『3月9日』




朝起きたら青空が広がっていた。
眠い目を擦り、遮光カーテンをレースのカーテンごと開けた。途端に太陽が眩しくて、思わず目を閉じる。
顔を洗って、ミネラルウォーターを一杯だけ飲む。朝食は食べない。朝ご飯は重要だと分かってはいるけれど、寝起きの胃には受け付けない。だから毎日ギリギリまで寝て、それから学校へ行く。
制服のスラックスを履き、ベルトをする。ワイシャツに袖を通し、上着を着てから鏡を見た。
鏡の中の自分は酷く無愛想だ。目が少しだけ腫れているのは、昨日なかなか寝付けなかったせいだろう。
毎日繰り返される、日常。
でもそれも今日で終わりだ。
静雄は制服姿の自分に目を眇め、やがて鞄を手にして家を出た。
「行ってきます」

3月9日、晴れ。
今日は卒業式だ。




卒業式にざわめき立つ教室の入口に、その男は立っていた。真っ黒な学ランに漆黒の髪。瞳だけが深紅のように見える。その目はとても綺麗だったが、静雄はそれを口にしたことは一度もない。
「おはよう、シズちゃん」
「その呼び方するなら返事しねえ」
「もうしてるじゃない」
くっくっく、と臨也はさも楽しそうに笑う。静雄はそれに気まずげに目を逸らした。
静雄と臨也が対峙しているのに、珍しく他の生徒たちは退避をしない。二人に纏う空気が穏やかなせいかも知れなかった。いつも殺伐としているのに、今日の二人は殺気がない。
「シズちゃんって卒業したらどうするの」
「手前に関係あんのかよ」
「酷いなあ、俺達親友じゃないか」
「死ね」
半ば口癖のようになった言葉を紡ぎ、静雄は教室の中に視線を向けた。大きな黒板、整然と並んだ机、並んだ窓。この光景を見るのも、今日で終わりだ。
「この教室は、何回シズちゃんに半壊させられただろうね」
臨也は目を僅かに細め、教室を見回した。この教室は静雄のクラスであって、臨也のクラスではない。けれど互いの教室は良く戦場になったので、思い出はあるのかも知れなかった。
「半分は手前が原因だろ」
「そうだったっけ?」
静雄の睨みをものともせず、臨也は肩を竦めて笑う。ちっ、と静雄が舌打ちをすれば、また臨也は声を出して笑った。
静雄の高校生活三年間は、そのまま臨也の三年間だっただろう。初めて会った時から殺し合いをし、それから365日毎日喧嘩をして来た。顔を合わせたくはなくても、同じ学校ならどうしようもない。廊下で擦れ違ったり、トイレでばったり会ったり、クラスが違う癖に会わない日なんて一日もなかった。尤も夏休みや冬休みも池袋の街で喧嘩ばかりしていたのだから、本当は学校なんて関係なかったのかも知れなかったが。
「二人とも、おはよう」
ぽん、ぽん。
静雄と臨也の肩をそれぞれ叩き、新羅がニコニコと二人の間に立つ。眼鏡の奥の瞳は、優しげに細められる。
「逢瀬中に悪いけど、そろそろ先生が来るよ」
「何が逢瀬だ」
新羅の言葉に静雄は舌打ちし、臨也は笑って肩を竦めた。
「じゃあまた帰りに」
「帰り?」
静雄の眉が訝しげに顰められる。
「シズちゃんに用があるから」
その用が何かを告げることはせず、臨也は自分の教室に戻って行った。
そんな臨也の後ろ姿を見送りながら、不意に新羅が口を開く。
「言わないの」
「何が」
分かっていて、静雄は問い返した。その声は低く、聞き取りにくい。
教室はざわついていたが、クラスメイト達は席に着き始めている。もうすぐ担任の教師がやって来て、最後のホームルームを開くのだ。
「言わないと伝わらないよ」
「それでいい」
静雄は短く答え、教室へと入った。その後ろから新羅も続く。静雄の席は教室の一番後ろだ。
窓際でもあるそこは、グラウンドが良く見渡せた。体育をするクラスも見れて、静雄は授業中眺めたりしたものだ。体育をする臨也のことを。
「最後のチャンスかも知れないよ」
新羅は尚も食い下がる。普段あまり口出しして来ない癖に、彼のこんな言葉は珍しい。
疑問に思って静雄が眉を寄せれば、意を決したように新羅が口を開く。
「臨也、池袋を出て行くんだって」
卒業したら。
静雄はそれに、僅かに目を見開いた。
それと同時に、教師が教室へ入って来る。ざわついていた教室が静かになり、新羅も慌てて席に着いた。
静雄は机に頬杖をつき、ぼんやりと外を眺める。教師の言葉など耳に入らず、その目に映るのは空の青さだけだ。
臨也が池袋から居なくなる。
先程の新羅の言葉が思い出され、ズキンと胸が痛む。けれど、静雄はやはりこの想いを伝えるつもりはなかった。伝えて良い想いと、悪いのがある。これは間違いなく後者だと静雄は思っている。
例えば男同士だし、天敵とも言われるぐらい仲が悪いし、伝えたって碌なことがない筈だ。苦しくて切なくて、言った方が楽なんじゃないかと何度も何度も思ったけれど、それを口にして関係が変化することが怖かった。もし臨也が静雄の目の前から消えてしまうとしても、この想いを言うつもりはやはり起きない。
静雄はグラウンドに目をやり、その後に青く凜とした空を見る。
空はいやになるくらい、青く透明だった。




