『ハマナスの花』



消毒液の匂いが鼻につく。
銀色に鈍く光る器具に、血の付いたガーゼが放り込まれた。漂白されたみたいに真っ白な包帯が、綺麗に腕に巻かれてゆく。今まで何度この光景を見て来ただろう。
静雄はサングラスの奥の目を細め、自分の白い腕を見下ろす。青く血管が透けて見え、自分の腕なのになんだか気持ちが悪い。
「大袈裟な治療だな」
ただの切り傷で。
「治療ってのはそう言うものだよ」
ふふ、と小さく笑い、新羅は包帯の最後を器用に留めた。医者の顔からいつもの新羅に戻ったな、と静雄は何となしに思う。
「まあ君なら直ぐに傷痕も消えるだろうから、明日には包帯を取っていいよ」
治療費はツケだからね!と笑って新羅は立ち上がった。
静雄は小さく舌を打ち、捲り上げていた袖を下ろす。血が滲んだワイシャツは袖が真っ二つに裂かれていて、もう使い物にはならないだろう。
「静雄と臨也のお陰で随分と怪我の治療が上手くなったよ」
コーヒーを入れながら、新羅は笑って言った。消毒液の匂いがしていた部屋は、コーヒーの香りによって上書きされる。
「あいつの名前を出すんじゃねえよ」
静雄の機嫌が一気に下降した。この治療されたばかりの傷も、臨也に付けられたものなのだ。そんな相手の名前を聞くのは気分が悪い。
「あはは、ごめんごめん」
新羅はちっとも悪びれることなくそう言い、静雄へとコーヒーのカップを渡した。白い湯気がふわふわとカップから踊り出す。
「そう言えば静雄の手っていつも温かいよね」
「なんだそりゃ」
カップを受け取ると静雄は一口飲んでみる。静雄用に砂糖やミルクがたっぷり入ったそれは、とても甘かった。
「逆に臨也っていつも手が冷たくない?末端冷え症なのかな」
また臨也の名前が出て、静雄の片眉が釣り上がる。新羅はわざとではないのだろう。そんな静雄の様子には気付かない。
「ああ見えていつも気を張ってるんだろうね。人間ってのは緊張や不安で手足が冷たくなるんだ」
新羅の言葉を聞きながら、静雄は窓の外を眺めた。窓は結露のせいで少し曇っている。なんだか寒いと思ったら、どうやら雨が降っているらしい。
静雄は臨也の温度を知らない。
冷たい手は自分にナイフを向けることはあっても、直接触れることはない。
あの赤い目は睨むことはあっても、穏やかに細められることはない。
別にそれをどうこう思ったことはなかった。これが自分とあの男の関係であり、そんなことはもう普通なのだ。臨也の温度も眼差しも、静雄は別に知りたいとは思わない。
そんな風に考え、静雄は自分が臨也に触れたことがないのに気付いた。殴ろうとすれば避けられるし、相手が触れるのはナイフの刃先だけだ。新羅は治療をする立場だから体に触れることもあるだろうが、静雄にはそんな機会もない。
「春の雨は冷たいね」
静雄が外を眺めているのに気付き、新羅が口を開いた。それに静雄の意識が戻される。
窓にはぽつぽつと雫が付着し、その数は徐々に増えて来た。雨が強くなり始めているのだろう。
「暫く雨宿りして行くといいよ」
この雨は直ぐには止まなそうだから。新羅は眼鏡の奥の瞳を細め、雨空を残念そうに見上げた。案外雨の中、仕事で走り回る恋人を想っているのかも知れない。
「いや、帰るわ」
新羅の提案に首を振り、静雄はカップを置いて立ち上がる。雨が止む保証はないし、いつまでも友人の家には居られない。
「傘は?」
「それもいい」
素っ気なく言って立ち去ろうとする静雄に、パタパタとスリッパの音を響かせて新羅がついて来た。どうやら玄関先まで見送るつもりらしい。
「雨に濡れて風邪を引かないようにね」
「引いたらお前に診て貰うだけだろ」
珍しく静雄が冗談を口にするのに、新羅はくすりと笑う。
「またな」
短く旧友に別れを告げ、静雄はマンションを出た。



冷たい春雨は静雄の体を容赦なく濡らした。
雨のせいでサングラスの視界は悪く、体の体温はどんどん奪われてゆく。濡れた衣服が体に張り付いて不快だったが、それでも静雄は雨が嫌いではなかった。
しかしこんな雨では煙草は吸えない。唯一それだけが不満だ。濡れた前髪を鬱陶しげに掻き上げ、乱暴にサングラスを外すと途端に視界がクリアになる。空を見上げれば薄い灰色の雲が世界を覆い尽くしていて、この雲の上は青い空だなんてとても信じられない。
雨のせいか殆ど人が居ない路地裏は、アスファルトが雨のせいで真っ黒だ。時折遠くで雷鳴が聴こえ、街の喧騒を呑み込んでゆく。まだ昼間だと言うのに飲み屋にはネオンが光っていて、小さな水溜まりにその明かりが反射している。そんな路地裏の看板の下に、ずぶ濡れの子猫が一匹蹲っていた。
池袋の繁華街に子猫…?
静雄は眉を顰め、その小さな猫に近付いた。真っ黒なその猫は、寒さのせいか微かに震えている。静雄が近付いても警戒や怯えを見せないのは、寒さでそれどころではないせいだろう。
「…飼えねえんだけどな」
ぽつり、と独り言が漏れる。小さなその体を抱き抱えると、それはニャアと小さく鳴いた。
「雨宿りぐらいならさせてやるよ」
優しく腕に包み込み、ハア、と温かい吐息を掛けてやる。静雄自身の体も冷たいのだから、あまり温めることは出来ないかも知れない。けれど、何もしないよりはマシに思えた。
「雨に濡れて歩くのが好きなの?」
不意に後ろから声を掛けられる。
くぐもった低い笑い声。揶揄するような口調。静雄はそれに足を止めた。
「こんな冷たい雨の中、傘も差さずに」
嫌な声。嫌な喋り方。嫌な相手。これが誰の声かなんて直ぐに分かる。自分がこのテノールを聞き間違えるわけがない。
午前中に会って一度やり合ったばかりだと言うのに、全く面倒臭いったらありゃしない。静雄ははらわたが煮え繰り返るのを無理矢理抑え込み、わざと大きく舌打ちをしてから振り返った。
「臨也」
そこには上から下まで真っ黒な男が立っていた。ご丁寧に手にした傘までも漆黒だ。ついでに言うとその腹の中も黒いのを、静雄は知っている。
「風邪を引くよ」
静雄と目が合うと、臨也は口端を吊り上げて笑った。さすがに一度やり合っているせいか、臨也も無闇に静雄を挑発する気はないようだ。
「相合い傘でもする?」
「黙れ」
臨也のからかいを、静雄は一言で切り捨てる。臨也と同じ傘に入るよりは、雨に濡れる方が何十倍もマシだ。
「残念。でもその子は雨に濡れたくないんじゃないかな」
臨也の視線が、静雄の抱えた猫へと落とされる。まるでそれを待っていたかのように、子猫はニャアと鳴いた。


男二人で相合い傘なんて、周囲から見たらさぞ滑稽だろう。
静雄はうんざりとしながらそう思った。まして相手は自分がこの世で一番大嫌いな男だ。不機嫌にならない方がどうかしている。肩が触れ合わないように距離を置いているせいで、それぞれの反対側の肩はずぶ濡れだ。身長差のせいで傘は静雄が差していて、哀れな子猫は今は臨也の腕の中だった。
「この猫、どうする気なの」
臨也は猫の背を撫でながら問う。臨也の腕が温かいのか、子猫はもう震えてはいなかった。
「体を拭いて、あっためる」
「そのあとは?」
「……」
更に先を聞かれ、静雄は黙り込む。顔を伏せれば雨に濡れた革靴が目に入った。先端が色濃く変わり、染みになってしまっている。ちゃんと手入れをせねば、そのまま跡が残ってしまうだろう。
「飼えないなら拾うべきじゃない」
「分かってる」
臨也の言葉は決して責めるものではなかったが、静雄には何だか居心地が悪かった。恐らく自身でも気にしているせいだ。
「ま、仕方がないかもね」
臨也は微かに笑い、猫の喉を撫でる。
「シズちゃんは妙に優しいところがあるから」
「妙に、ってなんだよ」
馬鹿にされているのだろうか。
ムッとしてあからさまに不機嫌になった静雄に、臨也は大きく笑い声を上げた。
「これでも一応褒めてるんだけどね?」
「どこがだよ」
「全部」
殊更楽しげに笑う臨也に、静雄はもう何も言い返さない。これ以上言い返せばきっと喧嘩になるし、小さな猫を連れてそれはしたくなかった。静雄だってそれくらいの分別はつく。
大体どうして自分と臨也が連れ立って歩いているのか、心底不思議だった。びしょ濡れの自分や猫の事なんて、放置すればいいだけのことだ。臨也には傘を差してやる義理も責任もない。寧ろ静雄が雨のせいで風邪でも引いたなら、大喜びでもしそうだと言うのに。
やがて静雄のアパートが見えてきた頃、雨足がちょうど弱くなった。
「止みそうだね、雨」
臨也の赤い目が空を見上げる。釣られて同じく空を見れば、遠くの空は既に明るかった。
静雄は差した傘から手を出すと、小雨なのを確認してから閉じた。臨也にそれを突っ返し、替わりに子猫を受け取る。猫は静雄を見上げ、小さくニャアとまた鳴いた。
「シズちゃん見て」
「あ?」
ほら、と言われて顔をそちらに向ける。臨也が指差した方向には、色鮮やかな虹が浮かんでいた。
「虹だ」
静雄の目が驚きで見開かれる。虹なんて今まで生きて来て、数える程しか見たことがない。池袋の街でこんな虹を見れる機会など、恐らく滅多にないだろう。
「珍しいね。俺も子供の時に見た以来だ」
臨也の赤い目は虹を見て眇められ、やがてその目は隣の静雄に移された。子供のように無邪気な顔で虹を見上げる静雄を、臨也は少しだけ眩しそうに見遣る。雨はもう完全に上がっていて、虹ももう直ぐ消えてしまうだろう。
その時、突然静雄の腕の中の猫が飛び降りた。
「わ、」
慌てて猫に伸ばす静雄の手を、臨也の手が掴む。その間に黒い子猫は、走って先へと行ってしまった。
「行かせてあげなよ」
臨也は静雄の手を掴んだまま、猫を見遣る。
「もう晴れたし、一人で大丈夫ってことでしょ」
その言葉に静雄は眉を顰め、猫の方を見た。子猫はこちらを振り返ると、ニャアと少し大きな声で鳴く。
「『ありがとう』ってさ」
それを受けて臨也が笑う。
静雄は顔を蹙めて臨也を睨み、やがて小さく溜息を吐いた。猫の後ろ姿は段々と小さくなり、やがて路地裏へと消えてゆく。
「シズちゃんが飼えないから気を遣ったんじゃない?」
「…体ぐらいは拭いてやったのに」
臨也の言葉に、静雄は僅かに顔を伏せた。何だか胸の中が少しだけ痛くて、鼻の奥がツンとする。
へこんだ様子の静雄を、臨也は目を細めて見ていた。掴んだままの手を引いて、濡れたアスファルトを歩き出す。
「代わりに俺の体を拭いてよ。俺、寒くて風邪引きそう」
「はあ?」
強引に手を引かれ、静雄は足がもつれた。臨也は静雄のアパートの階段を、さっさと上ってゆく。どうやら静雄の部屋がどこかなんて、この男には最初から分かっているようだ。
「猫が居なくなって寂しいんだろう?だから俺を猫の代わりだと思って可愛がってよ」
カンカンカン…、と臨也は足音を響かせて先を進む。
静雄はそれに、かあっと頬に熱が集中するのが分かった。寂しい、なんて言い当てられて、恥ずかしさのあまり顔を伏せる。
「俺は別に…っ」
「シズちゃんって、」
言い訳を口にしようとする静雄を遮り、不意に臨也がこちらを振り向いた。臨也の赤い目が静雄を捉え、穏やかに細められる。
「手、あったかいんだね」
ドクン、と心臓が強く高鳴った。
静雄の色素の薄い茶色の目が、驚きで見開かれる。
臨也はそれ以上は何も言わず、手を繋いだまま再びアパートの通路を歩き始めた。
静雄はもう抵抗する気を無くし、臨也に手を引かれるままついて行く。

…ああ、体温を知られてしまった。
知られたくなかったのに。

相手の体温を知ってしまった。
知りたくなかったのに。


繋がれた臨也の手は、ちっとも冷たくなんかなかった。



遅れましたが、め郎さん誕生日おめでとう。
め郎さんからのリクエスト。
(2011/03/07)
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