呼吸が苦しい。
ハ、と短く息を吐いてから、静雄は思いきって起き上がる。背中の骨が軋むような嫌な音がした。ズキンズキンと全身が痛む。
真っ白な自身の両腕を見ると、あちこちに切り傷が刻まれていた。既に瘡蓋になっているのもあれば、まだ血が滲んでいる傷もある。ナイフでつけられた傷。寝ていたベッドのシーツにも、血が飛び散っている。
…痛い。
じわ、と涙が滲みそうになるが、それを辛うじて堪えた。痛みのせいか、なにかに感極まったのか、自身でも良く分からない。ただ男の癖に涙など、プライドが許さなかった。
部屋の中は薄暗かった。完全な闇ではない。窓から入り込むビル明かりが、部屋をうっすらと照らしている。まだ夜明け前だ。少しだけ微睡んでいた間に、何か夢を見ていたのかも知れない。
静雄は痛みに堪えながら、自身の裸体に視線を落とす。たくさんの赤い痕が、脚の内腿にまでついていた。嫌な痕だ。当分消えないだろう。
「痛い?」
闇から声がして、静雄は飛び上がった。誰もいないと思っていたのに、相手はずっとそこにいたらしい。始めから起きていたのか、それとも一時の眠りから覚めたのか、静雄には分からない。
臨也はコツ、と靴音を響かせて、薄暗い部屋の真ん中に立つ。静雄はそれを、ただ黙って睨みつけた。内心では怯えていたが、それを表には決して見せない。
「痛いの?」
ベッドの傍らに近づき、臨也はもう一度そう聞いた。静雄はそれに目を伏せる。
答えなくては。
黙り込んでいれば、臨也の機嫌を損ねるだろう。
「痛くねえよ」
声は震えることなく、ちゃんと発することが出来た。
臨也は静雄の顎を掴み、無理矢理に視線を合わせる。赤い、血のような瞳と目が合った。
「嘘つきだね」
口端を吊り上げて、臨也は嗤った。
臨也の冷たい手が、静雄の肌を撫でる。腕を取り、静雄の傍らに跪くと、臨也は傷口に舌を這わせた。ピリッと熱い舌のせいで傷口が痛む。なのに舐められているうちに、静雄の痛みは徐々に楽になってゆく気がする。
「…っ」
静雄の唇から、熱い吐息が漏れた。もっと、体の真ん中の、腹より下の部分が、熱を帯びてじわりと痺れる。
「舐められてるだけで感じるの?」
低く囁くような臨也の声は、嘲りが含まれていた。
「…ちげえ」
痛いせいだ、と内心言い訳をして、静雄は目を閉じる。目を閉じるのは自己防衛だ。臨也の視線から逃れる為の。
「どうせ君に傷痕は残らないだろうけど、一応治療をしようか」
「自分で傷付けたくせに良く言うな」
楽しげに笑う臨也の声は不愉快で、静雄は耳を塞ぎたくなった。勿論そんなことをしたら報復が恐ろしいからやらないけれど。
「朝になったら新羅を呼ぼう」
チラリと時計に視線を送りながら、臨也は言う。早朝から新宿に呼び出される新羅に、静雄は僅かに同情を覚えた。
「別にいいだろ、治療なんて」
静雄がそう言うと、臨也の赤い目が再び静雄に移される。
「何故?」
「どうせ直ぐに治る」
それにいくら付き合いが長い新羅と言えども、あまり自分のこの姿を見られたくはなかった。
「ふうん」
臨也は気のない返事をし、静雄の体から手を離す。静雄はそれに、気付かれないようにそっと溜息を吐いた。
静雄にとって、臨也に触られるのは拷問だ。キスも抱かれるのも屈辱的だったし、触れられる度に何故か胸が苦しくなる。こんな風に胸が痛む理由なんて、静雄は考えたくなかった。臨也が自分を抱く理由も、きっと碌でもないものに決まっている。嫌がらせ、とはっきり口にされないだけマシだ。
「ねえ」
不機嫌な声に、意識を戻される。
「考え事をするなら、俺の居ないところでやりなよ」
臨也の冷たい手が、静雄の白い首に回された。ぐ、と僅かに力を込めて、戯れに首を絞める。
「憎たらしいなあ。シズちゃんが他のことを考えるの」
何が憎たらしいだ。考えていたのはお前のことなのに。
静雄はそう思うのに、それを口には出さない。言ってもどうせ嗤われるだけだ。若しくは信用されないだろう。
段々と臨也の首を絞める手に力が入る。静雄は息が出来なくなり、苦しさに目を瞑った。口を開いて少しでも酸素を取り込もうとしても、それは残念ながら叶うことはない。だらしなく唇から銀色の唾液が顎を伝って落ちた。
臨也はそんな静雄の唾液を赤い舌で舐め取ると、ゆっくりと手を離す。それと同時に酸素が大量に入り込んで来て、静雄はけほけほと咳込んだ。
「つまらないな。シズちゃん抵抗しないし」
嘲るような臨也の声。
抵抗したらしたで、もっと酷いことをする癖に。
静雄は息を必死に取り込みながら、臨也をきつく睨みつけた。何を言っても無駄だから、静雄はいつも文句は口にしない。今の静雄には、臨也を睨むことしかできないのだ。例え力では優位に立っていても。
臨也はその手で優しく静雄の頭を撫でると、ベッドへと体を押し倒す。ギシッとスプリングが揺れ、静雄の体にまた痛みが走った。
「今日はもう寝なよ」
頬をなぞる冷たい手。静雄はそれに目を逸らす。
「良い夢が見れるといいね」
そう話す臨也の声色は、とても穏やかなものだった。なのに静雄にはその声が空恐ろしい。まるで自分をどこかへ堕とすような錯覚がする。もっと深くて暗い、奈落の底へ。
それでも静雄は、促されるままに瞳を閉じた。臨也の姿が見えなくなって、瞼の裏には闇だけが広がる。真っ黒な、臨也みたいな闇。
「おやすみ」
臨也の冷たい手が、静雄の手を優しく掴む。
静雄はそれを、黙って握り返した。




