まさかのこれの続き




目が覚めたら、見慣れないベッドの上だった。
身を起こすと、ギシッとスプリングが揺れる。
――…シズちゃんの家か。
そういえば夕べまた転がり込んだんだった。
もう家主は居ないようで、部屋の中はがらんとしている。
生活臭はするけど、何もない部屋だ。必要最低限の物しかない。
ゲームもパソコンも漫画さえない。
唯一テレビがあるが、どうせ弟の番組しか見てないんだろう。
臨也はベッドから下りると時計を見る。時刻はもう昼近くで驚いた。思っていたより眠ってしまった。
実のところそんなに泥酔はしてはいなかったのだが、疲れが溜まっていたのかも知れない。
彼の匂いがするベッドで寝たせいだろうか。
臨也はそんなことを一瞬考えて苦笑した。女じゃあるまいし。
喉の渇きを覚え、冷蔵庫を開ける。甘い飲み物と牛乳しか入っていないのに舌打ちをした。食べ物なんてひとつもない。酒もない。
さすがに池袋の水道水なんて飲む気になれず、早々に部屋を出ることにした。
来た時と同じく、ピンを使って鍵を掛ける。

部屋を出る、と言うことは臨戦態勢に入ると言うことだ。
ここは池袋であの男の領域。見付からないように行動しなければならない。
何故か静雄は家の中に居る時は大人しい。自分の家だけではなく、こちらの家でも。最もあの男が新宿の自分の家に来るだなんて殆どないが。
だから静雄と話がしたい時は家に忍び込む。そうしないと会話すらさせてもらえないからだ。
無事に見付からず埼京線に乗り込んで、臨也は考える。
いつから。
一体いつから会話まで出来ないようになったのだろう。
高校の時はまだ会話をしていた気がする。そして今よりお互い優しかった。
今では見るなりコンビニのごみ箱や自販機が飛んで来る。なんて非日常だ。
――…まあ、あの男をそうしたのは自分なのだけれど。
高校生活の三年間、毎日毎日それこそ洗脳してるかのように自分だけを見るようにしてやった。
結果それは成功し、静雄の頭の90%は自分が占めているだろうと自惚れている。そしてそれは事実のはずだ。
だけどさすがに全く会話も成立しなくなるなんて思わなかった。
静雄は知っているのだろうか。
昨日、高校を卒業してから殆ど初めて体が触れ合った事に。
殴られたり切り付けたりは何度もあるが、あんな風に触れたのは初めてだ。
酔った振りをして抱き着いて、自分は何がしたかったのだろう。
静雄はどう思っただろう。次に会った時は何か変化しているのだろうか。
やがて電車が新宿に到着し、臨也は考えるのを中断させた。
臨也は知っていた。
高校生活の三年間、毎日毎日繰り返した行為で自分もまた彼に囚われていることに。



静雄は家に入ると、もう居なくなっている客人にホッとした。
何度か臨也が来訪したことはあったが、泊まって行ったのはあれが初めてだ。
シャワーを浴びて着替えると、髪も乾かさないままベッドに寝転がる。
静雄にとって家は寝る所だ。他の行為は意味を成さない。
ベッドのシーツからは臨也の匂いがする。香水かも知れないな、と思う。
それになんだか落ち着かない気持ちになりながら、静雄は明かりを消す。
眠れずにベッドで暫くゴロゴロしていると、携帯が震えた。
バイブレーションにしているが、フローリングに置いていたせいで震動音が煩い。
画面を開くと見慣れない番号だった。
無視しようか、とも思ったが、何度もかかってきたら面倒だし受けることにする。
「――…はい」
『シズちゃん』

聞き慣れた声に、静雄は息を止めた。
「…手前、なんで番号知ってんだよ」
『素敵な情報屋さんだから』
その言葉に思わず通話を切りそうになるが、辛うじて堪えた。
「…何の用だよ」
『少し気になる事があってさ』
臨也の声は自分の声より幾分高い。掠れたその声に、まるで耳元で囁かれているみたいだ、なんて思う。
「気になる?」
『俺昨日シズちゃんちでなんかした?』
びくっと体が震えた。きっともし今電話じゃなく、面と向かっていたら、臨也にばれたかも知れない。
「俺が帰ってきたら寝てた」
『それで?』
「ベッドに運んだ」
『そんだけ?』
「ああ。感謝しやがれ」
『ふうん』
臨也の返答はつまらなそうだった。
ひょっとしたら何か断片的に覚えているのかも知れないが、静雄はシラを切ることに決める。
「気になるってそんな事か。もう切るぞ」
『シズちゃん』
「…なんだよ」
『俺今どこにいると思う?』
「は?」
かたん、と後ろで音がした。
静雄は携帯を持ったまま振り返る。
「まあシズちゃんちにいるんだけど」
携帯の明かりだけで、暗闇に臨也が立っていた。



「…ホラーかよ」
静雄は携帯を閉じてこちらを睨んで来る。
「結構シズちゃん気付かないんだねえ」
臨也は口許を吊り上げて、静雄の睨みを受け止めた。
臨也がポケットに携帯を仕舞い込むと、部屋の中は真っ暗になった。
電気をつけようとベッドから身を起こした静雄に、臨也は覆いかぶさる。
「!、おい…」
「シズちゃん、俺怒ってるんだけどさ」
暗闇に目が慣れてきて、至近距離の静雄の顔が見えた。
「怒ってる?」
静雄の眉間に皺が寄る。
臨也はそれを冷たく見下ろした。
頭の中は冷静だったが、酷く自身が怒ってるのが臨也には分かる。
昨日、触れたこと。
静雄の体温。鼓動。匂い。柔らかい唇。
「無かったことにするんだ?」
臨也の声は、自分でも驚くくらいに冷たかった。
「…何?」
静雄の目が丸くなる。
臨也はそれには答えずに、静雄の首に腕を回した。
「シズちゃんの匂いがする」
髪が濡れている。乾かさずによく寝れるものだ。
「ムラムラするって、俺昨日言ったよね?」
そう言えば、静雄の体がびくりと跳ねた。
「…覚えてんのかよ」
「まあそれなりに」
静雄は力を抜いたようだ。
ギシッとベッドのスプリングが音を立てる。
「何で無かったことにしてんの?」
静雄は狡い、と思う。
蓋をしてしまうのか。分かっているくせに。
こんな風に押し倒しているみたいな体勢でも、静雄は暴力を振るわない。臨也を拒んだりしない。
臨也はそれを昨日で知ってしまったのだ。
静雄の体温がどれだけ温かいかを、臨也は知ってしまった。
…好きじゃない、なんて。
嘘だらけだ。静雄も自分も。
「シズちゃん、」


「    」



臨也がその言葉を口にした時、静雄は《捕まった》と思った。
気付かない振りをずっとしていたのに。自分も、相手の気持ちも。
臨也が何故家に来るのか静雄は知っていた。
自分が何故それを拒まないのかも。
ずっとずっとそれに気付かない振りをして、何年もやって来たのに。
静雄は臨也の赤い双眸を見上げる。暗闇の中でもそれは綺麗だった。
静雄は薄く唇を開く。
相手だけ口にしたのに、自分が言わないなんてフェアじゃないだろう?
暗く、小さな二人だけの空間で、静雄の言葉が響いた。









「…キスしていい?」
「…嫌だって言ったらやめんのかよ」
「残念ながら、」
やめない。と言うのと同時にキスが降ってきた。







(2010/07/21)
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