ロッカーに荷物を預けると、静雄は溜息を吐いた。携帯を取り出して時刻を見れば、もう5時を過ぎている。
──あと7時間か。
一日は長いようで短い。
静雄はロッカーに手を付いたまま、ふうっと息を吐く。館内は買い物客が多く騒がしくて、なんだかそれが更に寂しさを増長させた。こんなにたくさんの人間がいるのに、自分だけが今独り。

「シズちゃん」

その時、突然腕を掴まれ、強引に振り向かされた。驚いて目を見開けば、不機嫌な顔をした臨也が目の前に立っている。走って来たのだろうか、息が僅かに荒い。
「臨也…?」
「勝手に行かないでよ。居なくてびっくりしたでしょ」
はあーっ、と深い溜息を吐き、臨也は眉を顰める。走ったせいで疲れたよ、と文句を口にして。
「直ぐに戻るつもりだったんだよ」
静雄は動揺し、視線を彷徨わせながら、言い訳を口にした。あの臨也が自分を探して走るだなんて、意外だったから。
「妬いたの?」
「は?」
「妬いたんじゃないの」
唇で三日月を描き、臨也は静雄を真っ直ぐに見遣る。その表情は酷く意地悪で、静雄は自身の耳が一瞬で熱くなるのが分かった。
「妬いてねえよ」
「そうかな」
掴んだままだった静雄の腕を、臨也は更に自分の方へと引き寄せる。互いの睫毛の数が分かるくらいに距離が縮まり、静雄の薄茶色の瞳が揺らぐ。
「俺も悪かったんだけどね。『恋人』を放っておくなんて」
囁くようにそう言い、臨也の顔が近付いて来た。
吐息が頬に当たって、静雄は瞬きを繰り返す。徐々に近付いて来る端正な顔に、静雄は息をするのも忘れて魅入っていた。
「ごめんね」
そう口にするのと同時に、臨也の柔らかな唇が重なる。びくっ、と静雄が体を震わせるのに、臨也は腕を掴む手に力を込めた。
キスは軽く触れるだけだった。
直ぐに唇が離れても、静雄は硬直したまま動かない。目を見開いたまま、ただ茫然と臨也の顔を見ていた。
「そんなに驚くこと?」
そんな静雄に、臨也は首を傾げて笑う。「恋人なんだから、キスぐらいいじゃない」なんて、さらりと言うのだ。
「…こ、恋人だからって…」
こんな、たくさんの買い物客がいる場所で。きっと何人かの人間には見られただろうに。
それになんとも思っていなさそうな臨也に、静雄は心底呆れてしまった。静雄にとって、キスは人前でするものではない。恋人達が秘めて行うものだ。
臨也は口端を吊り上げると、静雄の手を繋ぎ直す。再び繋がれたその手は温かい。
「ほら、デートの続きをしよう」
時間がない。
そう言って臨也はさっさと歩き出す。
静雄は小さく溜息を吐いて、渋々とそれに従った。確かに今日が終わるまで、後7時間しかない。
今日は4月1日。エイプリルフール。
一年に一度だけ、嘘をついてもいい日。
臨也と静雄は、池袋と言う街の人間に嘘の『恋人』を演じていた。



