『お互いを探るのはもうやめよう』



今朝は良く冷える。
素足を床に下ろすと、その冷たさに身が震えた。小さなストーブ一つでは、部屋は暖まらない。もう春だと言うのに、朝晩はまだやけに寒い。節約の為にエアコンはオフにしているのだけれど、やっぱり朝はタイマー予約をした方がいいのかも知れない。
パジャマ替わりにしているジャージを脱いで、静雄はいつもの衣服を手に取る。黒と白のコントラストの衣服。弟から貰ったそれは、今ではすっかり自分のトレードマークだ。
黒のスラックスを履き、白いワイシャツと黒いベストを着て、蝶ネクタイを締めれば完成だ。更にサングラスを掛けて、鏡に映る自分はいつもの姿。
静雄は顔を洗い、手櫛で髪を軽く整えると、さっさと部屋を出た。ギィ、と古ぼけたアパートの扉が、軋んだ音を立てる。どうせ盗まれる物など何もないけれど、扉に鍵をしっかりと掛けた。
カンカンカン…。鉄筋階段を上り下りする足音が周囲に響く。外は風が強く、一面が曇り空だった。かと言って暗くはなくて、白い雲に覆われた、比較的明るい空だ。ひょっとしたら、時間が経てば青空が見えて来るのかも知れない。
静雄ははあ、とひとつ息を吐くと、池袋の繁華街へと歩き出した。
今日も見た夢は最悪だった。



真っ黒な布団、真っ黒なシーツ。
臨也は目を覚ますと、ゆっくりとベッドから体を起こした。同じく真っ黒なデジタル時計を見れば、もうすぐ七時半。普段の臨也なら、まだ寝ている時間だ。
ゆるりとベッドから出て、一番始めにブラインドを上げた。チュンチュンと、どこからか鳥の鳴き声が聴こえて来る。見上げた曇り空は、やけに白く明るい。
着替えをし、顔を洗うと、臨也はキッチンで紅茶を淹れる。部屋に芳しい香りが広がり、漸く目がはっきりと覚めてきた。ティーパックなのが残念だが、臨也は紅茶が好きだ。今度は茶葉でも買ってみようかと思う。
真っ白な陶器のカップを手にし、臨也はリモコンでテレビを付ける。朝のニュース番組を見ながらパソコンを起動し、一通りメールをチェックした。
必要なものには返信し、紅茶を全て飲み干すと、やがて臨也は立ち上がる。いつもの黒いコートを着て、テレビやパソコンの電源をオフにして、きびきびと部屋から出て行く。エレベーターに乗り、エントランスをくぐって、マンションの外へと出た。今日は朝から仕事のアポイントメントがある。あの非日常的な、いつもの街で。
外は雲で覆われ、隙間が全くと言っていい程にない。あの雲の上は青いということを、忘れてしまいそうだ。
臨也は冷たい風に身を縮めると、駅へと向かって歩き出した。



店内は暖かかった。ガラス越しに空を見上げれば、まだ白く曇っている。風の強さは治まったが、まだ青空は見えないようだ。今日はずっとこんな天気なのかも知れない。
静雄は最後の一口であるハンバーガーを食べ終わると、包まれていた紙をぐしゃりと握り潰した。バンズに付いていた白ごまが、テーブルにパラパラに散らばっている。それを指でくっつけて、トレイの上へと几帳面に片付けた。
お気に入りのバニラシェークを飲みながら、静雄は携帯を取り出す。ディスプレイには時刻が表示されており、デジタル時計は1時過ぎを示していた。
普段なら上司と昼食を摂るのだが、今日は生憎と上司は風邪を引いて休みだった。午前中は静雄一人で取り立てをしていたものの、暴走し過ぎて取り立て相手の家を半壊させてしまった。ストッパーの上司がいないと、静雄には仕事にならないらしい。お陰で社長からは、午後は休むようにと言われてしまった。
もうすっかり冷めてしまったポテトを口に運び、静雄は小さく息を吐く。何だか今日は、あまりいい一日じゃない気がしている。家に帰ってじっとしていた方がいいのかも知れない。寧ろ休みを貰ったことに感謝をして。
静雄はポテトを食べるのをやめ、トレイを片手に席を立った。