「切り傷、打撲、内出血。まあ、どれもこれも静雄なら直ぐに治るよ。特に切り傷はもう殆どが消え掛かってる」
一通り診察を終えた新羅が、静雄の傷口を一つ一つ丁寧に消毒して行く。包帯や絆創膏はしない。静雄には必要じゃないからだ。
静雄は消毒されるのを、ソファに座ってぼんやりと見ていた。部屋の中は静かで、時計の秒針の音しかしない。窓から見える空は、嫌になるくらい快晴だった。こんな日の朝っぱらから呼び出されて、新羅にはいい迷惑だったろう。
臨也はパソコンが置かれたデスクに腰掛けて、黙ってこちらを見ている。静雄には痛いくらいにその視線が突き刺さっていた。
「そんな食い入るように見詰められたら気が散るんだけど」
新羅が笑って茶化すと、臨也は肩を竦める。暫くすると「お茶でも入れてあげよう」とキッチンへ出て行った。
臨也が居なくなった途端、新羅の目は真剣になる。何かを言いたそうに静雄を見るが、静雄は全身でそれを拒否した。言うな、何も言うな。分かっているんだ。何も言わないでくれ。
しかし口を開いた新羅は、静雄が思っても見ないことを言う。
「今日ここに来る時、電話を貰ったんだけどね」
「電話?」
「臨也から」
新羅は消毒したガーゼを袋に捨てる。それには少しだけ血が付着していた。
「早く来いって。早く静雄を診ろって」
「…要らねえって言ったんだけどな」
どうせ直ぐに治ると言ったのに。
「臨也は君が心配で心配で堪らないんだよ」
ふふ、と新羅は小さく笑う。眼鏡の奥の瞳は優しげに細められた。
「……」
静雄は黙り込む。傷を付けたのは自身なのに、そんな臨也が理解出来なかった。
チクタクチクタク。
昔見た童話のような時計の音。
一体どれくらい時間が過ぎたのだろう。
初めて会ったあの日から。初めて傷付けられたあの日から。
一体どれくらい時間が過ぎたら、この関係が終わるのだろう。
静雄は視線を窓へと移す。
青く高い空に、鴉が一羽飛んでいた。


