螺旋






目が覚めたら、見慣れた天井が見えた。
瞬きを一度だけし、寝返りを打つ。薄暗い部屋に、カーテンが閉じられていない窓が目に入った。ベッドから見える、いつもの光景。
薬を飲んでいないというのに、どうやら眠っていたらしい。こんなに自然に眠れるだなんて、不眠症は治ったのだろうかと思ってしまう。
ゆっくりと体を起こすと僅かに頭が痛み、まるで二日酔いのような気分だった。記憶も曖昧で、寝る直前に何をしていたのか思い出せない。
部屋の中は真っ暗で、家の外はいやに静かだった。時計の秒針の音だけが、部屋の中にカチカチと響く。静雄はベッドから下りると、傍らの電気スタンドをつけた。暗闇に慣れていた目は、突然の明るさに僅かに眩む。
時計を見ればまだ22時前で、思っていたよりも早い時間に驚いてしまった。静かだったので、深夜ぐらいの時間だと思っていたのに。
そういえば腹が減ったな…。
夕食がまだだったことを思い出し、静雄は取り敢えず何か食べ物を探すことにした。
キッチンに行き、冷蔵庫を開けて見たが、何か食べれそうな物は一つもない。卵や牛乳、ペットボトルの水ぐらいだ。
コンビニでも行こうかと考えていると、ふとテーブルの上に薬瓶とコップが置いてあるのに気付いた。そう言えば昨日からずっと、そのままにしていたのを思い出す。
それを何気なく手に取って、静雄は驚きで目を見開いた。ラベルには小さく、『Vitamins』と書いてある。
え…?
静雄は慌てて瓶の蓋を開ける。中は変わっておらず、昨日まで飲んでいた白い錠剤だ。けれど新羅から渡された時は、確か『Sleeping Pills』と書いていた筈だった。
なのに、どうして。

──…夢?

まさか、夢なのか。一体どこから?
いや、どちらが夢なのだろう。自分は今、夢を見ているのだろうか。
静雄は口許を押さえる。
そう言えばいつ新羅の家に行ったのだろう。最後に会ったのはいつだったろう。薬はいつから飲んでいたのだったろう。
雨。
雨はいつから降っていた?最近雨が降ったのはいつだったろう。
静雄は青くなって慌てて窓に走り寄った。カーテンが閉められていない窓からは、良く晴れた夜空が見える。そこには真っ白な月がぽかりと浮いていて、こちらを冷たく見下ろしていた。
手が微かに震えている。ぞわり、と体の奥底から何かが這い上がって来た。
どこからが夢で、何が現実か分からない。
自分は今、目覚めているのか?
静雄は唐突に吐き気がして、急いで洗面所に駆け込んだ。もう空腹感はどこか綺麗に消し飛んでいた。
ガタガタと震える手で蛇口を捻る。恐ろしくて恐ろしくて堪らなかった。今手に感じている水の冷たさも、本物なのかどうか分からない。もしかしたらこれは夢で、自分は夢の中で冷たいと思っているのかも知れなかった。
──…悪夢だ。
鏡に映る自分の姿は、それは酷い顔をしていた。青白く、病的な顔色。唇も白く血の気を失っていて、目は血走っている。
静雄は両手で器を作ると、流れ出す水を手の平で受け止めた。手を伝ってTシャツの袖が濡れたが、そんなことは気にはならなかった。手の平から溢れ出した水が逃げ出すのを、ただ目を見開いたまま見ていた。
そしてふと、腕の内側に赤く鬱血した跡が残っているのに気付く。赤や紫色のそれは、体の至る所に付いていた。良く見れば、首や鎖骨にも付いている。
──臨也だ。
静雄はその行為を思い出し、眩暈がした。
あれは夢ではなかったのか。それともただの夢だったのか。
冷たい手、香水の香り、唇の柔らかさ。全て本当にあったことなのか。
まさか、そんな。
何が夢で何が真実なのか。


