陽炎






雨だ。
静雄は窓に手を付き、空を見上げた。薄暗い鉛色の空には、僅かに雲の隙間が見える。でも青空は見えなくて、これは本降りなのかも知れないと思った。
「ねえ、ちょっとシズちゃん」
さっきから窓を見て動かない静雄に、後ろから苛立った声がする。
「コーヒーどこ?コーヒーが飲みたいんだけど」
臨也は勝手に、キッチンの引き出しを開けたり閉めたりしていた。静雄はそれに、うんざりと舌を打つ。
「飲みてえなら缶コーヒーでも買って来いよ」
「雨降ってんのに外に出たくなんかないよ。あ、あった」
キッチンの棚の一番奥に、小さな瓶を発見する。臨也はそれを手に取ると、マグカップを取り出した。
「…インスタントコーヒーってスプーン一杯でいいんだっけ?」
「ラベルに書いてんだろ」
家でコーヒーなんて、静雄も大分ご無沙汰だ。最後に飲んだのはいつだったろう。
「うわ、なんか白くなって固まっちゃってるよ。これ飲めるの?」
臨也は瓶の中身を覗き込み、顰めっ面になった。はあ、と大袈裟に息を吐くと、それをごみ箱へと捨てる。
「シズちゃんちって、インスタントコーヒーもないわけ?」
「煩えな。文句あんなら帰れよ」
せっかくの休日だと言うのに、何故臨也が自分の家にいるのだろう。溜息を吐きたいのはこっちだ、と静雄は思う。
「テレビもないし、ゲームもない。漫画もなければ、ファッション雑誌もない。部屋に娯楽品が全くないなんて、君ぐらいだよ」
臨也は軽く肩を竦めると、カップを棚に戻した。何かを飲むのは結局諦めたらしい。
「じゃあ何で手前はここに居んだよ」
静雄は呆れたように言い、窓から離れてベッドに腰掛けた。ギシッ、とベッドのスプリングが揺れる。今日も雨のせいか部屋は寒く、エアコンをつけているのに指先が冷たい。早く晴れれば良いのに、最近は毎日が雨で憂鬱だった。
「何で、って」
臨也が口端を吊り上げ、こちらに近付いて来る。相手を揶揄するようなその表情は、静雄はあまり好きではない。この男は高校の時から、いつもこんな態度だ。
「君が望んだからだろう?」
臨也は静雄の前に立ち止まり、その赤い双眸でベッドに座る静雄を見下ろした。その目は昏く、まるで物を見るかのように冷たい。
今まで誰かにそんな目で見られたことはなく、静雄はそれに背筋がぞっとした。
「俺は君が望んだからここにいるんだよ」
臨也の手が伸びてきて、静雄の細い首筋に触れる。項を指先で撫で、徐々に親指で喉を圧迫し始めた。
く、と静雄の白い喉が、息苦しさで音を漏らす。臨也が更に力を込めれば、パクパクと魚のように唇が動いた。首を絞められ、息が苦しいのに、それでも静雄は抵抗をしない。
「死にたいの?」
対する臨也の声は静かだった。感情がまるで感じられないのに、首を絞める手の力だけが強い。
「…っは、」
質問をして来たくせに、こう首を絞められていては答えることが出来ない。静雄はそう思うのに、何故か臨也の体を押し退けたりはしなかった。しなかったのではない、出来なかったのかも知れない。まるで四肢が鎖で繋がれたみたいに、体が重くて動かなかった。
不意に臨也の手が離され、唐突に体に酸素が入り込んで来る。けほっ、と思い切り咳込めば、唾液が顎を伝って床に落ちた。目には涙が浮かび、視界がじわりと滲む。
「シズちゃん」
臨也の唇が近付いて来る。伸びてきた赤い舌が、顎を伝う唾液を綺麗に舐めとった。ざらりとした舌の感触と、ぬるりと纏わり付く熱さに、静雄の体が小さく震える。
「ほら、そろそろ」
そんな静雄の体を抱きしめ、臨也は耳許に唇を寄せた。優しく囁くように、言葉を紡ぐ。
起きなきゃ──。
そう言った臨也は、嗤っていた。



