシなのかもしれないが、生憎と静雄にはそれを有り難がる余裕はない。
嫌がらせなのか、ただの気紛れか。
嫌がらせだとて、嫌いな人間にこんなことは出来ないのが普通ではないか。しかし臨也に『普通』が当て嵌まるとも思えない。臨也は静雄にとって、何を考えているのやらさっぱり分からない存在だ。
手摺りに手を付いて、静雄は深い深い溜息を吐く。たまに吹く風のお陰で、火照った頬が大分冷まされて来た。熱に浮されたような頭も、少しだけ冷静さを取り戻してゆく。
──後、二日。
それが過ぎたら、いつもの自分達に戻る。沖縄を離れ、旅行が終わったら、臨也を思い切り殴ろう。そして二度とこんなことをさせるわけには行かない。
静雄は手摺りを掴む手を、ぎゅっと握り締めた。




「臨也」
布団に転がって携帯を弄っていると、頭上から声を掛けられた。顔を上げて確認せずとも、誰かは分かっている。
「なんだい、新羅」
臨也は携帯から目を離すことなく、淡々と相手の名を呼んだ。新羅の声色から、少し面倒臭そうだな、と思いながら。
「あまり、静雄を虐めないでやってよ」
新羅の咎めるような声。
この言葉に、臨也はやっと顔を上げる。
新羅は口調とは裏腹に、その顔には笑みを浮かべていた。いつものように、何を考えているのか分からぬ笑みだ。
「虐めているつもりはないよ」
臨也は心外だ、と言うように肩を竦めて見せた。手にしていた携帯は、ゲームを終了させて閉じる。
「君に班を頼んだのは僕だから、責任を感じてるんだ」
新羅は眉尻を下げ、苦笑いを浮かべた。普段、臨也と静雄には口を挟まない新羅が、これは珍しい。
臨也と新羅の後ろでは、壁に背を預けて、門田が本を読んでいる。敢えてこちらの会話には、加わるつもりはないようだ。
「喧嘩しないのが、そんなにおかしいのかな?」
臨也は口端を吊り上げ、体を起こして小さく笑った。知らない人間が見たら、それを綺麗な微笑みだと称するかも知れない。しかし残念ながら、新羅や門田はそうは思わない。
反吐が出るくらい嫌な笑顔だな、と新羅は思っていた。そんな内心は、おくびにも出さないけれど。
「場合によっては、喧嘩の方がマシってこともあるよ」
「ふうん、そういうものかな?まあ、善処するよ」
「そろそろ消灯だぞ」
新羅と臨也の会話を遮り、門田が口を開く。不穏な空気を感じ、わざと口を挟んだのかも知れない。
「静雄はどこ行ったんだ?」
手にしていた本を閉じると、門田はそれを枕の下に入れた。腕に嵌めた時計を見て、眉根を寄せる。
「探しに行って来ようか?」
そう言って、新羅が立ち上がろうとしたその時、ちょうど静雄が部屋に入って来た。
「あ、静雄」
「わりぃ。もう寝るのか?」
静雄は臨也の方は一度も見ずに、さっさと空いている布団に潜り込む。わざとらしくひとつ、大きな欠伸をした。
「じゃあ明かり、消すぞ」
門田が電灯の紐に手を掛けると、「わあ、待って!」と慌てて新羅も布団に入り込む。
臨也は何も言わず、無言で布団を被った。
「おやすみ」
門田の声と共に、部屋の明かりが消える。「おやすみー」と新羅も声を上げた。
「おやすみ」、と静雄も小さく呟き、やがて目を閉じる。
四人だけしかいない、真っ暗な和風の部屋。
いつもと違う布団の感触や、カーテンから僅かに漏れる明かり、乾燥した空気と、部屋の畳の匂い。どこかの部屋はまだ起きているのか、きゃあきゃあと笑い声が聞こえて来る。教師の怒鳴り声や、走り回る足音も。
やがてそれらは徐々に減って行き、いつの間にか静かになった。
静雄は布団を被り、隣の布団にいる臨也を意識しないようにしながら、体を小さく丸めた。眠らなきゃいけないのに、頭はいやに冴えている。他の三人はもう眠ったのだろうか。
静雄は薄い布団の中で、自身の唇に触れて見た。渇いた薄い唇。女のように、柔らかく魅惑的でもない。こんな男の唇に、どうして臨也はキスが出来るのだろうか。
悶々と考え、悩み、静雄は溜息を吐く。考えても考えても、分からない。なら考えないようにしようと思うのに、いつの間にか考えてしまう。
どれくらいそうしていたのだろう。静雄は布団の中で、何度目かの寝返りを打った。部屋の中は、新羅のものらしい寝息が聴こえる。寝言で「セルティ」なんて言い出さないものか。そしたら翌朝笑ってやるのに。

