「外してあげたのに酷いなあ…」
臨也の声は微かに笑いを含んでいる。語尾を少しだけ伸ばした、いつも臨也の口調。
「礼は言っただろ」
ちっ、と舌打ちをして静雄は顔を上げる。すると、臨也の顔が思っていたよりも近くにあって驚いた。
「俺もその指輪持ってるんだよ。…偶然だね?」
臨也は口角を吊り上げて、静雄の顔を見上げて来る。「どこで買ったの?」
「…どこだっていいだろ」
静雄は動揺し、再び臨也から目を逸らした。手の平に握った指輪が熱く感じる。
「池袋のアクセサリーショップかな。ほら、60階通りを抜けたとこにある」
「…覚えてねえよ」
静雄が素っ気なく返しても、臨也は尚もベラベラと話し出す。
「俺もその指輪は結構気に入ってるんだ。それペアリングになっているんだよねえ」
「さあ」
静雄は返事もおざなりに、さっさと洗面所を出ようとした。もうこれ以上、臨也の話し相手はごめんだった。
「シズちゃんの指のサイズは、俺と同じだったよね」
後ろから掛かる臨也の声。
静雄はそれに、ぴたりと足を止めた。
「あの時あげた指輪、まだ持ってたんだ」
臨也の言葉に、ズキンと静雄の心臓が痛む。そしてその心臓が、急に早鐘を打ち始めた。
…ああ、クソ。本当に最悪だ。何故こんな指輪を今更嵌めてしまったのだろう。ただの気まぐれだったのに、なんでこんなことに。
「忘れていると思ってた?いや、忘れてて欲しかったのかな?」
臨也の声は笑いを含んでいる。揶揄するように。
静雄はそれにちっと舌を打ち、息を大きく吸い込んでから振り返った。
「手前もう帰れよ」
「何故かな?そんなにあの時の話をされるのが嫌?」
臨也の赤い目は意外にも笑ってはいない。その目はただ真っ直ぐにこちらを見ていて、静雄はそれに少したじろいだ。
「…思い出したくねえ」
静雄はそう言って、青いサングラス越しに臨也を睨み付ける。臨也はそんな静雄の睨みを受け流し、軽く肩を竦めた。
「思い出したくないのに指輪を嵌めてみたの?俺には分からない心理だな」
「そんなんじゃねえよ」
静雄には否定の言葉を口にするしかできない。怒りよりも動揺が勝っていて、自身の言葉に力がないのは分かっていた。
「思い出したくないってのは分かるけどね。だってシズちゃんは、」
臨也は静雄へと一歩近付いた。びくっと身構える静雄の肩を掴み、その耳元に唇を寄せる。
「大嫌いな男に抱かれたんだから」
その言葉に静雄は、反射的に拳が出た。しかし殴ろうとした手は空を切り、臨也によってその手首を掴まれる。
「危ないなあ。自分の家でも暴れちゃうんだねえ、シズちゃんは」
「死ね」
静雄は臨也を睨みつけ、その端正な顔に唾を吐く。臨也はそれに不快そうに眉を寄せ、手の甲で顔を拭った。
「下品だな」
「もう帰れ。殺すぞ」
「シズちゃんが俺を殺せないのは知ってるよ」
臨也は拭った手の甲に舌を這わせ、唇を歪めて静雄を見上げる。
「シズちゃんの味がする」
「……」
そんな臨也を、静雄は怯えたように見つめ返した。臨也の言動ひとつひとつが理解できない。抱いた怒りが急速に冷えて行く。無意識に体は後退るが、臨也に手首を掴まれたままだ。
臨也はそんな静雄の手首を引いて、そのまま緩く体を抱き寄せた。静雄の目が驚きで丸くなる。雨に濡れた互いの体が冷たい。
「なんでその指輪を今更嵌めたりなんかしたの?」
直接耳に聴こえる臨也の声は、低く掠れていた。
静雄は困惑し、手の平の指輪を握り締める。それはとても脆くて、あっという間に壊れてしまいそうだ。
「…臨也?」
「六年も経ってさ、なんで今更…」
抱きしめられているせいで互いの顔は見えない。けれど臨也のその声は、なんだか少し辛そうだった。悲しげな、切ない声。
こんな臨也を、静雄は初めて見た気がした。いつもの厭味はなく、余裕ぶった態度でもない。こんな臨也を、静雄は知らない。
これではまるで、そう、あの時の臨也みたいだった。たった一週間だけの、あの時の。
「シズちゃん」
体を離し、臨也が静雄の顔を覗き込んで来る。サングラスを外され、赤いその目と静雄の目が合った。
「抱かせて」
「…なに、」
