赤い糸






「あ、枝毛だ」
静雄の髪を弄んでいたサイケが、楽しそうな声を上げる。
鋏はどこかなあ、と部屋を探し回るサイケに、デリックは読んでいた雑誌から顔を上げた。
静雄はそんなことには気付かずに、ウトウトとソファで微睡んでいる。金の髪に白い肌。見た目はデリックと瓜二つだ。
「奥の棚にあるよ」
臨也はパソコンから目を上げもせず、鋏のありかを口にする。今日は仕事が忙しいのか、カシャカシャとキーボードを叩く音が引っ切りなしだ。
静雄がこの家にやって来てからも、臨也はパソコンにばかり向かっている。何故せっかく来た静雄を構ってやらないのだろう。デリックには全く理解不能だ。
「仕事なんだし仕方がないんじゃないの?」
デリックが愚痴っても、サイケの方は淡白だ。オリジナルである臨也の気持ちは、サイケには誰よりも分かるのだろう。サイケは基本的に臨也には文句を言わない。
「あった」
サイケが鋏を手に、嬉しそうに戻って来る。ソファに眠る静雄の傍らに跪いて、優しくその髪を撫でた。
デリックはそれを見なかった振りをして、また雑誌へ視線を戻す。
チリチリ…とまるで電子回路が焼き付きそうな嫌な感覚。この感情の名を、デリックは最近初めて知った。検索してデータをかき集め、結論を導き出す。どうやらこれは『嫉妬』と言うやつらしい。人間が抱く、一番厄介な感情だ。
「…ん、」
ソファに横たわっていた静雄が、ゆっくりと瞼を開く。元々眠りが浅かったのだろう、目が覚めてしまったらしい。
「あれ、静雄さん起きちゃったの?」
サイケが苦笑し、軽く肩を竦める。人間みたいなその態度は、まるでオリジナルの臨也みたいだ。
「サイケが煩いからだよ」
臨也は薄く笑い、モニターの隙間から静雄を見る。静雄の方は臨也を見もせずに、目を擦って大きな欠伸をひとつした。
「枝毛、分からなくなっちゃったなあ」
鋏を手に、サイケは残念そうだ。
「デリックの髪でも切ってあげたら」
臨也が言うのに、
「俺達に枝毛が出来るわけがないだろ」
と、デリックは冷たい。
作られた存在である自分たちは、成長や劣化はしないのだ。
「実は枝毛あったりして?」
サイケが後ろからデリックの髪を撫でるのに、デリックはその手を振り払う。
「やめろ」
「なに?デリックなんか冷たくない?」
「気持ち悪い」
「はあ?ちょっと酷くない?、それ」
サイケがむっとした顔になる。デリックはそれを無視して立ち上がった。
「外の空気を吸って来る」
雑誌をソファに放り投げ、逃げるようにベランダへと出て行く。サイケはそれに大袈裟に溜息を吐き、不機嫌そうに顔を逸らした。
二人の間には長く細いピンクのケーブルが繋がっていて、デリックが離れた事によって、それがピン、と伸びる。これがあるせいで、二人の行動は常に制限されていた。
デリックはベランダに出ると、大きく息を吸い込む。見上げた空は青く綺麗だ。
オリジナルである静雄が空を見るのが好きなせいか、デリックも空が好きだった。同時に静雄が田舎の空に憧れているのも知っている。いつか田舎に住みたいと願っている事も。
爽やかな風が吹いて、デリックの金の髪を揺らす。ここから見える新宿の風景は、もうすっかりデリックには見慣れたものだった。静雄が住んでいる池袋の風景も、いつか見てみたいと思う。
「どうしたの?」
窓が開き、臨也が傍にやって来る。その表情は何か面白がっているようで、デリックはあまり好きではない。臨也の顔はサイケと同じようで、全く違う顔だ。
「別に」
「はっきり言えばいいのに」
