「いつからそうしていたの」
声は頭上から降って来る。静雄はそれに小さく舌打ちし、ゆっくりと顔を上げた。
臨也はいつもの真っ黒な服装に、真っ青なマフラーをして静雄を見下ろしていた。
「いくら君が規格外の体でも、風邪は引くんじゃないのかな」
臨也はその綺麗な顔に笑みを作り、静雄の傍らにしゃがみ込む。
「お前には関係ねえだろ」
対する静雄の言葉は素っ気ない。冷たい潮風が吹いて、静雄の金髪が揺れる。
「わざわざ迎えに来たのに、酷い言い草だ」
ははっ、とわざとらしく笑い声を上げて、臨也は静雄の片手を掴む。
それに驚いて静雄は手を引いたが、逆に臨也の手に強く握り締められる。
「手が冷たいね」
そう言って臨也は手を離し、今度は頬に両手を触れて来る。
「顔も氷みたいだ」
「……」
触れられた箇所が熱くて、静雄は思わず目を伏せた。
臨也は穏やかに目を細め、自身のマフラーを外す。そしてそのまま静雄の首にそれを巻いてやった。あの時のように。
「シズちゃんは寒がりなのに薄着なんだよね」
「…別に」
無愛想な静雄を気にすることもなく、臨也は再び静雄の手を掴む。
「ねえ、シズちゃん」
触れる臨也の手は温かい。
「俺にわざと痕を残しただろう?」
首筋に、鬱血した赤い痕を。
それはきっと、数日は消えない。
臨也は普段、Vネックの衣服を身につけている。首の赤い痕は、そのせいで酷く目立つだろう。特に臨也の白い肌には。
静雄は伏せていた目を上げ、臨也の赤い目を見返した。
臨也は静雄と目が合うと、酷く楽しそうに口端を吊り上げる。
「お陰で修羅場ったよ。女ってのはそう言うのに敏感だからね」
「…隠さないお前が悪い」
静雄の声は低く、微妙に掠れ気味だった。マフラーと握られた手のせいで、少しずつ体の体温が戻ってゆく。
「まあね。お陰で簡単に別れられたからいいけど」
臨也は何でもない事のようにそう言って、静雄の耳元に唇を近づける。
「君の望み通りに」
この言葉に、静雄は軽く息を呑んだ。臨也にはちゃんと分かっていて、わざと痕を隠さなかったのだろう。
本当に嫌な性格をしている。この男は。
臨也の柔らかな唇が、静雄の耳から頬へと移動する。熱いその唇の温度に、静雄はぞくっと肌が粟立った。
「さあ。次はどうして欲しい?シズちゃんが望む事を何でも叶えてあげる」
頬に優しく口づけられ、額にもキスが降って来る。瞼の上にも唇が掠めて行った。
「…臨也」
静雄はそっと、臨也の名前を呼ぶ。
ずっと気になっていた事があった。六年前の、あの時から。
ひょっとして。もしかしたら、と。ずっと思っていた事だ。
「お前、あの時わざと負けたのか」
新羅との、賭けのゲームに。
静雄の問いに、臨也は僅かに目を見開いた。だけど直ぐにその表情は霧散して、表面にはいつもの笑みを浮かべる。
「…だったら?」
「何でだよ」
あんな、馬鹿馬鹿しい恋人ごっこなんか。
大嫌いな相手と分かっていて、どうして。
臨也はそれに喉奥で笑い、ゆっくりと静雄から体を離した。
「面白そうだったから」
赤いその目は揶揄するように静雄を見詰めて来る。静雄はそれに、ちっと舌打ちをして目を逸らした。ズキズキと心臓が痛い。
「俺の高校生活はシズちゃんのせいで最悪だったよ。君はことごとく俺の邪魔をして来るし…まあわざとじゃないにしろね?大体俺には人間を超越した君との喧嘩は、かなり疲労困憊して厄介だったんだ」
「…お互い様だろうが」
静雄は悪態を吐き、立ち上がる。もう聞いていたくなかった。心臓がズキズキと痛むせいで息が苦しい。
「まあ最後まで聞きなよ」
臨也がその腕を掴む。その手の力は意外に強くて、静雄はそれに少し驚いた。
「だから一週間だけでも停戦は助かったよ。思いの外悪くなかった一週間だったしね。お陰で俺の高校生活三年間は、その一週間だけは楽しかった」
臨也は静雄の腕を掴んだまま、ゆっくりと立ち上がる。静雄は目を見開いたまま、そんな臨也を見ていた。
「でも代償はでかかった。俺はその一週間が忘れられなくなってしまって、それより以前の君への接し方が分からなくなってしまった」
自嘲するようにそう言って、臨也は静雄の腕を離す。
静雄はそんな臨也を見詰めたまま動かない。
「忘れようとしたけどなかなか出来なかった。他の下らない出来事はどんどん風化してゆくのに、たった一週間が忘れられないんだ。そしてそれは君も同じだったろう?」
臨也の言葉は問いではなく、確認だった。静雄はそれには答えず、僅かに目を伏せる。自身の手が寒さのせいではなく、微かに震えているのが分かった。
「シズちゃんが指輪をしているのを見た時は驚いた」
ははっ、と笑い声を上げて臨也は肩を竦める。
「お陰でごまかせないってのを自覚したけどね」
ごまかせない、と言った臨也の言葉に、静雄は顔を上げた。
「ごまかせないって、何がだ」
「言っただろう?シズちゃんはたかが恋人ごっこで、大嫌いな男に抱かれたりなんかしない」
臨也の手が伸びて来て、静雄の頬に触れる。涙なんて零れていないのに、まるで涙の跡を辿るように指先が通って行った。
「本当は分かっていたんだろう?俺にこんな痕まで残して」
臨也は口端を吊り上げて笑い、不意に静雄の腰を抱き寄せる。
「何が、」
静雄はそれに頬を赤く染め、臨也の腕の中で身を捩った。いつの間にか心臓は痛みではなく、バクバクと激しい鼓動を訴える。