卒業証書を授与され、生徒会長や校長の挨拶を聞き、校歌を歌って、式は滞りなく終わった。啜り泣く女生徒の声や、歌の悲しいメロディーは、それなりに静雄の胸に来るものはある。
毎日通った道や、居眠りした机。走り回った廊下、授業をサボった屋上。そんな思い出だらけの校舎に、もう明日から来ることはないのだ。だけど静雄はまだ、この学校を去ると言う実感が湧かない。
式が終わり退場する時、隣のクラスの臨也と目が合った。臨也は静雄を見ると口端を吊り上げて笑い、『後でね』と口の動きだけで言う。
静雄はそれに、仏頂面のまま目を逸らした。心臓がいくら音を立てたって、表にさえ出なきゃいい。
教室に戻って席に着くと、ポケットの携帯が光っているのに気付く。
『音楽室で待ってて』
登録していないメールアドレス。誰からのメールかなんて、直ぐに分かった。
静雄は結局そのメールアドレスは登録しないまま、携帯を閉じる。だけど初めて貰ったそれは、保護でもして残しておこうか、なんて思う。こんな女々しい自分は気持ち悪いけど、きっとこれは最後だから。




音楽室に入ると、当然だが誰も居なかった。鍵が開いていたのが不思議だが、きっと臨也なら開けられるだろう。
静雄は無意識のうちに、いつもの自分の席に座る。音楽室は薄暗く、窓からは中庭の桜の木が見えた。ここからでは良くは見えないが、蕾くらいはあるのだろうか。後一ヶ月もしないうちに満開になるに違いない。
「シズちゃんのクラスって」
ふと入口から声がし、静雄は顔を上げる。ぼんやりとしていたせいか、人が来たことに気付かなかった。
「音楽の授業は学籍番号順だったんだよね」
臨也はそう言うと、音楽室内にゆっくりと入って来た。パタン、と扉を閉める音がいやにハッキリと響く。
「俺のクラスは自由だったんだよ」
「…だからなんだ」
静雄は眉を顰め、臨也を睨んだ。臨也は唇に弧を描き、静雄の席へと近付いて来る。
「俺はその席を選んで座ってた」
臨也は静雄の目の前に立つと、机を白い手でなぞった。
「シズちゃんがこの席なのを知ってたから」
薄暗い音楽室でも、この距離なら相手の表情は良く見える。臨也はいつものように笑みを浮かべていたし、静雄はいつものように不機嫌な顔だった。
臨也が静雄と同じ席で、何を思っていたかなんて知らない。
この窓から見える風景は、中庭の木々くらいだ。秋になれば紅葉が綺麗で、夏になれば緑が眩しい。
机にたまに描いた落書きを、臨也も見ていたのだろうか。更に付け足されたりした落書きは、臨也がやったのだろうか。
静雄は手に持ったままの卒業証書を机に置いた。細長い筒に入ったそれは、コロコロと転がって止まる。
「…用ってなんだ」
静雄は低く声を搾り出した。心臓が痛い。締め付けられるみたいに苦しい。この音楽室には、酸素が足りない。
「うん」
臨也は一つ頷いて、目を細めて窓の外を見た。西日がちょうど入り込み、臨也の位置からは眩しいのだろう。
綺麗な目だ。
臨也の赤い目が、静雄は好きだった。細く白い指や(自分にはナイフを向けるけど)薄く紅い唇も(口を開けば皮肉ばかりだけど)好きだった。
殺し合いなんて下らない喧嘩をずっとしていたのに、いつ好きになったのか分からない。
もしかしたら好きなのか、と悩んで数ヶ月。自覚して悩んで数ヶ月。諦めてこの感情を受け入れて、気付いたらもう卒業だ。