臨也はベランダの手摺りに手をついて、デリックの顔を覗き込む。
「俺以外に触るなってさ」
「…っ、」
その言葉に、デリックはきつく臨也を睨みつける。どんなに怒りや憤りを覚えても、マスターである臨也にはデリックは逆らえない。
「まあ言えるわけないか。シズちゃんなら言わないし」
君はシズちゃんと全く同じだからね。
臨也は苦笑するようにそう言い、チラリと部屋の中を見遣る。するとこちらを見ていただろう静雄が、すっと顔を背けた。サイケの方はこちらをまだ睨んでいて、デリックと目が合うと口端を吊り上げて笑う。
「俺が気付いているんだからサイケも多分気付いているよ」
くっくっ、とくぐもった笑い声を上げて、臨也は顔を伏せる。何がそんなに可笑しいのだろう。デリックにはさっぱり分からない。
「サイケは意地悪だよねえ」
「俺には意味が分からねえよ」
「うん、君はまだ分からなくていい」
臨也は大袈裟に両腕を広げ、部屋へと戻って行く。
「これ以上は教えない。俺も意地悪だからね」
そう言い残し、臨也は笑って窓を閉めた。デリックはそれに眉を顰め、部屋の中を様子を見遣る。
部屋の中では臨也が、静雄の耳元に何かを囁いているところだった。何を言われたのか、静雄の顔が瞬時に朱に染まる。照れているのか怒りの為か、デリックには判断がつかない。
サイケはそんな二人をつまらなそうに見遣り、弄んでいたピンクのケーブルを引っ張る。ツン、とデリックのヘッドフォンがそれに引き寄せられ、慌てて手で押さえた。『早く戻って来い』と言うことなのだろう。
誰が戻るか。
デリックは小さく舌打ちし、ヘッドフォンに繋がったケーブルを引っこ抜く。視界に赤い文字で警告が出たけれど、デリックはそのウィンドウを即座に閉じた。
「あ、外されちゃった」
当然サイケの視界にも同じ警告のウィンドウが出る。うんざりしたようにそう呟き、手で弄んでいたケーブルを引き寄せた。
「あまり意地悪しない方がいんじゃない」
静雄の髪を優しく梳いていた臨也が、赤いその目を細めて笑う。
「意地っ張りだからさ、彼は」
シズちゃんみたいに。
と言う言葉は飲み込む。聞かれたら間違いなく、静雄は臍を曲げるだろう。
静雄は暫く臨也の好きにさせていたが、やがてちらりとベランダへと視線を向ける。
「俺があいつを連れて帰る」
「え?」
静雄のこの言葉に、サイケが目を丸くした。
「お前ら少し離れてみればいんじゃねえ?」
臨也の手から逃れ、静雄はソファから立ち上がる。
「あいつ、前に池袋を見たがってたし」
「帰るの?」
眉間に皺を寄せ、臨也が不服そうな声を出す。静雄はそれに口角を吊り上げて笑って見せた。
「手前はパソコンの方が好きみてえだしな?」
どうやらずっと仕事ばかりしていた臨也を怒っているらしい。
静雄はさっさと窓へと近付き、ベランダへと出て行った。そんな静雄をデリックは驚いて迎える。
「…臨也さんのせいだから」
「何が?サイケがデリックに意地悪ばかりするからだろう?」
不機嫌な顔のサイケに、同じく不機嫌な顔の臨也が答えた。同じ顔の二人が全く同じ表情をしている姿は、傍から見てとても奇妙だった。
「臨也さんが静雄さんをちゃんと構ってやらないからじゃないの?」
ピンクのケーブルを指に巻き取って、サイケは忌ま忌ましげに吐き捨てる。デリックによって外されたそのケーブルは、何だか酷く冷たく感じた。
「君がわざとデリックにヤキモチを妬かせるからじゃないのかな」
臨也はやれやれと言った風に溜息を吐く。頭の中では静雄の機嫌を取るにはどうするかを考えていた。
「だって可愛いだろう?ヤキモチを焼くデリックは」
