眩暈






眠い。眠いんだ。俺は眠い。
静雄は寝返りを打つと、布団に俯せになった。ぼんやりと薄目を開けて、カーテンに覆われた窓を見る。
外は雨なのだろう。まるでシャワーを出しっぱなしにしているみたいな水音がする。煩いのに何故か静かで、気分が滅入る。
ああ、眠い。
目もしょぼしょぼとしているし、瞑るとじわりと瞼が痛い。足の脹ら脛も怠くて堪らない。体は明らかに睡眠を欲しているのに、もう何時間も眠ることが出来ないでいた。
こんな日が続いて、もうどれくらい経つだろう。
静雄は何度目かの欠伸をすると、枕へと顔を埋める。
眠れないのは苦手だ。眠れない時間で、嫌なことばかり考える。朝起きるのも辛いし、碌なことがない。仕事中に欠伸ばかりしていては、上司にも迷惑がかかる。
眠い…。
こんなに眠いのに、なんで眠れないんだ。
眠れないのは病気、と前に聞いたことがある。自分はどこかおかしくなってしまったのだろうか。身体は丈夫だし、病気も怪我もしていない。環境の変化があったわけでもない。なら、原因は精神疾患なのだろうか。この自分が?
カチカチと秒針の音がやけに耳に煩い。時計は見ないようにしているが、おそらくもう明け方に近いのだろう。雨のせいで空が暗く、遮光カーテン越しの明るさでは判断が出来ない。
ああ…今日も寝不足か。
静雄は諦めて嘆息し、瞼を静かに閉じた。




「睡眠薬?」
静雄の為に温かいコーヒーを淹れながら、新羅は訝しげな声を上げた。
池袋、川越街頭沿いのとあるマンション。寝不足に堪えられなくなった静雄は、闇医者である旧友の家を訪れていた。親友である首が無い彼女は、今は不在中らしい。
昨晩から降り続く冷たい雨は、今日も池袋の街を静かに包んでいる。傘も差さずにやって来た静雄の髪はしっとりと濡れ、白いワイシャツは肌が透けて見えていた。
「なんに使うの」
新羅はコーヒーのカップをテーブルに置き、次に白いタオルを静雄へと手渡した。静雄がソファに座る前に渡せば良かった…と後悔をしながら。
「自分で飲むに決まってんだろ」
静雄は苛立たしくそう吐き捨て、ゴシゴシと乱暴にタオルで髪を拭く。髪がボサボサに乱れてしまったが、本人は全く気にしていないようだ。
「規格外の静雄くんに、睡眠薬なんて効くかなあ」
自分は専用のマグカップにコーヒーを注ぎ、新羅は静雄の前のソファに座る。困ったような口調だが、その表情は飄々としていた。相変わらず何を考えているか分からない。
「なんでもいいから、少しばかり処方してくれ」
そう言って静雄は、カップのコーヒーを一口だけ飲んだ。砂糖もミルクも入っていないそれは、静雄には酷く苦い。思わず顰めっ面になり、カップをテーブルへと戻した。
「にげえ…」
「ああ、静雄くんは甘党だったね」
テーブル上に角砂糖とミルクを差し出しながら、新羅はケラケラと笑った。長い付き合いなのだから、そんなことは分かっている筈だ。だからこれはきっと、ちょっとした新羅の意地悪なのだろう。
静雄は不機嫌に眉を寄せると、差し出された砂糖とミルクを見下ろした。カップから上がる白い湯気が、静雄の頬を掠めてゆく。
「こんなのいいから、さっさと薬を寄越せよ」
どう見てもそれは人に物を頼む態度では無かったが、新羅はそんな静雄にはもう慣れっこだ。
「薬に頼るなんて、静雄くんらしくもない」
「ちゃんと寝たいんだよ」
静雄は低く呟くように言い、背もたれに深く背中を預けた。そのいかにもぐったりとした様子に、新羅は僅かに眉根を寄せる。
「目の下に隈があるよ。酷い顔だ」
「……」
静雄は答える替わりに、小さく溜息を吐いた。今だって本当は眠いのだ。眠くて眠くて堪らない。なのに目を閉じても、眠りは一向に訪れない。まるで拷問だ、と静雄は思う。
「なんかあったの?」
「なんかってなんだ」
「眠れない原因だよ」
新羅は苦笑し、僅かに首を傾げた。
「君でも眠れなくなるぐらいの悩み事とかあるのかと思ってね」
茶化すように言う新羅を、静雄は恐ろしい顔で睨みつける。すると新羅は、直ぐに青くなって目を逸らした。こんなところは正直者だ。
「そこまで言うのなら少し薬をあげるけど」
カップを手にしたまま立ち上がり、新羅はふらりとリビングから出て行く。やがて戻って来ると、小さな瓶を手にしていた。
「くれぐれも過剰摂取はしないように。中毒にでもなったら大変だからね。まあ静雄くんの内臓なら大丈夫だろうけど…」
そう言って新羅は、静雄に薬の瓶を差し出した。『Sleeping Pills』とラベルに書いてある。
「…セルティには絶対に言うなよ」
それを受け取りながら、静雄は気まずげに呟く。親友に余計な心配はかけたくはなかった。
「分かってるよ」
新羅は笑って頷き、再びソファに腰を下ろす。そして静雄のカップに、砂糖とミルクを入れてくれた。




