さくらの花の咲くころに


※リクエスト作品です。




教室から見える蕾だらけだった桜が、少しだけ花を咲かせている。年々開花が早くなるな、とそれを見て静雄は目を細めた。
卒業式が終わって、校舎には殆ど生徒はいない。『卒業おめでとう』なんて書かれた黒板や教室は、後輩たちの手に因って飾り付けられていた。
もうこの校舎を出たら、二度と登校することはないのだ。そう思うとほっとした気持ちと、ほんの少しの寂しさが静雄を襲う。いい思い出なんて一つも無かったけれど、三年と言う月日はまだ18歳の静雄には大きかった。
静まり返った教室で、静雄は頬杖をついて窓の外を見た。空も、雲も、木々も、風も、そこにあるものは何もかも変わらない。明日からいなくなるのは自分だけ。自分だけがこの世界から卒業してゆく。
「シズちゃん」
不意に嫌な愛称で呼ばれ、静雄は体をぴくりと震わせた。不機嫌に振り返れば、三年間苦しめられて来た天敵が扉の前に立っていた。
「まだ帰らないの?」
「これから帰るとこだ」
なんで最後に手前なんかの顔を見なきゃなんねえんだ、と静雄は悪態を吐く。
臨也はそれに口端を吊り上げて笑い、肩を竦めて見せる。
「最後だって言うのに、冷たいね」
その言葉を無視し、静雄は机から立ち上がった。三年間、どのクラスでも、静雄はずっとこの席だった。一番後ろの、窓際の席。この席に座ることは、もうない。
「明日から会えなくなるね」
臨也の声は、笑いを含んでいる。静雄をからかっているのかも知れない。
「清々するな」
静雄は吐き捨て、臨也の横を通り過ぎて廊下に出た。廊下はシンと静まり返っている。人の気配は一切なくて、足音だけがいやに響く。
「俺は寂しいよ」
臨也はそんな静雄の背中に話し掛けた。ピタ、と静雄の足が止まる。
「毎日毎日。シズちゃんと駆け回った学校だから、」
もう来れなくなるのは寂しいな。
そう言った臨也の声は、やはり笑い混じりだった。
それに苛々とし、静雄は振り返る。文句を言おうと口を開きかけ、不意に黙り込んだ。
こちらを見詰める臨也の赤い目が、あまりにも真剣だったから。
「毎日シズちゃんと喧嘩して、結構楽しかったよ」
臨也は笑い、その赤い目を細める。口調も表情も揶揄が含まれているのに、静雄は何故かそれを怒る気になれない。目だけが笑っていなくて、真っ直ぐに静雄を見詰めていた。
「忌ま忌ましく思うことも多々あったけどね」
「…それはお互い様だろ」
寧ろ、静雄の方が被害は大きかった筈だ。
それを言うと、臨也は声を上げて笑う。否定をする気はないらしい。
「じゃあな」
静雄は今度こそ、臨也に背を向けた。卒業証書を持つ片手に、少しだけ力が入る。長い廊下の窓には、真っ青な青空が広がっていた。
「シズちゃん」
後ろから臨也が名を呼ぶ。静雄はそれに振り返らない。
早足で廊下を歩き、階段を下りる頃には駆け足になっていた。
一段一段、足音を立てて下りてゆく。踊り場を大股に歩き、一階に下りる。誰もいない静寂な校舎。壁に貼られたプリントが、どこからか吹く風で舞っていた。
昨日まで走り回っていた廊下。投げ飛ばした机や椅子。割られた窓ガラスや、血が飛び散った壁。本当にこの学校には嫌な思い出だらけだ。
入学したその日に殺し合いの喧嘩をし、ナイフで切り付けられた。それから毎日毎日、続けられた追いかけっこ。夏休みや冬休みでさえ、それは毎日行われた。傷付け、傷付けられて、大嫌いな暴力を振るわされて、肉体も精神も蝕まれてゆく。
死ね、殺す、失せろ。
負の感情を抱く自分をどれだけ厭んで来たことか。
早く卒業したかった。
早くあの男と離れたかった。
それなのに。
廊下の角を曲がり、静雄はやがて立ち止まる。無意識に駆けて来た体は、少しだけ息が荒い。壁に背中を預け、ズルズルと廊下の床に座り込んだ。
「…うぜえ」
ツン、と鼻の奥が痛い。じわりと目頭が熱くて、視界が何かで遮られる。スーッと静かにそれは、静雄の目から零れ落ちた。
──…涙?
目から流れ落ちる温かい雫は、静雄の頬を濡らす。
泣いてるのか、…俺が?
静雄は信じられないものでも見るように、目を見開いてそれを眺めていた。
泣いたのなんて何年か振りだ。小学生の頃以来かも知れない。なんで泣いているんだろう。なんで涙が止まらないのだろう。雫は次から次へと溢れ、静雄の制服を濡らしてゆく。
「シズちゃん」