そんな風に散々悩んで来たのに、友人である新羅にはあっさりとばれていた。辛いなら伝えなよ、と何度言われただろう。けれどそんなこと、言えるわけがなかった。口にしたらきっと、喧嘩も口論ももう出来なくなってしまう。
「…最後だから」
臨也の赤い目が、再び静雄を捉える。
ぴく、と静雄の体が僅かに震えたのを、臨也は気付いただろうか。
「シズちゃんに、言いたいことがあって」
「……」
赤い臨也の目には、不安そうな自分が映っている。酷い顔だ、と我ながら静雄は思う。
言ってしまうのか。
半分、諦めの気持ちだった。臨也から見えない位置で、ギュッと静雄の拳が握り締められる。
本当はずっとずっと前から、気付いていた。
互いに同じ感情を抱いているのを、きっとお互い知っていた。
それを口にしないのが、暗黙の了解だったのに。
「…臨也」
静雄が名前を呼ぶ。
臨也はそれに目を伏せ、口を噤んだ。二人の間に、長い長い沈黙が落ちる。
窓の外は真っ青な空が広がっていて、雲一つない。時折風が吹き、木々が緩やかに揺れる。
不意に臨也の腕が伸びて来て、強く抱き締められた。
突然のそれに、静雄の目が驚愕で丸くなる。鼻を擽る臨也の香水の香り。柔らかな温もりが、静雄の体を包む。
「好きだ」
それは掠れた声で告げられた。
びくん、と静雄の体が跳ねる。
「ずっとずっと好きだった」
抱き締める腕が強くなり、静雄は息が止まるかと思った。
視界が滲み、鼻の奥がツンとする。
最後。
本当にこれが最後なんだと思った。
だから臨也は告げたのだ。これが最後だから。
腕を離し、顔を寄せると、赤い双眸と目が合った。珍しく真摯な顔。臨也はいつも笑みを浮かべているから、こんな真面目な顔はあまり見たことがない。
「…俺も、好きだった」
だから素直に、そう答えてしまった。ずっと一生、告げることなんてないと思っていたのに、それはするりと静雄の口から出る。あんなに躊躇っていたのに、言葉はあっさりと体から逃げ出してしまった。
臨也が目を細めて笑う。
静雄もそれに釣られて笑った。多分、初めて二人で笑い合った気がする。最初で最後。
「ありがとう…シズちゃん」
臨也の手が優しく髪を撫でる。静雄は擽ったさに目を細めた。
「さよならだね」
「…ああ」
さよなら。
臨也の顔が近付いて来る。吐息が頬に触れると同時に、静雄は目を閉じた。
触れるだけのキスは、直ぐに温度を失う。優しいキス。
ゆっくりと瞼を開くと、もう臨也は静雄に背を向けていた。振り返ることもなく、しっかりとした足取りで音楽室を出てゆく。
静雄は一人残され、暫くぼんやりと外を眺めていた。青い空に太陽が溶け、やがて空がオレンジ色になるまで、ずっと。
きっと自分は、この日を一生忘れないだろう。
いつかこの気持ちが風化し、誰か他の人間に恋をしても、きっとこの想いは忘れない。
静雄は卒業証書を手にし、すっかり暗くなった音楽室を出た。校舎にはもう人の気配はない。居残っているのは静雄くらいだ。

さよなら。

静雄はそれを、小さく口にした。
さよなら。
この校舎に。この三年間に。この想いに。

ゆっくりと瞳を閉じれば、臨也の姿が浮かんで消えた。


(2011/03/09)
※今日卒業のさとうちゃんに捧ぐ
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