『続・最悪な一日』
これの続き。




青い空。白い雲。
3月に入ってからというもの、池袋は毎日晴天の日が続いていた。時折春の強い風が吹くが、陽気はポカポカと暖かい。日当たりが良い学校の桜は、殆どの蕾がもう膨らんでいて、この分だと後少しで花が咲きそうだ。
静雄は机に頬杖を付き、ぼんやりと窓の外を眺めていた。暖かい陽気のせいで、授業中は酷く眠い。もう直ぐ春休みだと言うこともあり、気が抜けているのかも知れない。
「でさあ、セルティがね…」
新羅のお喋りは、先程からちっとも止むことがなかった。静雄がいくら拒絶しようが、脅迫しようが、新羅は機関銃のようにずっと喋りっぱなしだ。内容がいくら自分の親友の事とは言え、長時間の惚気話はさすがにうんざりする。
これに対して静雄が取った最終手段は『無視』であったが、それに新羅が気にする様子も全く無かった。相手が聞いてようが聞いてなかろうが、どうでもいいわけである。
「でさあ、明日ホワイトデーじゃない?」
念仏のように聞き流していた新羅の言葉に、初めて静雄は顔を上げた。
「…ホワイトデー?」
「明日は3月14日だよ。セルティにお返しあげなくっちゃ」
新羅はそう言って、いかにバレンタインデーに彼女から貰ったチョコレートが素晴らしかったかを力説する。確かセルティの手作りチョコはまるで消し炭のような塊だった気がするのだが、静雄は敢えてそれに口を挟まなかった。
もう一ヶ月経つのか…。
一ヶ月前。2月14日、バレンタインデー。好きな相手にチョコレートを渡す日。
自分にとって、最悪だったあの日。
『好きでもない人間から貰う謂われはない、って言っただろう?』
そう言ってあの男は、手にしたチョコレートの封を破いた。静雄がコンビニで買った、何の変哲もない小さなチョコレート。
『これはシズちゃんがくれた物だから、貰ってあげる』
これみよがしにチョコレートを囓ると、臨也は酷く楽しげに笑う。いつものように口端を吊り上げて、静雄を揶揄するように。
その時の臨也の言葉を、静雄は未だに考えあぐねていた。
あれはどう言う意味だったのだろう。言葉通りに取れば、まるで自分に好意を寄せているかのように聞こえる。そんなこと、有り得やしないのに。
自分と臨也は仲が悪く、毎日喧嘩ばかりしている。相手から敵意は向けられることはあっても、好意なんて向けられたことは今まで一度もない。
次の日にはもう臨也はいつも通りだったし、意識しているのは自分だけというのは酷く馬鹿馬鹿しかった。
「お返しに何をあげればいいかなあ?セルティはクッキーとか食べられないし、食べ物以外がいいんだけど」
新羅の話はまだ終わっていなかったらしい。静雄は考え事から意識を戻し、新羅に顔を向けた。
真剣に悩む旧友に、少しぐらいは真面目に話を聞いてやってもいいかも知れない、と思う。プレゼントの相手は自分の親友なのだし、親友が喜ぶのは自分も嬉しい。
「…花とかなら喜ぶんじゃないか」
暫し考えた後、静雄はそう口にした。
「花かあ…確かにいいね。明日帰りに買って帰ろうかなあ」
全身から幸せオーラを出して、新羅はうんうんと頷く。静雄はそれにまた少しげんなりとしたが、水を差す気にはならなかった。
明日。
明日のホワイトデーは、臨也から何か言ってくるのだろうか。案外相手は忘れているかも知れないが、それならそれでもう考えないようにしようと思う。毎日毎日、こんな風に悩むのは自分らしくない。
静雄は軽く息を吐き、再び空へと目を向けた。明日もまた、最悪な一日になるのだろうか。
見上げた空は、嫌になるくらい晴天だった。



3月14日。晴れ。
気のせいかも知れないが、何やら朝から校舎がざわついている気がする。女子達はまとまってキャッキャッと騒ぎ、男子はソワソワと落ち着かない。
どちらにしろ、静雄には関係がないことだ。チョコレートはたくさん貰ったものの、静雄には返す予定など一つもなかった。