「起きてる?」

不意に隣から聴こえて来た声に、静雄は驚いて体を震わせた。囁くような臨也のテノールは、他の二人に気を使ってのものだろう。
真っ暗な部屋の中で、隣にいる臨也の姿は輪郭しか捉えられない。寝たふりをして、無視をしようか──そう思ったが、やめた。どうせ臨也には、起きているのはばれているのだ。
「寝れないの?」
そう考えている間にも、臨也の小さな声がまた届く。
静雄は諦めて、重い口を開いた。
「ああ」
お前のせいで寝れねえんだよ、とは心の中で。
静雄は体の向きを変え、臨也の方を振り返った。暗闇の中で、布団を被った臨也が動くのが分かる。どうするのだろうと思っていたら、投げ出していた静雄の手を不意に掴まれた。
「…っ、な、」
「シズちゃんが眠るまで、手を繋いでいてあげる」
臨也は手を握り、微かに笑ったようだ。
静雄はかあっと、顔に熱が集まるのを感じる。心臓がバクバクと音を立て、胸のずっと奥がきゅっと痛んだ。
「別に、いらねえ…」
慌てて手を振りほどこうとするのに、臨也の手は更に強く握り締めて来る。「しっ」と強く諌められて、静雄はビクッと体の動きを止めた。
「二人が起きちゃうよ」
臨也はそう小声で言い、人差し指を唇の前に立てた。暗くてその表情は見えないけれど、きっといつものような笑みを浮かべているに違いない。
「何もしないよ。手を繋ぐだけだ」
珍しく、臨也のその声は優しい。握り締められいた手は緩められ、次第に互いの手は同じ温度になってゆく。
「目を瞑って」、と言われ、静雄は素直にそれに従った。いつの間にか心臓の鼓動は穏やかになり、頬の熱さも治まっている。
臨也はそれ以上、何も話し掛けては来なかった。ただ黙って静雄の手を握り、時折優しく静雄の髪を撫でる。
その手の動きが心地好くて、静雄はいつしか微睡みの世界に引き摺り込まれてゆく。
臨也が何を考えているのか、静雄には多分、一生分からない。何か思惑があるのかも知れないし、ただの気紛れかも知れない。けれど今は少なくとも悪意は無く、頭を撫でるその手が優しいのは真実だ。
「…お前の手…」
うつらうつらとしながら、静雄は枕に顔を埋めた。もうその体は殆ど眠りに支配され、上手く理性が働かない。
「…あったかい…のな…」
頭を撫でていた臨也の手が、不意に止まった。
「…シズちゃん…、……」
静雄の名前を呼び、臨也が何かを囁く。
けれど微睡んでいる静雄には、もうその言葉は聴こえなかった。緩やかな眠りの底へ、ゆっくりと落ちてゆく。
完全に意識を失う瞬間に、唇に何かが優しく触れた。それが何かを確かめることも出来ぬまま、静雄はやがて深く眠りに落ちて行った。




(2011/04/29)
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