『セロリ』


もう中身のなくなってしまった紙のカップを、静雄はいつまでもストローで啜っていた。氷が溶けて水っぽくなったメロンソーダ。それは静雄が傾ける度に中の氷がジャラジャラと音を立てる。
狭いファストフードの店内は、ちょうど昼時で人がごった返していた。さっさと席を立ちたかったが、テーブルの上にはフライドポテトがまだ残っている。それは冷めてもう不味くなっていた。
静雄はそれを噛みながら、ぼんやりと窓の外を眺める。街を行き交うたくさんの人々。平日の昼間だと言うのに、今日も池袋は賑やかだ。
寒空の下、手を繋いで歩くカップル。互いに手を繋ぐより、上着のポケットにでも手を入れた方が温かい筈だ。それとも好きな相手だと温かく感じるのだろうか。そんな幸福な気持ちは、静雄でも少し分かる気がした。
立ち上がり、ごみ箱へと食べかけのポテトを捨てる。トレイやカップを片付けて、静雄はさっさと店を出た。
冷たい冬の風が、金の髪を揺らす。空は青空で晴れているのに、小さな雪がふわふわと寒風に混じっていた。粉雪だ、と街を歩く誰かが感嘆の声を上げる。寒くてウンザリとする癖に、大抵の人間は雪が降る情景が好きだ。
信号を渡り、60階通りを通り抜ける。雪が静雄の鼻先を掠め、地面へと落下した。街にはこんなにたくさんの人間がいるのに、今自分は独りだ。静雄にはそれが悲しくもあり、なんだか虚しい。そしてそんな風に思ってしまう理由を、静雄はハッキリと分かっていた。


「別れたい」
そう口にすると、臨也は暫し黙り込んだ。
部屋は静かで、時計のカチカチとした秒針の音だけが聴こえる。カーテンが開いている窓からは、夜空に浮かぶ白い月が見えていた。
沈黙は長く、静雄はそれに息苦しさを覚える。臨也の顔を見ていられなくて、視線を天井へと彷徨わせた。
「理由は?」
永遠にも思えた沈黙を破り、臨也はゆっくりと口を開く。その顔には表情が無く、静雄には臨也の感情は読めない。
「限界だから」
何の、とは言わなかった。
静雄は小刻みに震える自分の手足を叱咤する。自分の緊張や怯えを、目の前の相手には知られたくはなかった。
「そう」
それ以上は何も問わず、臨也は短くそう返答をする。
「分かった」
あっさり了承された事に、静雄の心が凍り付く。無意識にぎゅっと拳を握り締め、彷徨わせていた目を伏せた。
「じゃあ」
ソファに無造作に置いてあったコートを手にし、静雄は慌てて部屋を出る。もう一秒だってここにいる理由はない。一刻も早くこの息苦しさから解放されたかった。
マンションを出て、新宿の街を足早に歩く。もう外はすっかり夜が支配し、薄暗い世界だった。
ツン、と鼻の奥が痛い。泣きたいわけでもない。こんなことで大の男が泣くわけにもいかない。けれど静雄は鼻水を啜った。きっと寒いせいだろうと自分に言い聞かせて。
臨也とは高校の時に知り合って、今年で八年目になる。その間、付き合っていたのはたった数ヶ月だった。まだ青かった高校生の頃から、臨也に執着している自分を静雄は知っていた。相手が同じ感情を抱いている事も。だから後は、何かきっかけがあるだけで良かった。そしてそのきっかけは訪れ、後は坂を転げ落ちるように堕ちて行った。お互いに縺れるように。
だけど、
例えば考え方の違いや、生活習慣の不一致、何かの好み、言葉や態度、様々なもの。
少しずつ少しずつ、ボタンを掛け間違うみたいに、それはズレてゆく。
違う人間なのだから当たり前だ。育った環境や価値観が違うのだから。
そう思うのに、静雄はそれをどうすることも出来ない。妥協する事も甘受することも、どうすれば相手が喜ぶかも分からなかった。それは静雄が不器用なせいかも知れないし、恋愛経験が少ないせいかも知れない。
静雄は悩み、苦しんで、結局もう投げ出すことにしたのだ。簡単なことだ。要するに静雄は逃げ出したのである。


はあっと口から出た息が白い。手で触れてみると、鼻も頬も耳も冷たかった。見た目もきっと赤くなっているかも知れない。
あれから数週間経ったけれど、静雄はまだ不安感や焦燥感でいっぱいだ。臨也が池袋に現れないことを強く願った。どんな顔をして会えば良いか分からないし、前のように接することができるか不安だ。自販機を投げたり、標識を振り上げたり、もうきっと出来ない。二人を繋ぐ縁と言う糸は、きっと切れてしまっている。
会いたいと思うことはあった。それこそ毎日毎晩、会いたかった。けれど自分勝手な思いで別れを告げて、さすがにそんな我が儘な自分は許せない。
後悔なんてずっとしている。言えば良かったのだろうか。自分の不安や焦燥を、相手に伝えられたら違ったのだろうか。
溜息が口から吐き出され、白い吐息は空へとのぼってゆく。静雄が顔を上げれば、雪は頬を掠めて落ちた。