いつの間にか、臨也が目の前に立っていた。泣いている静雄の顔を見て、臨也は驚いたように目を見開く。
静雄は膝を抱え、その視線から逃れるように顔を伏せた。泣いているところを見られたのが悔しい。よりによってこの男に。ぐいっと手の甲で涙を拭うが、溢れる涙は止まらない。
気配で臨也が傍らにしゃがみ込んだのが分かった。馬鹿にされるかも知れない。男の癖に泣くだなんて、なんて滑稽なのか。
「ねえ」
優しい声。
静雄はそれに、体を震わせる。
「泣かないで」
腕が伸びて来て、抱き寄せられた。ふわりと良い香りがするのは、臨也の香水かも知れない。
「どうして泣くの」
「…知らねえよ」
答える声は無愛想なのに、静雄の目からは涙が止まらない。ずっと手にしていた卒業証書が、ころころと床に転がった。
涙はぽろぽろと零れ、臨也の黒い制服をも濡らしてゆく。頭を撫でる臨也の手は優しい。何故泣いてるのかも不可解なら、臨也がこうして自分を抱きしめているのも不可解だった。
臨也の冷たい指先が伸びて来て、静雄の生温い涙を拭う。
「泣かないでよ」
珍しく臨也は困った顔をしていた。その顔に少しだけ溜飲が下がるが、静雄の涙は止まらない。
「シズちゃんが泣いたらどうしていいか分からない」
涙を拭い、頭を撫で、抱き寄せて背中を摩っても、静雄は涙を流し続けた。嗚咽は上げず、ただ静かに涙を零すだけ。スン、と鼻水を啜れば、臨也が少し笑った。
「俺と離れるのがそんなに寂しい?」
「…んなわけねえだろ、死ね」
そう言って静雄は睨みつけるが、涙のせいで迫力はない。
「シズちゃんがここまで悲しんでくれてるとは思わなかったな」
臨也は口端を吊り上げると、静雄の耳許に唇を寄せた。吐息が直接耳に触れ、静雄の体が硬直する。
「いざ──…、」
「黙って」
臨也の薄い唇が、静雄の耳朶を甘噛みした。びくっと静雄の肩が跳ねる。
「恥ずかしがることはないよ。言っただろう?俺も寂しいって」
熱い舌が耳の縁を舐めた。ぬるりとした感触に、静雄は思わず臨也の腕に縋り付く。
臨也は優しく耳に口づけながら、静雄の制服のポケットへと手を伸ばした。冷たい金属のそれを取り出すと、ゆっくりと体を離す。
「…なんだよ」
臨也が取り出したのは静雄の携帯だった。臨也は静雄の問いには答えず、勝手にその携帯を開く。何やらボタン操作をして、直ぐにそれを返して寄越した。
「俺の番号とメルアド登録しておいたから」
「はあ?」
楽しげに笑う臨也に対し、静雄は素っ頓狂な声を上げる。涙はその間も流れ続けていて、まるで涙腺が壊れたみたいだ。
「寂しかったら電話でもくれたらいい」
臨也は穏やかにそう話しながら、静雄の涙を親指で拭き取った。何度も何度も、目許を優しくなぞる。
「誰がするか」
これ以上ないくらいの赤い顔で、静雄は臨也を睨み付けた。耳も顔も熱いのは、怒りのせいだと思いたい。心臓がバクバクと早鐘を打つのも、気付かない振りをしたかった。
「シズちゃんは意地っ張りだもんねえ。ま、メールは俺からするよ」
ははっ、と声を上げて笑いながら、臨也は立ち上がった。廊下の窓から見えていた空は、いつの間にか少しだけオレンジ色だ。
臨也はまだ座り込んだままの静雄へ手を差し延べた。いつもと違う、悪意のない笑みを浮かべて。
静雄は暫くそんな臨也を睨んでいたが、やがて諦めたようにその手を取った。手を引かれ、立たされながら、静雄は口を開く。
「お前、俺のメルアド知らねえだろうが」
教えるつもりはないし、新羅には口止めして置こう──…と静雄は内心呟く。
臨也はその言葉に唇を歪めて笑った。いつもの臨也の顔だ、と静雄は眉根を寄せる。
「シズちゃんのメルアドならとっくに知ってるよ。電話番号もね」
「は?」
いつの間に!
驚愕で目を見開く静雄に、臨也は卒業証書を拾って手渡した。
「卒業おめでとう、シズちゃん」
臨也はニヤリとシニカルな笑みを浮かべると、静雄の手を引いて歩き出す。
静雄は唖然としながらも、抗わずに臨也の後に続いた。冷たかった臨也の手は、いつの間にか温かくなっている。自分の体温が他人に移るのを、静雄は初めて経験した。
気付けば涙はいつの間にか止まっていた。


(2011/02/11)
リクエスト内容。→涙腺が壊れて泣き続ける静ちゃんと対応に困りつつ何となく傍にいる臨也
でした。
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