言われた言葉の意味が理解できず、静雄は目を見開く。
何を馬鹿なことを。
そう思うのに、否定の言葉は何故か口から出て来なかった。
臨也の赤い目は真摯で、静雄はそれに何も言えなくなる。
「おいで」
臨也は静雄の手を引いて歩き出した。強引に体を引き寄せられ、ベッドがある部屋に連れ込まれる。
手を離されたと思ったら、そのまま肩を押されてベッドに押し倒された。
「いざ、」
や、と名を呼ぼうとした唇は、噛み付かれるように塞がれた。静雄は驚いて身を捩るが、臨也の手はきつく静雄の手首を掴んで離さない。
薄い唇を割って、舌が入り込んで来た。まるで生き物みたいなそれは、静雄の口腔を緩く深く犯してゆく。
「…んっ」
鼻から抜けるような甘ったるい声が漏れ、静雄は羞恥にさっと赤くなる。臨也の両手が静雄の頬を掴み、更に口づけが深くなった。
濡れた前髪からぽたりと雫が垂れ、静雄の目許を流れててゆく。まるでそれは涙みたいだ。
唇は一度離れてはまた口づけられる。角度を変え、何度も何度も唇は重ねられた。唾液を流し込まれ、飲みきれなかったのものは顎を伝ってシーツを汚す。静雄は徐々に力が抜けて行き、手に握り締めていた指輪がベッドから転がった。
臨也の手はいつの間にか手首から離れ、静雄のワイシャツを脱がせてゆく。真っ白なそれは雨に濡れた為、幾分肌が透けて見えている。前のボタンを外し、冷たい首筋に手を這わせると、ぴくっと静雄の体が震えた。
「やめろ」
唇を離し、臨也の手を掴む。そんな静雄の手は、目に見えて震えていた。
「何故?」
臨也の手が優しく静雄の髪を撫でる。濡れた前髪をかき上げて、顕わになった額に口づけた。
「何故ってお前…」
こんなことは、好きな奴同士がやることだ。
静雄は臨也から目を逸らし、唇を噛み締める。
「一度抱かれたじゃない、シズちゃんは」
臨也は言いながら、静雄のベルトの金具を外した。カチャリ、と金属の音が響く。しゅるっとベルトを引き抜く音も。
「あれは、」
「一週間だけの恋人だったから?」
顎を掴まれ、無理矢理視線を合わされた。臨也の赤い目が、じっと静雄を見下ろしている。
「本当にそう思っているの?」
臨也の冷たい指先が、静雄の唇に触れた。顔を近づけて、下唇をべろりと舐める。
「シズちゃんはたかが恋人ごっこで、男に抱かれたりしちゃうタイプだったわけ?」
「…んなわけ、ねえだろ…」
静雄は擽ったさに身を捩った。臨也はそれに喉奥で笑い、唇を優しく瞼に落とす。赤く、温かいその舌で、静雄の眼球をぬるりと舐めた。舌先で瞼の内側を突くのに、静雄の目からは生理的な涙が零れ落ちる。
「…や…っ、いざ…」
静雄が臨也の体を押し返すのと、唇が離れたのは同時だった。
「取り敢えず今は何も考えなくていい」
臨也の手がジッパーを下ろすのに、静雄は何も抵抗しない。ただ潤んだ目で、赤いその瞳を見つめ返した。
「俺はシズちゃんが欲しい。だから、」
シズちゃんも今は俺の事だけを、

そう囁いた臨也の唇は、再び静雄の唇を優しく塞ぐ。啄むような柔らかなキスに、静雄はくらりと眩暈がした。
なんで、
どうして、
だってお前は、
ちゃんと恋人がいるじゃないか。
そう思うのに、静雄は抗えなかった。
臨也の手が、静雄の衣服を全て剥ぎ取ってゆく。優しい口づけも熱い吐息も、あの時のまま。
静雄にはそんな臨也の手を払いのける事なんて出来なかった。
だってずっとずっと、忘れられなかったから。六年間、ずっとずっと。この季節になると思い出していた。
繋いだ手の温もりも、キスの柔らかさも、あの海の波の音さえ。
ずっとずっと。
指輪を嵌めてみようと考えたのも、その指輪が抜けなくなったのも、ひょっとして運命なんだろうか。
静雄は目を閉じる。
ひょっとしたら、あの時からもうずっと、自分は臨也のことが、


耳を澄ませば、波の音が聴こえた気がした。



(2010/12/03)

見れない方がいたので修正(2010/12/09)
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