車内のアナウンスが池袋への到着を告げ、臨也は緑色の電車から降りた。人だらけの駅を抜け、青い空が広がる街へと出る。駅の前の横断歩道を渡り、メインストリートを目指した。
ティッシュを配る人間の横を通り過ぎ、点滅し始めた信号を足早に歩く。ファストフード店を横目に見て、そう言えばもう昼だと気付いた。朝も食べていないと言うのに、腹は少しも減っていない。
時折強く吹く風に、白く小さな雪が混じっていた。どおりで寒いわけだ、と臨也は内心苦笑する。雪は綺麗だとは思うが、寒いのは苦手だ。積もることはなさそうだが、雪で電車が遅延するのは勘弁して欲しい。
池袋へ来るのは久しぶりだった。数週間では街の雰囲気は何一つ変わらない。街の雑踏も、様々な店の様子も。
来ることを避けていたわけではない。単に池袋に来る用事が特になかっただけだ。臨也はそんなことを思いながら、60階通りを一人歩く。街の様子を観察しながら、無意識に黒と白のコントラストの存在を探していた。警戒しているからか、それとも単に姿を見て安心したいのか、臨也は自分で自分の気持ちが分からない。恐らく会いたいのだろう。そう認めれば、苦笑が思わず口許に出た。
別れたい、と言われた時、臨也は驚かなかった。静雄が最近悩んでいるのを知っていたからだ。臨也は分かっていて、何も静雄にしなかった。
何か言えば良かったのだろうか。何を悩んでいたのかを、問い詰めれば良かったのか。
臨也は思う。
何か悩んでいたのなら、あちらが相談してくるべきだろう。それともそんなに自分は頼りにならないのか。
今更だ。
そう、どちらにしろもう今更だ。後悔してももう遅い。静雄は「別れ」を選び、臨也はそれを了承した。否定もせず、出て行く静雄を追い掛けもせず、ただ黙って受け入れたのだ。
臨也は高校生の頃から、静雄のことが好きだった。
初めて会った時から容姿は気に入っていたし、金の髪もとてもよく似合っていたと思う。後からそれが中学の先輩に勧められて染めたと知り、随分と嫉妬したものだ。
臨也は静雄の興味を自分に向ける為に、様々な策略や行動をした。女郎蜘蛛が糸を張り巡らせるように、ゆっくりと確実に。
結果それは成功したし、臨也は今でもそれを後悔していない。例えそれで静雄が傷付いていても。
口づけて、抱いて、儚い恋愛事を経験したのはたった数ヶ月だった。
臨也は容姿のせいかモテたので、何度も女と付き合ったことはある。相手は妄信的に自分を崇拝していたし、扱いも楽だった。相手がどんな言葉や態度が欲しいのかを、手に取るように分かっていた。
なのに、
静雄は全く読めなかった。何が欲しいのか分からず、揺れるその感情も分からない。男女の差か、とも思ったが、そうでもないらしい。分からないのは静雄だけだ。いつだって、昔から。
そして、臨也は別れて初めて気付いたことがある。これが人生初の、本当の失恋だと言うことに。
臨也は俯いていた顔を上げ、ふわふわと舞う白い雪を見詰めた。雪は先程よりも降る量が増えたが、それでも積もる程ではない。きっともう直ぐ止んでしまうだろう。だって空はこんなにも青い。
信号を渡り、車が飾られたショーウインドウを見ながら街を歩いて行く。雑踏が徐々に減って行き、道のずっとずっと向こう側に、見知った後ろ姿が見えた。金の髪に、黒と白のコントラスト。
臨也は思わず足を止める。
珍しく相手は気付いていないらしい。以前は恐ろしい程の臭覚で、自分を見つけ出していたと言うのに。意図的に遮断でもしているのだろうか。それとももうどうでもよいのか。
臨也は軽く息を吐くと、ゆっくりと静雄の方へと歩き出す。
何て話し掛けようか。頭の中には何も浮かばない。
けれど、別になんだって良い気がした。姿を見ただけで、臨也は今少し嬉しい。
ああ、そうか。
簡単なことだった。
臨也は込み上げて来る笑いを堪え、雪の中を歩く。
用もないのに池袋に来たのは、きっと会いたかったのだ。ただ単純に、それだけのことなんだろう。
無意識のうちに、臨也は早足になる。目の前の静雄の髪が風で揺れ、雪がふわりとその髪に落ちた。長身で華奢な体つき。細い肩に長い手足。臨也が気に入っていた姿。
その顔もその声も、ずっとずっと好きだった。別れを言われた今も、それは変わらない。

やがて、足音に気付いた静雄が振り返った。

(2011/01/20)
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