静雄は目を開いた。

「大丈夫?」
見慣れた赤い目が、自分を静かに見下ろしていた。眉根を寄せ、その顔は珍しく心配そうな色を浮かべている。
「…臨也、」
名を呼ぶ自分の声は掠れていて、静雄は喉がカラカラに渇いているのを知った。
「大分、魘されていたみたいだけど」
臨也の冷たい手が、静雄の髪を優しく撫でる。寝癖でもついているのかも知れない。静雄は瞬きを何度か繰り返し、ゆっくりと身を起こした。
ここは自分の部屋だ。白い天井、白い壁。安いながらも、気に入っているソファ。どうやらここで微睡んでいたらしい。不眠症の癖にうたた寝とは。
「シズちゃんでも夢に魘されたりするんだね」
揶揄するように臨也は笑う。相変わらず皮肉屋だ。
静雄はそれに何も言い返さなかった。まだ頭がぼうっとして、上手く思考が働かない。
「俺…どれくらい寝てたんだ?」
「俺が来た時はもう寝てたよ。多分1時間くらいじゃないのかな」
いつの間に寝たのだろう。それすらも思い出せない。
何か夢を見ていた気もするが、起きた途端に忘れてしまった。厭な夢だった、とだけ思う。
まだぼんやりとしたまま外を見れば、窓の向こうには青空が広がっている。暖かな春の陽射し。そう言えば夢の中では雨だった気がした。いや、晴れだったかも知れない。記憶は酷く曖昧だ。
「まだ寝ぼけてるの」
そんな静雄の様子に、呆れた声が降って来る。臨也はソファの傍らに立ち、身を屈めて静雄の顔を覗き込んだ。
「混乱しています、って顔だ」
「…混乱してんだよ。なんで手前がここにいる?」
確か、そう。寝る前は臨也は居なかったはずだ。一体いつもどうやって入り込むのだろう。ピッキングなのだろうが、不法侵入は犯罪だということをこの男は分かっているのだろうか。
「シズちゃんに会いたくなって」
形の良い唇で綺麗に弧を描き、臨也はくぐもった笑い声を漏らす。愛想良く笑っているはずなのに、その目許は何故か冷たい印象を与えた。
「嘘つけ」
静雄は吐き捨てるように言い、そんな臨也を睨んだ。臨也が自分に話す言葉は、大抵が嘘だ。例え真実だとしても、何か裏がある事が多い。
「酷いなあ、信じてくれないんだ」
さも残念そうに言いながら、臨也は両手を広げて肩を竦めた。芝居がかったその態度も、酷くこの男には似合っている。尤も今は、静雄の機嫌を更に下降させるだけだったけれど。
「でもねえ、今日は本当なんだ」
臨也は静雄の傍らに跪くと、吐息が触れるほどに顔を近づける。漆黒の髪、長い睫毛、赤く宝石のような瞳。本当にムカつくぐらい綺麗な顔だ、と静雄は思う。
「今日はシズちゃんが仕事が早く終わったって知ったから」
会いたくて会いたくて、堪らずに来ちゃったよ。
と、臨也は恥ずかしげもなくそう言って笑った。
静雄はそれに忌ま忌ましげに舌打ちをしたが、瞬時に耳が熱くなるのが分かった。きっと今の自分の顔は、さぞ赤くなっていることだろう。こんな顔を、臨也になんかに見られたくはなかった。けれど例え顔を逸らしても、覗き込まれていては赤い顔は丸見えだ。
「シズちゃん」
臨也の両手が伸びてきて、静雄の顔を優しく包み込む。目許を親指で撫でられて、視線を合わせてしまった。臨也の目に映る自分の顔は蕩けそうで、静雄はますます頬に熱が集まる。
ああ、これも夢なんじゃないだろうか。
あの臨也がこんな風に自分に触れるなんて、夢でもなければ有り得ない気がした。
だってそうだろう、自分と臨也は高校の時から殺し合いをしているのだ。死ねばいい、殺してやると、何度思ったか分からない。何故臨也が自分にこんなにも執着するのか理解できなかった。嫌がらせも、ナイフも、心を傷付ける言葉も、何もかも拒否したかった。なのに臨也はそれを許してはくれない。構わないで欲しかったのに、臨也の重い重い鎖は静雄を縛り付ける。赤いその目はいつだって酷薄で、紡がれる言葉は侮蔑ばかりだと言うのに。
だからこれはきっと、夢なのかも知れない。いや、夢だと思いたかった。臨也が優しく自分に触れて来るなんて、気持ちが悪くて反吐が出そうだ。それを拒絶しない自分自身にも。
それでも臨也の冷たい手や熱い吐息は本物で、やがて重なった唇も柔らかかった。
「シズちゃん」
唇を軽く触れ合わせたまま、小さく名前を呼ばれる。臨也の長い睫毛が当たりそうで、静雄は慌てて目を閉じた。
角度を変えて、何度も繰り返される口づけは、酷く優しかった。触れるだけだったそれは、やがて舌先で唇を舐め始める。
顔を掴んでいた臨也の手が、静雄の後頭部に回された。ふわりと臨也の香水の匂いがして、静雄の心臓がどくんと音を立てる。
夢、じゃない──?
舌がぬるりと侵入して、柔らかい粘膜を舐めてゆく。舌を捉えられ、唾液を啜られて、静雄はどんどん体から力が抜けるのが分かった。臨也の唾液は甘く、口腔内を緩やかに舌が這い回る。歯列を舐められ、唇を甘噛みされた。飲みきれなかった唾液が零れ、静雄の顎を伝って衣服に落ちる。
いつの間にかソファに押し倒され、臨也が上に覆いかぶさっていた。唇は離されることがないまま、シャツのボタンが次々と外されてゆく。やがてベルトの金具が外されるのに、静雄の体は小さく慄いた。
抱かれるのか、抱く側なのか、恐らく自分は前者なのだろう。臨也の手が脇腹を撫でるのに、僅かに身動ぎをした。冷たいその手は、明らかに情慾を持って静雄に触れている。
男を抱いて何が楽しいのか、静雄には良く分からない。女のように柔らかくも、肉慾的でもないというのに。
けれど臨也の手は、確実に静雄を追い詰めて行った。口から漏れる、甘ったるい自分の声。ギシギシと揺れる安物のソファ。臨也の汗が頬を伝い、静雄の顔に落ちる。互いの荒い息遣いだけが、静かな部屋に響いた。
気持ちいい。
絶望的に気持ち良かった。
もっともっともっと。
もっと穢して欲しい。もっと深く。もっと奥まで。
静雄が貪欲に求めると、臨也は唇を歪めて嗤った。赤い双眸は乱れる自分を冷たく見下ろしていて、静雄にはそれすらも快感だった。
ああ、もっと。
もっともっと、ぐしゃぐしゃにして。
もっとずっとずっと──。
静雄は臨也の体に足を絡ませ、だらしなく腰を振った。


(2011/03/29)
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -