Will you marry me?


静雄は欠伸を噛み殺し、揺れる電車の中にいた。
吊り革に掴まり、一定のリズムに揺られながら、窓の外に目を向ける。もう空は夜になりかけで、遠くの空だけが紫がかっていた。
随分と日が長くなったなあ、と季節の移り変わりの早さに感心してしまう。もう夏は直ぐそこだった。
電車に乗っていたのは、5分やそこらだ。アナウンスが新宿への到着を告げ、静雄はいつもの駅を歩く。スイーツでも売っているのか、駅の中は甘ったるい匂いがした。
雑踏の流れに身を任せながら、静雄は改札口から外へ出る。西口の広場を抜けると、でかい目のオブジェが見えてきた。初めて見た時は驚いたそれも、今はなんとも思わない。これがガラスではなくアクリルだと知ったのは、最近のことだ。
通りを抜け、都庁の明かりに目を細めながら、静雄は携帯をポケットから取り出す。アドレス帳からでは無く、履歴の中から電話を掛けた。交友関係が少ない静雄には、電話をする人間は僅少だ。たった二回のコールで、直ぐに相手は電話に出る。
「新宿に着いた」
相手が出るや否や、静雄は短くそう伝えた。相手はそれに何か言ったようだが、静雄はさっさと通話を切ってしまった。
あの男と電話だなんて、静雄は気恥ずかしくて堪らない。あの甘いテノールを耳に直接聴くなんて、堪えられそうになかった。きっと静雄の羞恥など、相手は気付いているのだろうけど。
綺麗に整備された道路を歩きながら、静雄はこれから会う人物のことを考える。
今日は珍しく、何日も前から会うことを約束していた。いつもいきなり会おうと言って来ることが多いから、これは酷く珍しい。
何か用があるのだろうが、それをはっきりと伝えて来ない。珍しく真面目な顔で、「大事な話がある」と言われたことを、寧ろ不安に思った。臨也がそんなことを言うなんて、静雄にとってはきっと嫌な事なのだ──そんな風に疑ってしまうのは、あの男の日頃の行いのせいだろう。
やがて前方に見えて来たマンションに、静雄は思考を中断する。住宅地に建つ、高級そうな高層マンション。静雄の給料では一生住むことは無理そうな家。
──ま、直接聞くしかねえか。
静雄は小さく息を吐くと、マンションのエントランスをくぐった。