臨也が紅茶が入ったカップを手に戻って来ると、静雄はソファで目を閉じていた。新羅が振り返り、しーっと人差し指を立てる。
「寝ちゃったの?」
「疲れてるんじゃないの」
訝しげな臨也の問いに、新羅は微かに笑った。耳を澄ませば、静雄の小さな寝息が聴こえて来る。新羅がいるから安心したのかも知れない、と臨也は冷めた頭で思った。
「ねえ、臨也」
紅茶に角砂糖をひとつだけ入れて、新羅は音も立てずにスプーンで掻き混ぜる。
「こんなことは、もうやめなよ」
「…何の話?」
分かっていて、臨也はわざと問う。
「ナイフは刺さりづらいけど、刺さらないわけじゃないんだ」
新羅はスプーンをソーサーに置いた。
「傷痕は残りづらいけど、残らないわけじゃないんだ」
カップを手にし、上品な香りがするそれを口にする。
「痛みには鈍くても、全く痛くないわけじゃないんだ」
分かっているくせに、と新羅は言う。その口調には責めるようなものはなく、ただ淡々としていた。
「どうしてこんなことをするんだい?」
新羅の問いは、臨也の心を抉る。
「──…そうしないと抱けないからね」
答える臨也の顔は、酷く無表情だった。美しいその端正な顔は、酷薄でいやに冷たく見える。
「どうして抱くんだい」
そうまでして。
新羅は言いながら、カップの紅茶へと視線を落とす。オレンジ色の液体に、自身の顔が映っていた。
「どうしてって、そりゃあ、」
ははっ、と自嘲するように臨也は笑う。
「好きだからだよ」
臨也の告白に、新羅は数秒間黙り込んだ。シン、とリビングが静まり返る。ソファで眠る静雄は、身じろぎひとつしない。
「…好きなら強姦するの?全く君の思考回路はどうなってるのかな」
反吐が出るよ。
と、新羅は紅茶を飲み干した。空になったカップが、ソーサーに高い音を立てて置かれる。口調とは裏腹に、新羅の顔には笑みが浮かんでいた。
臨也はそれに言い返さず、ただ口端を吊り上げて笑う。静かな部屋に、チクタクと時計の音だけが響いた。
「そろそろ帰るよ。紅茶ご馳走様」
新羅は立ち上がり、医療道具が入った鞄を手にする。ソファにいる静雄を見下ろせば、彼はまだスヤスヤと眠っていた。
玄関先まで臨也がわざわざ見送りに来る。新羅は扉に手を掛け、そんな臨也を振り返った。
「分かってると思うけど、静雄に『強姦』は通用しないよ」
あくまでも理知的に、新羅は意見を口にする。臨也はそれに僅かに目を伏せ、薄く笑った。
静雄と臨也の戦闘能力の差は歴然で、臨也が静雄を強姦するなんて有り得ないのだ。合意でもない限り。
「好きなら好きって本人に言いなよ。そんなの小学生だって出来るよ」
じゃあね!と、言いたいことを言うだけ言って、新羅はさっさとマンションを出て行く。臨也はそれを、肩を竦めて見送った。微かに苦笑を漏らしながら。


リビングに戻ると、寝ていたはずの静雄の姿がソファになかった。どこに行ったのだろうと探せば、どうやらベランダで煙草を吸っているようだ。
青い空を眺め、真っ白な煙を吐きながら、静雄の金の髪が風で揺れる。臨也はそれを、窓枠に手を掛けて見ていた。
「聞いてたの?」
「何が」
答える静雄の声は無愛想だ。
「新羅との会話」
臨也がそう言うと、静雄がやっとこちらを向いた。その目が動揺で揺れるのを、臨也は見落とさない。
「別に…俺は…、」
「好きだよ」
言い訳しようとする静雄の声を、臨也の言葉が遮った。
ピタリ、と煙草を吸う静雄の手が止まる。
「だから俺以外の人間のことを考えるのはやめてくれないかな」
「…なんだそりゃ」
煙草の灰がゆっくりと落下し、風に吹かれて散ってゆく。
「俺のことだけ考えて、俺の傍にいて、俺とだけセックスしてればいい」
臨也はベランダの窓を閉め、静雄の方へと近付いて来た。静雄はそんな臨也を見詰めたまま、動かない。どのみちこんな場所では逃げ道はないのだ。
「お前…何言ってんだよ」
声を発した喉はカラカラだ。煙草を挟む指先が微かに震える。
「俺のものになってよ」
臨也の赤い目は、静雄を捉えて離さない。ひたむきに、ただ真っ直ぐに見詰めて来る。
静雄は答えなかった。馬鹿馬鹿しい質問だと思った。
愚問過ぎて全くお話にならない。だから答える必要などないだろうと思う。
だってそんなの、俺はとっくに──

お前のものじゃないか。

臨也の手が静雄の手首を掴む。もうすっかり短くなった煙草が、灰になって床に落ちた。


(2011/02/06)  Title by 暫
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