静雄は上履きに足を突っ込むと、階段を素早く駆け上がる。こんな浮ついた雰囲気は苦手だ。廊下を早足で歩き、自分の教室までの道を急ぐ。
ふと、廊下の反対側から歩いて来る男に、静雄は足を止めた。
上から下まで真っ黒な学ランは、ブレザーが多いこの学校ではやけに目立つ。朝の廊下には人が多く、距離も大分あったが、静雄にはそれが誰だか直ぐに分かってしまった。
その途端、静雄は踵を返した。
自分の教室に行くには、この廊下を通らなくてはならない。しかし静雄は、この廊下を引き返すことを選んでしまった。
「あれ、静雄?」
珍しく遅れて登校して来た新羅と擦れ違う。
「どうしたの?もう先生が来るよ」
その声を無視して、静雄は目の前の階段を駆け上がった。「静雄」と後ろから新羅の呼び止める声がしたが、足は止まらない。
何やってんだ、俺は。
そう思うのに、静雄の足はどんどん教室から遠ざかる。幸い臨也は静雄に気付いてはいなかったようだし、新羅も追い掛けて来る気配はない。
静雄は屋上への階段まで来ると、やっと足を止めた。ここなら誰も来ない筈だ。もう直ぐ授業も始まるし、開始の鐘が鳴るまではここにいよう。
階段は汚れが目立つが、静雄は気にせずに座り込む。今日はこのまま授業をサボるのもいいかも知れない。臨也は隣のクラスだし、教室にいればいつ遭遇するか分からない。何だか逃げているみたいで気に食わないが、今日は近付かない方が良い気がした。
暫くすると、頭上で予鈴が響き渡った。ざわついていた校内が、一斉に静かになったのが分かる。踊り場の足元には小さな窓があり、階段に座る静雄の位置からは太陽の光が眩しい。それでも静雄はそこに座ったまま、時が過ぎるのをじっと待った。
どれくらいそうしていただろう。静雄は陽光に目を眇め、やがてゆっくりと立ち上がる。静謐な校内の邪魔をしないように、足音を立てずにそっと階段を下りた。
さすがに授業中の廊下を大っぴらに歩くわけにはいかない。静雄は取り敢えず階段を一階まで下り、あまり使われない特別教室等がある廊下を歩く。遠くで教師が授業を行う声が聴こえ、何だか罪悪感が芽生える。静雄は真面目な質なので、授業はあまりサボった事が無かった。
職員室の前を難無く通り、やがて生徒玄関まで辿り着く。そこまで来ると気が抜けて、静雄は小さく溜息を吐いた。
「来たばかりでもう帰るの?」
声は直ぐ後ろから聴こえた。
ハッと静雄が振り向く前に、二の腕を後ろから掴まれる。ぐいっと乱暴に体を引かれ、強引に体を正面に向かされた。
目を見開けば、自分を見つめる赤い双眸とかち合う。その目は怒っているみたいに爛々としていた。
「な、」
なんでここに。
言葉は声にならずに、息を吸い込むだけで終わる。
臨也はそんな静雄を面白くなさそうに見据え、腕を掴んだまま校舎の外に連れ出した。
「お、おい!」
「ここで煩くしたらまずいでしょ」
確かに臨也の言うことは尤もだが、二人ともまだ上履きだ。しかしそれを臨也には言えず、静雄は引きずられるように校舎脇に連れて行かれてしまった。
もう卒業した三年生の校舎は静かで、静雄と臨也の位置からは、誰も居ない教室が見える。まだ朝のせいか外は鳥の鳴き声がして、何だか今の雰囲気には場違いだった。
「…っ、離せよ」
大人しく従ってしまったのが癪で、静雄はその手を荒々しく振り払う。思いの外強く掴まれていたせいで、ズキズキとその箇所が痛んだ。
臨也はそんな静雄に僅かに目を細めるが、何も言わない。赤いその目は自分を咎めているようで、静雄は思わず目を逸らす。
「なんか用かよ…」
発した声は低く、覇気が無かった。
「新羅が、シズちゃんが俺を見て逃げたとか言うからさ」
臨也は肩を竦めて微かに笑う。けれどその赤い目は、ちっとも笑っていなかった。
「……」
静雄はそれに盛大に舌を打つ。余計なことを言った新羅には腹が立つが、元はと言えば自分が悪いのだから何も言えない。
「何で避けるのかな?」
臨也の声は揶揄を含んでいる。多分きっと何もかも分かっていて、わざと聞いているのだ。本当にこの男は性格が悪い。