臨也は携帯電話で通話をやめ、立ち止まっていた路地裏を歩き出した。今日の仕事はこれで終わり。意外にあっさりと終わったものだ。
時刻はまだ2時で、このまま新宿に帰るか否か暫し逡巡する。なんと言ってもこの池袋には天敵が住んでいて、いつ遭遇してもおかしくはないのだ。あの男の相手はそれはそれは疲れるので、出来ることなら会いたくはなかった。
──なんて。
臨也は自嘲するように笑い、赤いその目を空へと移した。午前中は曇っていた空は、いつの間にか隙間が出来て、青空が覗いている。あと少ししたら晴れるかも知れない。
会いたくない、なんて。
臨也は最近、それが本心なのか嘘なのか、自分でも分からなかった。疲れると言うのは本音だったし、面倒だとも思っているのも本当だ。
でもたまに、無性に会いたくなった。
人工的な蜂蜜色の髪、茶色の綺麗な目、自分を見詰めるきつい眼差し。あの低いテノールも、粗暴な喋り方も、煙草の残り香も、臨也は不意に欲しくなる。
欲しい。手に入れたい。傍に置いておきたい。この矛盾した感情を、臨也は最近持て余し気味だ。
会いに行ってみるか。
面倒なら逃げれば良い。あの男に捕まらない自信はある。素早さは自分の方が上なのだから。
臨也はそう思い、メインストリートを目指して歩き始めた。



空が晴れてきた。
静雄は空を見上げ、目を僅かに眇める。曇りよりは晴れの方が気分は良いが、出掛ける予定も何もないのだから、関係ない。
コツコツとアスファルトに靴音が響く。静雄は煙草を銜えたまま、公園の前に差し掛かった。そこには桜の樹がたくさんあり、花びらがまるで雨のように舞い落ちる。
静雄はそれを見て、煙草を吸う気を失ってしまった。こんなに綺麗な風景を見て、喫煙など無粋だろう。
ずっと口に銜えていた煙草を箱に戻すと、静雄は公園の中に入った。
桜が見頃のせいか、平日の昼間だというのに人が多い。その中をゆっくりと歩きながら、静雄は木々を眺めた。桜の花びらが静雄の目の前に下りて来る。薄紅色の花びらは青空によく映えていて、晴れて良かった、と静雄は改めて思った。
静雄が通ると、そそくさとベンチから人が退ける。それを忌ま忌ましく思いながら、静雄は空いたベンチに腰掛けた。陽射しが出て来て、暖かな春の空気がする。朝はあんなに寒かったのに、不思議なものだ。
──…眠くなるな。
平日の昼間に、公園のベンチでシエスタなんて。何と言う自堕落だ。
静雄はそう思いながらも、うつらうつらと頭を傾け始めた。
小さな鳥の鳴き声がして、たまに暖かな風が吹く。人が居なくなったのか、いやにその空間は静謐だった。
静雄は微睡みの中で、何か夢を見始める。嗅いだことのある香り、サラサラと流れる黒い髪、真紅にも見える瞳と、白く滑らかな肌。
臨也だ──、と直ぐに気付いた。
臨也は何かを話している。珍しくその目には嘲りの色は無くて、穏やかな顔をしていた。いつもの真っ黒なコートを着て、白い指輪にはシルバーアクセが光っている。薄い唇の赤さも、長い睫毛一本一本さえも、まるで現実みたいだった。
静雄が臨也の夢を見るのは、これが初めてではない。だから静雄は、「またか」と思っただけだった。夢の中の臨也は自分にナイフも向けないし、皮肉も返さない。ただの綺麗な顔の、同級生だった男だ。
これは自分の願望なのだろうか。
静雄は自問する。
天敵である男に、普通の態度を望んでいるのだろうか。
臨也が自分を見て笑う。赤い目が緩やかに細められ、薄い唇が自分の名前を優しく呼ぶ。静雄はそれに、胸のずっとずっと奥が締め付けられた。