「君は俺が好きなんだよ」

低い声色でそう耳元に囁かれ、静雄は体の動きをぴたりと止めた。
「そして俺も君が好きなんだ」
臨也の温かく華奢な手が、優しく静雄の頭を撫でる。まるで子供を宥めすかすかのように。
静雄は臨也の言葉を否定しなかった。いや、できなかった。ただ体の力を抜いて、抱き締めて来る臨也の腕に体を預ける。
潮騒がざあざあと煩い。夜空には星がどんどん増えてゆく。芯まで冷えていた静雄の体は、いつの間にかもう温かくなっている。
鼻の奥が少しだけツン、となって、静雄は泣くんじゃないかとさえ思った。理由なんて分からないけれど。
「シズちゃんにプレゼントがあるんだよ」
臨也は抱き締めていた体を離すと、それをポケットから取り出した。
なんだろう、と静雄が目線を下げれば、臨也の手の平にはシルバーリングが握られている。
「これ…」
「サイズ直して貰った」
シズちゃん、高校生の時より成長したんだね。
なんて笑って、臨也は静雄の左手を掴む。
「嵌めてあげるよ」
まだ少しだけ冷たい静雄の薬指に、臨也はそう言ってゆっくりとリングを嵌めた。
「結婚式みたいだねえ」
笑って言う臨也の言葉は、あの時と同じ。
静雄はそれに驚いて目を見丸くするが、臨也はそれに穏やかに笑い返す。
更にポケットからもう一つリングを取り出して、静雄へと手渡した。
「俺にも嵌めてくれる?」
静雄は臨也のその言葉に、赤くなって舌打ちをした。恥ずかしさで顔が熱い。
それでも渋々と臨也の左手を取り、薬指にそれを嵌めてやる。静雄の指先は微かに震えていて、きっと臨也もそれは気付いているだろう。
「今度は外さないでね」
臨也は指輪が嵌まったその左手で、まだ冷たい静雄の頬を撫ぜる。
「もう期間限定じゃないんだから」
「…お前もな」
静雄は囁くようにそう答え、ゆっくりと目を閉じた。少しだけ乾いたその唇に、温かい臨也の吐息が触れる。

「死が二人を別つまでね」

それは触れるだけの、優しいキスだった。


(2010/12/06)

見れない方がいたので修正(2010/12/09)
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