なのに。

臨也は先程からパソコンを睨んだまま、こちらを見ようとはしない。
時折何かの書類を見たり、何台もあるスマートフォンを忙しなく動かしていた。
広く清潔な臨也の仕事場は、臨也のキーボードを叩く音だけが響いている。テレビもつけておらず、洒落た音楽も流れてはいない、静かな空間。
ブラインドの隙間からは新宿の夜景が見え、もう空はすっかり夜の色だった。明るい夜景のせいで星はあまり見えないが、月だけがこちらを見下ろしている。
そんな静かな部屋の中で、静雄はソファに座り、出された紅茶のカップを睨んでいた。
自分はちゃんと言われた通りの時間に来たというのに、呼び付けた相手が仕事とは腹が立つ。時計の針がチクタクと音を立てるのに比例して、静雄の機嫌も悪くなってゆく。
「──なあ、何の用なんだよ」
不機嫌にそう問い質しても、
「もう少し待って」
と言われるだけで、臨也はこちらを見向きもしなかった。
静雄は舌打ちをし、気付かれないように小さく息を吐く。こんな風に待たされるなんて、普段の静雄ならばさっさと帰っているところだ。そうしないのは、待たされて苛々している静雄よりも、臨也の方が不機嫌に見えるせいだった。
急に入った仕事なのか、臨也がキーボードを叩く姿はやけに性急だ。眉間には深く皺が刻まれ、瞳は剣呑に眇められている。ひょっとしたら自分の為に急いでくれてるのか──そう思うと、静雄にはほんの少しだけ嬉しい。
──…ま、仕事なら仕方ねえしな。
静雄はそう思い、もうすっかり冷めてしまった紅茶を口にする。それはちゃんと掻き混ぜていなかったせいか、底には砂のように砂糖が沈んでいた。高級であろう紅茶の味も、やけに甘ったるい。
静雄が座る位置からは、臨也の顔が少しだけ見える。パソコンのディスプレイのせいで、右側が半分だけ。真っ白な肌と、真っ黒な髪。唇と瞳だけが赤い。相変わらず綺麗な顔だと、静雄は思う。
静雄は他人の容姿を気にしたりはしないが、臨也が世間一般的にイケメンと言われる存在なのは知っていた。だが同じ男として、それを羨ましいと思ったことは一度もない。静雄にとって外見や容姿は二の次であり、重視すべきは中身や性格であった。
臨也の場合は腹黒で、反吐が出るくらいに性格が悪い。なのに何故惹かれたのかと言うと──自分でもはっきりとは分からなかった。こんな薄情な男のどこがいいのかと、静雄自身も不思議に思っている。
ふと静雄は、臨也の様子がいつもと違うことに気付いた。
苛々していると思っていたが、良く見れば心ここに在らずといった風である。焦燥や、取り乱しているのとは違う、何だか不安そうな憂いを帯びた表情をしていた。時折小さい舌打ちや、軽い溜息が静雄の耳にも届く。
「…臨也?」
訝しげに名前を呼ぶと、臨也の肩がぴくりと跳ねた。キーボードを叩く手を止め、明らかに動揺して顔を上げる。
「何かな?」
「…なんだか変だぞ、お前」
静雄は紅茶を一気に飲み干すと、ソファから立ち上がった。そんな静雄を、臨也は胡乱げな眼差しで見返して来る。
「なんかあったのか」
「…別に」
デスクに近付いて来る静雄に、臨也は素っ気なく声を返す。しかし目を逸らし、眉根を寄せるその表情は、静雄の目から見ても酷く不審だった。
憎しみ合って、喧嘩をして来た仲だというのに、静雄には臨也の些細な変化も敏感に分かってしまう。伊達に長い付き合いではないのだなと、内心で苦笑した。
回り込んでパソコンの画面を見れば、静雄には理解出来ない文字列が並んだ窓が開いていた。ブラウザには知らない人間の写真、喋ってもいないチャット画面。どうやら臨也は、仕事をしていたわけではないようだ。
画面から目を離し、静雄は臨也の横顔を見下ろした。
臨也は顰めっ面で画面を睨んでいたが、やがて諦めたように大きく溜息を吐く。
「…俺自身も、自分がここまで意気地無しだと思わなかったよ」
「…臨也?」
自嘲気味にそう話す臨也に、静雄の眉間に皺が寄る。
微かに苦笑を浮かべ、臨也は突然立ち上がった。デスクの引き出しを開け、そこから赤茶色の小さな箱を取り出す。表面には某有名ブランドの名前が、金の英字で描かれていた。
「これをシズちゃんに」
臨也は珍しく真顔でそう言って、その小さな箱を静雄の目の前で開いて見せた。
箱の中にはもうひとつ赤茶色の箱があり、それには金の留め金が付いていた。その小さな箱は、静雄でさえドラマや漫画などで見覚えがある大きさで、静雄は驚きで目を見開く。
「これ…」
「指輪だよ」
臨也は素っ気なくそう言うと、留め金を押して中を開ける。そこには真っ白な布に包まれた、プラチナの指輪が入っていた。それは表面に小さく装飾が施され、部屋の人工的な光の中で鈍く光っている。
静雄は暫く無言で、瞬きも忘れてそれを凝視していた。さすがに鈍い静雄でも、これがどんな意味を持つのか分かる。
「嵌めてくれないかな」
箱から慎重に指輪を抜くと、臨也は静雄に向かって差し出した。「一応サイズは合ってる筈だけど」と、ぎこちない笑みを浮かべる。
静雄は何度か目を瞬き、指輪から臨也へと視線を戻した。
ひょっとしたら臨也は、ずっとこれで緊張していたのだろうか。
ずっとこれを渡す機会を伺って、勇気が出ずに悶々としていたのだろうか。
だからあんな風に、パソコンばかりを見てたのか。
そう思うと、静雄は顔に熱が集まるのを感じた。あの臨也がこんな風に人間くささを見せるのは、恐らく自分にだけ──それは静雄の体を歓喜に震わせ、優越感を満たした。
静雄は熱くなった顔を手の甲で隠し、臨也の顔を探るように見る。
「…この指輪、は…、」
ただの贈り物なのだろうか。もし何か意図があるのなら、それをはっきりと口にして欲しい。臨也の口から、その言葉をちゃんと聞かせて欲しい。
そんな静雄の考えが分かったのか、臨也は僅かに口角を吊り上げた。幾分緊張が解けた顔で、小さくふっと息を吐く。
「シズちゃん」
臨也の冷たい手が、静雄の左手を優しく掴んだ。そのままゆっくりと持ち上げ、指先を親指で撫でる。

「俺と結婚しよう」

囁くようにそう言って、臨也は静雄の薬指に唇を落とした。ぴく、と静雄の手が僅かに震えるが、臨也は構わずに指の付け根まで唇を這わせてゆく。
静雄は顔だけじゃなく、耳や襟足までも熱くなるのを感じた。結婚なんて申し込まれたのは初めてだったし、指輪なんて貰ったのも勿論これが初めてだ。それも自身が好いている相手から。
「返事は?」
掠れた声で言いながら、臨也がまた指輪を差し出して来る。良く見れば内側には、二人の名前がアルファベットで彫ってあった。きっと臨也用の指輪もあるのだろう。
静雄は臨也の問いには答えずに、左手を臨也の方へ突き出して見せた。指を真っ直ぐに伸ばし、赤い顔をしたまま臨也を睨む。
「…嵌めてくれ」
「え?」
「…貰ってやるから、手前が嵌めろよ」
低い声でそう言うと、静雄は臨也から目を逸らした。その目は涙の膜で輝き、目許は赤く染まっている。
これが、今静雄が出来る精一杯の返事だった。
恥ずかしくて、まともに臨也の顔を見ることが出来ない。だけど本当は、同時に嬉しくもあるのだ。それを絶対に口にしたりはしないけれど。
そんな静雄の態度に、臨也は僅かに笑い声を漏らした。長い付き合いのお陰で、臨也にはそれが静雄の答えだと分かっている。
再び静雄の手を取ると、臨也は薬指の先に指輪を差し込んだ。
「ありがとう、シズちゃん」
そしてそのまま、指の付け根まで指輪を嵌めてゆく。
それは勿論、静雄の指にはぴったりだった。


(2011/06/27)

イザシズ結婚企画へ提出
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