『飴と鞭』 カシャン、とサングラスが落ちた。 あ、 と思っている間にナイフが鼻先を掠っていく。 静雄は舌打ちをすると手に持っていた標識を離し、バランスを崩しかけた体を立て直す。 臨也はそれを見て声を上げて笑い、静雄の反撃が来る前に後退した。 「続きはまたね、シズちゃん!」 忌ま忌ましい愛称で呼ばれ、臨也はそのまま走り去っていく。 「…うぜえ」 遠くなって行く後ろ姿を追う気も起きず、静雄は地面に落ちたサングラスを拾った。 それはプラスチックの部分にヒビが入っていた。もう使い物にならないだろう。 静雄は溜息を吐いてそれをポケットに仕舞い込んだ。 「さすがにヒビが入ってるのは直せないよ。レンズ部分だけ変えるとかかなあ?」 新羅は苦笑してサングラスを返して寄越した。「販売店に行けば修理してくれるかもね。どこで買ったの?」 「知らねえ」 「貰った物なの?へえ」 弟とかかな?と新羅は頷いて、珍しく凹んだ様子の静雄にプリンを出してやった。 小さくなってモグモグとプリンを食べる大男は可愛くもあり滑稽でもあり。 「そんなに落ち込むなら臨也に弁償させなよ」 あいつ金持ちなんだし。 新羅がそう言うと静雄は黙ってしまった。 おや?と新羅は首を傾げる。静雄が臨也の話題に乗って来ないなんて珍しい。 「まあ、諦めるわ」 静雄はプリンを食べ終わるとスプーンを置いた。「無くても別にいいし」 「それ、静雄に似合っていたのに」 金髪、バーテン服、サングラスは池袋最強のトレードマークだ。 その時インターホンが鳴り、新羅が立ち上がった。 扉を開けると臨也が立っていて、新羅はくらりと眩暈がする。 「何の用?今静雄が要るんだけど」 喧嘩でもして家を壊されたら堪らない。 「ああ、そうなの」 臨也は唇を吊り上げて笑う。「ちょっと運び屋さんに仕事の依頼をね」 「セルティならまだ帰ってないよ。取り敢えず中に入って」 新羅は半ば諦めて臨也を通す。 静雄は臨也を見るなり舌打ちをし、臨也は表面に笑いを張り付かせながら肩を竦める。リビングには冷たい空気が流れた。 静雄は怒りを抑えているのかたまに歯軋りが聞こえる。 それでも爆発させないのは新羅…もとい、セルティの家だと言うのがあるんだろう。 「帰る」 これ以上この空間にいるのはまずいと判断したのか、一言そう言って静雄はさっさとリビングを出ていく。 新羅も臨也も別段引き止めない。 バタン、と扉が閉まる音がして新羅はほっと息を吐いた。 「臨也、今度は来るとき連絡してよ」 「シズちゃんはちゃんと言ってから来てるわけ?」 「まさか」 「じゃあ俺も言わない」 どこまでも天の邪鬼な旧友に、新羅は溜息を吐く。 「まあコーヒーでも入れるから座って」 臨也はソファーに座ると、テーブルの上のサングラスを手に取った。 「シズちゃん、忘れていってるよ」 「もう使えないみたいだから置いて行ったのかもね」 新羅は臨也の前にコーヒーのカップを置く。 「本当だ。壊れてるね」 「他人事のように言ってるけど、君が壊したらしいよ」 「ふうん」 臨也は暫くサングラスを眺め、それをポケットに仕舞った。 「持っていくの?」 「これさあ、俺がシズちゃんにあげたんだよね」 「……は?」 「やっぱり今日は仕事はいいや。俺も帰る」 臨也はコーヒーに一口も手を付けずに出て行ってしまった。 数時間後。 またリビングのテーブルの上にはプリンが置かれている。 「なんか臨也が持って行っちゃったんだよねえ」 サングラスを忘れたことに気付き、静雄が戻ってみれば目的のものはないと言う。 「何であいつが持って行くんだよ。うっぜえ…」 ギリギリと歯軋りが聞こえ、新羅は慌ててもうひとつプリンを渡す。静雄は素直に受け取った。 「と言うか、あれ臨也から貰ったって本当なの?」 新羅が何気なく聞くと、静雄の顔が目に見えて赤くなった。 怒りの為か照れなのか…新羅は判断に悩む。 「あいつが押し付けて来たんだよ」 「へえ」 その割に気に入ってたんだね、とは新羅は口に出さない。命は惜しい。 「まあ今度臨也に返却するよう言っておいてあげるよ」 その時インターホンが鳴った。 新羅は嫌な予感がする。 出てみると予想通りの男が立っていて。 「ちょっとさ、実は狙って来てない?」 「今回はね」 歌うように笑って、黒ずくめの男は中に入った。 静雄はさすがに一日に二度も遭遇するとは思っていなかったらしく、目を丸くする。 「また来たのかよ」 「その台詞はそのままお返しするよ」 「そう言うことは僕が君達に言いたいね」 新羅は二人の間に立って肩を竦める。「ま、座りなよ」 臨也をソファーに促して、新羅はまたコーヒーをカップに入れた。 「おい」 沈黙を破ったのは静雄が先だった。 「返せよ、あれ」 「あれ?ああ」 臨也はコーヒーを一口飲むと、芝居がかったように両腕を広げた。 「壊れてるからもう要らないんじゃないの」 二人のやり取りをキッチン側から見ていた新羅は、臨也は本当に性格が歪んでるなぁと妙な感心をしてしまう。でもここは黙って見守っておこう。どうやら二人とも喧嘩する気はないらしいし。 静雄は舌打ちをすると顔を逸らす。苛々しているのがはっきりと顔に表れていた。 「まあ意地悪はやめておこうか」 臨也は立ち上がると静雄の側まで来る。静雄が訝しげに顔を上げると、臨也はスッとサングラスを静雄の顔に掛けた。 静雄は驚きで目を丸くする。サングラスはヒビが無くなっていて、静雄の視界はクリーンだった。 「違うのにしようかと思ったけどそれ気に入ってるみたいだし、同じのにしちゃった」 「…買ったのかよ」 「そう。似合ってる」 臨也は声を出して笑うと、これも返すよ、と前のサングラスを静雄のポケットに入れた。 静雄はと言えば顔を真っ赤にしている。 臨也のことだからきっと高いサングラスなんだろうなぁ。新羅はコーヒーを啜りながら考える。案外青いサングラスってのも、自分の赤い目に合わせてたりして…。うわ、臨也キモい! 「じゃあ帰る」 臨也はコーヒーを飲み干すといつものコートを羽織った。 「あれ、もう帰るの」 「渡しに来ただけだし」 新羅は玄関口まで臨也を見送る。 「静雄をあのままにして帰るの」 「たまにはね。飴と鞭は必要だろう?」 臨也は口端を吊り上げて笑い、そのまま出て行った。 リビングに戻り静雄の顔を見た新羅は、こりゃあ他の知り合いには見せられないなと苦笑する。 静雄は赤い顔のまま手で頬を押さえていて、まるで恋する乙女だった。 (2010/07/17) ×
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