「シズちゃん」


その時、後ろから声がした。
さあっと静雄の顔から血の気が引く。少し高めのテノールに、この呼び名。自分をこの呼称で呼ぶのは、世界中探してもたった一人だけ。
ゆっくりと顔を上げれば、鏡に映った自分の後ろに真っ黒な色彩の男が立っていた。
「手洗いにしては乱暴だね。水、出し過ぎだよ」
口端だけを吊り上げるいつもの笑みを浮かべ、臨也は後ろから手を伸ばして蛇口を止めた。途端に水音で煩かった室内が、静寂に包まれる。
臨也の濡れたように黒い髪や、深紅のように煌めく双眸、薄く赤い唇が緩やかに弧を描くのを、静雄は茫然と鏡越しに見ていた。瞬きも忘れ、臨也がやがて口を開くまで、まるで時が止まってしまったように。
「どうかしたの?」
くつくつと喉奥で笑い声を漏らし、臨也は赤いその目を眇める。その言葉は疑問形なのに、何もかも見透かしているみたいな気がした。
「…臨也…」
静雄は瞠目したまま、ゆっくりと後ろを振り返る。発したその声は掠れていて、喉もカラカラに渇いていた。洗面台に置いたままの手は、まだ微かに震えている。
「ねえシズちゃん」
臨也の手が静雄の濡れた手を掴む。ぽたぽた、と床に雫がいくつも垂れた。
「俺は君が望んだからここにいるんだよ。夢だとか現実だとか、そんなことはどうでも良いと思わない?」
そのまま掴んだ指先に口付け、臨也は上目遣いで静雄を見た。その無機質な赤い瞳は、静雄を捉えて離さない。
「今感じていることは紛れも無く『現実』だ。俺は今ここにいるし、君に触れている。そして君は今、俺を感じているだろう?」
臨也の唇が薄く開き、静雄の指先を優しく食む。生暖かく柔らかな舌が指を這うのに、静雄は体を小さく震わせた。
臨也の声、臨也の体温、臨也の匂い。静雄は今も確かに、それらを現実として感じていた。これが夢だとは、到底思えない。なのに、不安をまだ拭い去ることが出来ないのだ。
「…今のこれは…」
夢…なのか?
それは、我ながら愚かな質問だと思った。けれど問わずにはいられなかった。夢と現実の境界が酷く曖昧で、臨也が言うように『どうでも良い』とは思えなかった。この心の奥底から沸き上がる恐怖を、どう言えば良いのだろう。
臨也は静雄のその言葉に、ゆっくりと手を離す。赤い目を僅かに細め、射るようにして静雄を見た。しかしその目には、感情が一切映し出されていない。
「…どっちだと思う?」
臨也は嗤う。まるで悪魔のように。上から下まで真っ黒なその姿は、闇の化身のようだった。
「もし、これが夢だとして──」
どこからが夢だったと思う?
臨也は嗤う。高い笑い声を上げて。耳をつんざくようなそれは、狂ったような笑い声だった。
薬を貰ったことも夢?
不眠症も夢?
折原臨也と言う存在も夢?
自分と言う存在も夢?
何もかも夢?
静雄にはそれを確かめる方法はない。

そして世界は暗転する。





眠い。眠いんだ。俺は眠い。
静雄は寝返りを打つと、布団に俯せになった。ぼんやりと薄目を開けて、カーテンに覆われた窓を見る。
外は雨なのだろう。まるでシャワーを出しっぱなしにしているみたいな水音がする。煩いのに何故か静かで、気分が滅入る。
ああ、眠い。
目もしょぼしょぼとしているし、瞑るとじわりと瞼が痛い。足の脹ら脛も怠くて堪らない。体は明らかに睡眠を欲しているのに、もう何時間も眠ることが出来ないでいた。
こんな日が続いて、もうどれくらい経つだろう。
静雄は何度目かの欠伸をすると、枕へと顔を埋める。
眠れないのは苦手だ。眠れない時間で、嫌なことばかり考える。朝起きるのも辛いし、碌なことがない。仕事中に欠伸ばかりしていては、上司にも迷惑がかかる。
眠い…。
こんなに眠いのに、なんで眠れないんだ。
眠れないのは病気、と前に聞いたことがある。自分はどこかおかしくなってしまったのだろうか。身体は丈夫だし、病気も怪我もしていない。環境の変化があったわけでもない。なら、原因は精神疾患なのだろうか。この自分が?
カチカチと秒針の音がやけに耳に煩い。時計は見ないようにしているが、おそらくもう明け方に近いのだろう。雨のせいで空が暗く、遮光カーテン越しの明るさでは判断が出来ない。
ああ…今日も寝不足か。
静雄は諦めて嘆息し、瞼を静かに閉じた。


dream within a dream
(2011/03/29)
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