そう言ってサイケは、低く笑い声を上げる。その表情は酷く楽しげで、臨也は自分と同じその顔に苦笑した。
「でもあまりシズちゃんに触らないで貰えるかな?」
あれは俺のだから。
臨也はにっこりとサイケに笑って見せる。けれどその赤い目は少しも笑っておらず、サイケはそれに黙り込んだ。
その時、窓が開かれて中に静雄とデリックに入って来る。静雄の右手はデリックの手を掴んでおり、それはまるで保護者みたいだった。
「んじゃあ、俺はこいつ連れて帰るわ」
臨也の返事を聞く前に、静雄はデリックの手を引いて部屋を出て行こうとする。
それにサイケが慌てたように立ち上がり、空いたデリックの片手を掴んだ。
「待ってよ。デリック連れて行かれるのは困る」
「何でだよ」
その言葉に静雄は首を傾げ、デリックは驚いたようにサイケを見遣る。三人のその様子を、臨也はソファに座って黙って見ていた。
「デリックは俺のだから」
サイケは真顔でそう告げる。
「静雄さんには好きにさせない。これは俺のだよ」
そう言ってサイケは、デリックの体を自分の方へと引っ張った。腕を引かれ、抱き寄せられて、デリックの目が更に丸くなる。
「そうか」
静雄はそれに頷いて笑い、素直にデリックの手を離す。
「じゃあ仕方ねえな」
「おいで」
サイケはデリックの体を抱き締めたまま、ソファへと腰掛けた。膝上にデリックを座らせて、その肩口に顎を乗せる。
「デリックはずっと俺と一緒だろう?」
耳元にそう囁いて、サイケはデリックのヘッドフォンに触れた。手にしていたケーブルを、ゆっくりと差込口に挿入する。ネットワークケーブルが接続されましたと、互いの視界にウィンドウが表示された。
デリックはそれに頬を赤らめると、何か小さく悪態を吐く。それは静雄と臨也には聴こえなかったが、サイケには聴こえたようだ。片眉を吊り上げ、口端を歪めて、声を上げて笑った。
静雄はそんな二人を見て軽く肩を竦めると、部屋を出て行く。
玄関まで歩み、扉に手を掛けたところで、後ろから伸びて来た腕に抱き締められた。静雄はそれに驚き、目を見開く。
「本当に帰るの?」
背中越しに触れる臨也の吐息は、静雄の首筋に酷く熱く感じた。
「わざとデリックを連れて行くなんて言ったんだろう?」
臨也の前髪が、静雄の首筋を撫でる。静雄はそれに僅かに体を震わせた。
「…サイケが絶対に止めると思ったからな」
「そう」
臨也は微かに笑い、静雄の体を自分の方へと振り向かせる。赤い瞳が真っ直ぐに自分を見るのに、静雄の鼓動が跳ねた。
「帰らないでよ」
臨也の声は真摯だ。
「お前、仕事は」
「どうでもいい」
臨也の手がゆっくりと静雄の髪を撫でる。その手はサイケよりも、酷く優しい。
「俺とシズちゃんも、あの二人みたいにケーブルで繋がれたらいいのに」
「なんだよそれ」
茶化したような臨也の言葉に、静雄は頬を赤らめた。
「一生離れられない鎖とかさ」
臨也は笑い、静雄の頬に口づける。鼻先、額、髪にまで口づけて、そのまま腰を抱き寄せた。
「ああ、でも俺とシズちゃんには糸が繋がっているもんね」
「糸?」
臨也の背中に腕を回し、静雄は首を傾げる。さらりと金の髪が揺れ、臨也と同じシャンプーの香りがした。
「そう。赤い糸とかね」
臨也はそう静雄の耳に囁くと、声を上げて笑う。
静雄はその言葉に目を見開き、頬を赤く染めて小さく悪態を吐いた。先程のデリックと同じように。


(2011/01/07)
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