Nicotine
あ、やばい。
そう思った瞬間、煙草の火がシーツに落ち、焦げ茶色の跡が出来てしまった。
「げ…」
慌てて手で押さえるけれど、当然もう遅い。それどころか真っ白で清潔なシーツに、煙草の細かな灰が広がってしまう。
「くそ」
静雄はうんざりと舌打ちをし、吸っていた煙草を灰皿に押し付けた。まだ半分以上残っていたけれど、今は仕方がないだろう。シーツに付いた跡の方が問題だ。
横になったままだった上半身を起こし、静雄は改めてシーツに触れてみた。指先で確かめれば、はっきりと穴が開いている。焦げ茶色の、小さな空間。
このシーツは静雄の物ではない。今裸のまま寝転がっていたベッドも、煙草を吸っていたこの部屋も、全てが静雄の物ではない。
──だから煙草は吸うなって言ったでしょ。
そう言うであろう不機嫌な声と赤い目が容易に想像出来て、静雄はまた小さく舌打ちをした。
つまり、この寝室は臨也の部屋なのだ。静雄が穴を開けたシーツも、居心地のよいこのベッドも。
臨也は嫌煙家だ。煙草を吸う人間を、小馬鹿にしている節がある。あの反吐が出るようなくそったれの仕事の取引相手にも、煙草を吸う相手はたくさんいるだろうに、臨也は煙草の匂いにいつまで経っても慣れない。愛煙家の静雄がこの部屋で煙草を吸うのも、本当は気に入らないのだ。壁や天井がヤニで黄色くなるだの、零れた灰が汚いだの、キスをするときに臭いだの──まるで小姑のように口を出す。
それでも静雄がセックスの後にだけ煙草を吸うのは、黙認してくれている。それは受け入れる側である静雄にいくらか負い目があるのかも知れないし、情事の後は単に臨也が気紛れに優しいせいかも知れない。
とにかく静雄はセックスの後にだけ、臨也の寝室で大っぴらに煙草を吸うことが出来るのだ。
それが──…
静雄は眉根を寄せ、シーツの焦げ茶色の跡を再び見た。真っ白なシーツに開いたそれは、遠目でもかなりはっきりと目立っている。これを見たら、臨也は間違いなく怒るだろう。一歩間違えれば火事になるのだから、それは当たり前の怒りだ
──どうすっかな…。
静雄は再び枕に顔を埋め、この後の処理を考える。隠し立ては出来ないし、素直に謝罪するしかないのだろう。全く、この自分があの男に謝罪だなどと、はらわたが煮え繰り返る。しかし自分が悪いのだから、どうしようもない。
その時、寝室の扉が開き、臨也がシャワーから戻って来た。
頭にはタオルを被り、下半身だけスラックスを身につけている。真っ黒な髪はまだ濡れていて、いつもより黒く艶やかだ。白い肌には静雄がつけた爪痕が薄く見え、なんだか酷く扇情的な姿だった。
「どうかしたの？」
「………いや、」
訝しげな臨也の問いに、静雄は視線をさ迷わせ、口ごもってしまう。
なんて切り出そうか──。ごまかしたい気持ちはまだ多少あったが、臨也相手にそれは通用しないだろう。自惚れではなく、この寝室で煙草を吸う人間はきっと自分だけだ。犯人は自ずから知れてしまう。
逡巡する静雄を胡乱な目で見つめ、臨也はベッドの傍へと近付いて来る。ふわりと静雄な鼻先に、臨也がいつも使っているシャワージェルの香りがした。
「なに？」
「あの…、…う、」
静雄はぎゅう、と煙草の跡があるシーツを握り締める。素直に謝ればいいのは分かっているが、口がなかなか動いてくれない。それは意地なのか矜持のせいか、自分でも良く分からなかった。
目許を赤くし、おどおどと躊躇いがちに目を伏せる静雄に、臨也はますます怪訝な顔になる。いつも言動が明確な静雄には、珍しい態度だからだ。
「どうしたの」
乱暴に髪を拭きながら、臨也は不機嫌な声を出す。すうっと赤い目が冷たく細められるのに、静雄はますます畏縮してしまう。
「あの、…これ、な…」
静雄は思い切って、焦げたシーツを臨也の目の前に突き出した。
「焦がしちまって…。……悪い…」
やっと聞き取れるくらいの小言で、静雄はそう口にする。まるで悪戯を咎められた小学生にでもなった気分だった。
「……」
臨也は目を丸くして、そんな静雄とシーツを交互に見ていた。やがて人の悪そうないつもの笑みを口許に浮かべると、シーツを掴んだままの静雄の手首を掴む。そしてそのまま抱き寄せるようにして、静雄の耳元に唇を寄せた。
「素直に謝罪したのは偉いね。…いい子だ」
その吐息の熱さに、静雄の体がぴくりと震えた。
「…悪い…」
また謝罪を口にすれば、臨也の薄い唇が耳朶を食む。静雄はドクリと心臓が跳ね、腰のずっと奥が疼くのを感じた。
「でもお仕置きはしないと駄目だよね」
そう言うと臨也は、驚く静雄の体をベッドへと乱暴に押し倒す。その勢いは強く、ベッドのスプリングがギシッと音を立てた。
「なっ…、お仕置きってなんだよ！」
静雄は顔を赤くし、自分に被さって来る男を睨んだ。手首は強い力で掴まれていて、少しだけ痛い。
臨也は楽しげに静雄を見下ろしていた。その口端がゆっくりと吊り上がり、甘いテノールが優しく囁く。
「だって、躾は大切だろう？」
薄く笑った臨也の手が、震える静雄の下肢に伸びる。その指先は、明らかに情慾を持った動きだった。
「…手前はセックスがしたいだけだろ」
この変態野郎が。
赤い顔のまま静雄がそう吐き捨てれば、臨也は喉奥で低く笑う。
「それは認めるけどね。でも──」
「…なんだよ」
性急に腰の辺りを這う手に、静雄は僅かに体を身じろがせた。気を抜けば洩れてしまいそうな声を、下唇を噛んで必死に堪える。
「もう俺の家で煙草を吸うのは禁止だからね」
そう告げられた言葉に、静雄は諦めを覚えた。
(2011/05/07)