「ひょっとして今日がホワイトデーだから?」
そう言って、目を逸らしたままの静雄を覗き込んで来る。
無理矢理に目を合わされ、静雄はそれに酷く狼狽した。何て答えれば良いか分からず、口を貝のように閉ざす。
「シズちゃん平気そうに見えてたのに、意外に意識してたんだねえ」
ははっ、と臨也は愉快そうに声を張り上げ、口端を吊り上げた。何だかそれが嬉しそうに見えて、静雄の機嫌が下降する。
「手前が変な事言うからだろ」
あれから一ヶ月、こちらは毎日悩んで来たと言うのに。
「変な事、ねえ」
臨也は赤い目を眇めると、不意に静雄の手を取った。
驚いて静雄が顔を上げるのと同時に、その手に何かを握らされる。
「え?」
それは丸く小さなキャンディーだった。可愛らしく紙に包まれて、静雄の手の平に三つ転がる。
「あげる」
臨也はそう言って、その中の一つを手に取った。封を開けて、自身の口へと飴玉を放り込む。
「あ、」
くれた癖に何を、と静雄が思う間もなく、そのまま臨也に唇を塞がれた。
静雄の茶色の瞳が、驚愕で大きく見開かれる。臨也の長い睫毛が伏せられ、鼻先に微かに甘い匂いがした。臨也が口にした、キャンディーの匂い。
「…んっ、」
薄く開いた唇から、舌が捩り込まれる。同時に飴玉を口に移され、苺の味が口腔に広がった。甘ったるい、人工的な苺味。
臨也によって飴玉ごと舌を絡まされ、静雄の息が苦しくなってゆく。甘い唾液が口端から落ち、顎を濡らした。
いつの間にか静雄の手からは、残りの二つのキャンディーが地面に転がり落ちていた。けれどそれを気にする余裕など、今の静雄にはもうない。頬が熱く、足が震え、立っているのもやっとだ。
「…や、」
やめろ、と声にならない声を上げ、静雄は弱々しい力で臨也の体を押し返した。
臨也はそれに、あっさりと体を離す。
ハアハアと息を整え、静雄は濡れた唇を手の甲で拭った。赤くなった目許のまま臨也を睨めば、臨也の方はちっとも息が乱れていない。全く腹が立つ男だ。
「バレンタインのお返しだよ」
美味しかった?
臨也は口角を綺麗に歪めると、わざとらしく唇を舌で舐めて見せた。いつもより唇が赤く見えるのは、苺のせいかも知れない。
「何がお返しだよ…」
口にした悪態も、力がないのが分かっている。静雄はチッと小さく舌を打つと、臨也から目を逸らす。
恐ろしい事に、この世で一番大嫌いな相手に触られるのも、キスをされるのも、嫌ではなかった。寧ろ、ひょっとしたら、まさか──。
「…教室に戻る」
もう一秒だって、臨也と一緒にいたくはなかった。これ以上一緒にいたら、何かとんでもないことを口にしてしまいそうで。
「サボるんじゃなかったの?」
揶揄するような臨也の口調に、静雄は無視を決め込む。地面に落ちた二つの飴玉が目に入り、屈んでそれを拾い上げた。
「…これは一応貰っておく」
「どうぞ。それはシズちゃんにあげたものだから」
肩を竦める臨也に背を向け、静雄は校舎へと歩き出す。背中に痛いくらいの視線を感じ、走り出したいのを必死に堪えた。
「シズちゃん」
後ろから声を掛けられる。
静雄は振り返らない。
「もう分かってると思うけど、ちゃんと考えて」
何を。
なんて、静雄は聞き返せない。
「返事は今度貰いに行くよ」
表情は見えないのに、臨也のその声は真剣だった。
静雄はそれにも答えず、歩きながら口の中の飴をかみ砕く。ガリッと大きな音がして、小さな欠片が口に散らばった。甘ったるい苺の味と共に。
ああ、憂鬱だ。気分が悪い。
この一ヶ月間散々悩んで来たのに、また悩まなくてはならないのか。答えは多分、出ていると言うのに。
静雄は空を見上げ、青の眩しさに目を眇める。口の中は甘くて、吐き気がしそうだ。
ああ、もう。本当に今日も──。
最悪な一日だ。
静雄はそう思いながら、校舎に入って行った。


(2011/03/18)
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