早速その日の夜から、静雄は薬を服用し始めた。「一度に2錠」と新羅に言われたが、2錠では全く効かない。こんな時は、常人とは違う自分の身体が忌ま忌ましい。
5錠ほど飲むようにすると、やっと寝付けるようになった。2.5倍ほどなら、過剰摂取ではないだろうと勝手に判断をして。
夜眠れるようになったのは良いが、寝起きが悪くなった。倦怠感もあり、日中もぼんやりとしてしまう。それでも眠れないよりはマシで、毎日薬を飲むようになった。まさかこの自分が薬に頼るようになるなんて、静雄は自嘲気味に笑う。
そして今日も、薬をやめられないのだ。白いTシャツに、ジャージのパンツだけを身につけて、眠る準備をする。透明なコップに水を注ぎ、すっかり中身が少なくなった薬の瓶から、錠剤を5つだけ手に取った。
やめる気なんてこれっぽっちもないけれど。
静雄は口にそれを含み、水で一気に流し込んだ。生温い水道水はいやに不味い。
その時、後ろから声がした。

「本当に薬漬けなんだ?」
からかうようなこの声に、静雄はハッとして振り返る。カシャン、と手からコップが落ちて、フローリングに水が零れた。
「そんなに驚いた?グラスが割れなくて良かったね」
あはは、と声に出して笑いながら、男は部屋の真ん中に立っていた。真っ黒なコートは雨のせいで濡れ、床にポタポタと雫を落とす。頭はコートのフードで隠されていて、その表情は良く見えない。
「…臨也」
静雄は男の名を呼び、小さく舌打ちをした。この男はたまに、こんな風に不法侵入を平気で働く。
「新羅から君がインソムニアだって聞いてさ」
楽しげな口調でそう言い、臨也はフードを外す。現れた酷く端正な顔は、やっぱり楽しげだった。
「帰れ。俺はもう寝るんだ」
静雄は落としたグラスはそのままに、臨也に背を向けた。今はこの男の相手をしている気分ではない。
「へえ。もし俺が帰らなかったら?」
コツ、と臨也の靴音が部屋に響いた。そのままゆっくりとした足取りで、静雄の傍に近づいて来る。
「そしたら実力行使だろ」
静雄はそれに振り返らず、天井の人工的な明かりを消した。ベッドの傍らに置いてあるライトだけが、部屋を仄かに照らし出す。
「睡眠薬って飲んでから直ぐに寝ないと、幻聴や幻覚が聴こえたりするんだよ」
笑いを含んだ臨也の声は、直ぐ後ろから聴こえた。静雄はそれに、思い切り顔を顰める。薬を飲んで数分が経ったせいか、もう体が少しだけ重い。
「ねえ、シズちゃん」
臨也の冷たく濡れた腕が、後ろから静雄の体を掴まえる。ぴく、と静雄の体が小さく跳ねた。
「寝るまで傍に居てあげようか。誰かが居た方が安心するだろう?」
「…手前が居たら寧ろ目が醒める」
突き放すように静雄は言うが、その腕を振り払ったりはしなかった。
臨也はくぐもった笑い声を出しながら、静雄の体をベッドへと押し倒す。男二人分の体重を受け、スプリングが嫌な音を立てた。ぽたりと臨也の前髪から落ちた雫が、静雄の頬を涙のように伝う。
自分を押し倒す相手の顔を、静雄は鋭い目で睨みつけていた。けれども頭は次第に惚け、眠気で思考能力がどんどん低下していく。
「薬が効いて眠いんだろう?ゆっくり眠るといい」
口端を吊り上げて笑い、臨也の白い手が静雄の首に掛かる。熱い吐息が頬を掠めるのに、静雄の睫毛が微かに震えた。
「大丈夫。今だけは君を傷付けないよ」
臨也の冷たい指先が、Tシャツから覗く静雄の鎖骨をなぞる。
「約束をしよう。君が眠るまで傍にいることを」
ああ…。
じわりじわりと、微睡みが静雄を浸食してゆく。
眠い。眠いんだ。俺は眠い…。
意識がゆっくりと底に落ちてゆく気がする。そこは夢の世界か、それとも虚無か。静雄にも分からない。
ただ今は、ひたすらに眠かった。
「おやすみ、シズちゃん」
完全に眠りに落ちる瞬間に、臨也の端正な顔が目に入る。優しく静雄の髪を梳く手。穏やかな低い声。
なのに。

その表情は、悪魔みたいに嗤っていた。







何か夢を見ていた気がする。

遮光カーテンの隙間から、白い光が漏れている。静雄はうっすらと目を開けてそれを確認し、次に傍らの目覚まし時計を見た。時刻は6時21分。いつもより少し早く目が覚めてしまったようだ。
静雄は睡眠薬を服用するようになってから、なるべく自然に目が醒めるようにしていた。目覚まし時計の耳をつんざく音は、起きた時に頭痛を誘発してしまう。
のろのろと体を起こすと、ベッド脇のライトが明るい事に気付いた。どうやら昨夜はつけっぱなしで寝てしまったらしい。静雄は僅かに苦笑してスイッチを切ると、立ち上がってベッド脇のカーテンを勢いよく開けた。
途端、朝陽の眩しさが襲って来る。静雄はそれでも目を逸らすことはせず、まだ低い位置にある太陽を目を眇めて見た。空は雲一つない青空だ。
倦怠感が残る体のまま、静雄はパジャマ代わりのTシャツを脱ぐ。出勤前に熱いシャワーを浴びるのは、最近の日課だった。
浴室に向かおうと部屋を横切ると、テーブルに置かれていた薬が目に入った。半分ほどに減った薬の瓶と、飲みかけの水が入ったコップ。昨晩は寝る前に片付けず、置きっぱなしにしていたのだろう。
後で片付けなくては。
静雄はそう思いながら、欠伸を一つして部屋を出て行った。
何か夢を見た気がするのを、全て忘れて。




(2011/03/22)
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