「シズちゃん」

ゆっくりと瞼を開けると、赤い双眸が自分を見下ろしていた。静雄は瞬きを繰り返し、ぼんやりと臨也の顔を捉える。
「臨也…?」
青い空と、桜の雨。まだこれは夢なのか、と静雄は思った。
「いくら暖かいからって、こんな所で寝てたら風邪ひくんじゃない?」
臨也は口端を吊り上げて、いつもの笑みを浮かべている。本物の折原臨也だ──と、静雄は目を見開く。
「…離せ」
いつの間にか掴まれていた肩を、静雄は乱暴に払いのけた。まだ夢の余韻が残っていて、本物の臨也の温もりを今は感じていたくはなかった。
そんな静雄の態度に、臨也の片眉が吊り上がる。
「親切心から起こしてあげたのに、随分と酷い態度だね?」
その声は茶化すような響きを持っていたが、赤い目はちっとも笑ってはいなかった。
静雄は眉根を寄せると、目の前の臨也をきつく睨みつける。
「どうせ何か魂胆があるか、ただの気紛れだろ」
吐き捨てるようにそう言えば、臨也の肩が大袈裟に竦められる。
「信用されてないねえ」
「当たり前だ」
二人の距離は1メートルにも満たなかった。互いの睫毛も、瞳の色も、はっきりと分かるぐらいに近い。ふわりと臨也がつけた香水が香るのに、静雄は内心舌を打つ。それは夢と全く同じだったから。
「ねえ、シズちゃん」
臨也の顔が更に近付き、静雄は不機嫌そうに目を眇める。ベンチに座っているせいで、静雄は臨也を見上げる形になっていた。いつもと違う体勢は、いやに落ち着かない。
「目が覚めて俺を見た時、哀しそうな顔をしたね」
近付いて来た臨也の唇は、静雄の耳許で止まった。
「どうしてそんな顔をしたのかな?」
臨也の甘いテノールが、吐息と共に耳を掠める。静雄はその瞬間、自分でも分かるくらいはっきりと、顔に熱が集まるのを感じた。羞恥に頬が染まり、心臓は早鐘を打ち始める。
そんな静雄に、一番驚いたのは臨也だった。色白の肌が襟足まで真っ赤になるのに、目を大きく見開く。
「シズちゃん?」
顔を覗き込めば、いつも自分を睨みつけていた瞳が逸らされる。こんなことも初めてで、臨也は僅かに動揺した。
──…ああ。
臨也にはそれで、なにもかも分かった気がした。
自分の胸に燻った感情も、恐らく相手が秘めている感情も。なにもかも。
臨也はしゃがみ込むと、目線を静雄と同じ高さにした。顔を両手で掴み込み、強引にこちらを向かせれば、キラキラと揺らぐ瞳が曝される。
「…なんだよ」
抗う静雄の声は弱々しい。きっと本人もそれに気付いている筈だ。
「あのさあ、シズちゃん」
話し出した臨也の声は穏やかで、静雄はそれに訝しげに眉を顰める。それは夢でいつも聴く声音と同じで、表情も夢と同じで優しかった。
「今日、今ここで。君と俺が会ったのは運命だと思わない?」
「……何言ってんだよ」
静雄には臨也の言葉の意味は分からない。だけど優しげな臨也の態度に、手を振りほどく事は出来なかった。
「偶然じゃないってこと」
何が楽しいのか、臨也の瞳が細められる。いや、楽しいと言うよりは、その顔は嬉しそうな表情だった。何がそんなに嬉しいのだろう。
「偶然じゃないなら、なんだってんだ」
静雄は瞬きを繰り返す。何度瞬きをしても、もう目が覚めたりはしない。これは現実なのだ、と改めてはっきりと認識した。
「こうなるべくして、会ったってことさ」
臨也の温かな手が、静雄の頬を柔らかく撫でる。目の前を桜の花びらが通過して、静雄の鼻先を擽った。優しい春の風が、淡く儚く香る。
「お互いを探るのはもうやめよう」
そう口にする臨也の赤い目は、真摯で実直だった。
漆黒の臨也の髪に、桜の花びらが一枚着地する。それは直ぐに風で飛んでしまったけれど、静雄にはその薄紅色は鮮明に目に焼き付いた。
暫く二人の間には沈黙が続き、やがて臨也が口を開く。静雄はその言葉に驚いて目を丸くし、赤くなったまま目を逸らした。
心臓が今までにない程に、激しく高鳴っている。息がやけに苦しくて、手足が小さく震えた。鼻の奥がツンとして、視界が白く霞む。
これはきっと何か悪い病気に違いない。


(2011/04/15)
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