夕飯をゆっくり食べて、また二人は街を歩いた。夜になれば街を歩く人間も変わる。手を繋いで歩く二人に、知ってる者達は一様に驚いて見て行く。きっとダラーズの掲示板は、更に騒がしくなっているに違いない。
「まさか俺とシズちゃんがデートだなんて、信じられないみたいだね」
臨也は携帯で掲示板を見ながら、くつくつと楽しげに笑う。こんな事で喜ぶなんて、臨也はたまに子供のようだ。
空を見上げれば真っ白な月が浮かんでいて、街に佇む二人を静かに見下ろしていた。明るい池袋の街は、星はあまり見えない。
静雄は臨也の言葉に答えない。『恋人』の振りをしているせいか、今日は何故か臨也に対して怒りが湧いて来なかった。何か感情が麻痺しているのかも知れない。
時はどんどん過ぎて、やがて月は傾き、点灯するネオンの数も大分減った。昼間は騒がしい池袋の街も、深夜になればそれなりに大人しい。
二人は誰もいない公園のベンチに腰掛け、星が少ない夜空を見上げていた。
静雄はポケットから携帯を取り出すと、今の時間を確認する。時刻は23時56分。もう直ぐ日付が変わる。やっとこのくだらない恋人ごっこから、解放されるのだ。
昼間は暖かかったが、夜に吹く風は冷たい。はあ、と無意識に息を吐けば、白い吐息が空へと逃げた。
「寒い?」
臨也は僅かに目を細め、隣に座る静雄を見遣る。赤いその目は静雄を気遣うようで、静雄はそれに小さく首を振った。こんな風に自分を気遣うのも、エイプリルフールの『恋人ごっこ』だからだろう。
繋がれたままの臨也の手は温かく、静雄は体の寒さなんて感じない。けれど静雄はそれを、臨也に伝えようとは思わなかった。
「もう帰る」
静雄はゆっくりと臨也の手を離す。途端に体温が下がった気がしたが、それに気付かない振りをする。
ベンチから立ち上がり、感情の読めない臨也の顔を見下ろした。
「日付変わった途端に、手前を殴りそうになるだろうからな」
「ははっ、それは酷いなあ」
臨也は肩を竦めて笑い、自分もベンチから立ち上がる。冷たい風が吹いて、公園の木々を小さく揺らした。ざわざわと闇夜に聴こえる木々の音は、少しだけ不気味に感じる。
「シズちゃん」
臨也に背を向け、煙草を銜えようとした静雄の手を、臨也が突然掴んだ。
驚いて振り返った瞬間、乱暴に唇が重なる。硬直した静雄の指から、まだ新しい煙草が地面に落ちた。
「…っ、」
驚きで開いた唇から、直ぐに臨也の舌が入り込んで来た。歯列を舐められ、舌を吸われて、静雄は鼻から甘ったるい声が漏れる。
「…ん、…や…っ」
やめろ、と言う意思表示をして、臨也の肩を両手で押し返す。けれどその手は自分でも信じられないくらい弱々しくて、臨也に抵抗をあっさりと押さえ込まれてしまう。
口腔内を思うがまま蹂躙され、吐息さえも奪われて、静雄の体は徐々に力が抜けてゆく。心臓が早鐘のように打ち、鼓動が耳にバクバクと煩かった。
どうして──。
もう、誰も見ていないのに。
もう誰も、騙す相手などいないのに。
息苦しくて背中を叩けば、やっと唇が解放される。耳も頬も熱くて、静雄は眩暈がしそうだった。目の前が、生理的な涙で霞む。
静雄は唇を乱暴に拭うと、まだ弱い力で臨也を引っ叩いた。パンッ、と乾いた音が公園に響く。
「もう日付過ぎてんだろ」
静雄のこの言葉に、臨也は何も答えない。
殴られた頬を庇うこともなく、臨也はただ真っ直ぐに静雄を見返した。避けられた筈なのに、何故それを受けたのか、静雄には分からない。分かりたくもなかった。
臨也は口端を吊り上げると、黙ったまま静雄に背を向ける。その背中は何も語らない。そしてもう、静雄を振り返ることもなかった。
「また殴られる前に帰るよ」
そう言って、臨也は薄暗い公園を歩いてゆく。街灯がチカチカと点灯し、臨也の影が地面に長く伸びていた。
静雄はそれを無言で見送ると、力無くベンチに座り込む。口から漏れる吐息は真っ白で、溜息で幸せが逃げるなんて迷信が分かる気がする。
地面を見ると煙草が落ちていて、静雄はそれをごみ箱へと捨てた。勿体ないとは思ったが、もう煙草を吸う気にはなれなかった。
携帯を開いて時間を見ると『4月2日AM0:05』の文字が光っている。嘘を付いていい日は、あっさりと終わってしまった。今日からはまた、本物の『日常』に戻るのだ。
静雄は暫く夜空を見上げていたが、やがてベンチから立ち上がる。臨也の気紛れに、同じく気紛れで付き合ったのは自分だ。だから後悔はしていないけれど、こんな気持ちになったのは計算外だった。
一日はどう足掻いたって24時間で、それ以上延びることなど有り得ない。こればかりは神様にどんなに願ったって、駄目なものは駄目なのだと静雄だって分かっている。
だけど。
「…もう少しだけ…」
4月1日だったなら。
静雄がぽつりと呟いた言葉は、誰の耳にも届かない。多分、神様の耳にも。
静雄はそれに、微かに笑った。





(2011/04/01)
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