天気が良かった筈の空は、いつの間にか雨が降り始めていた。
ぽつ、ぽつ、とアスファルトに黒い染みが出来ていく。化学反応で甘ったるい嫌な臭いがして、静雄はそれがあまり好きではない。
家に着く頃には衣服は既にびしょ濡れで、金の髪も色濃くなっていた。
ずぶ濡れのまま家に入り、静雄は真っ先に薬指の包帯を取る。包帯も雨のせいでずぶ濡れだ。
濡れて重くなったベストを脱ぎ、鬱陶しげに前髪をかき上げる。ぽた、とフローリングに雫が垂れたけれど、床が濡れるなんて今更だ。
指輪はまだキッチリと指に食い込んでいて、抜ける気配は微塵もない。
静雄は指輪を壊さないように加減しながら、それを引き抜こうとする。けれどその行為は指が赤く腫れるだけで、寧ろ酷くなる一方だった。
ああ、もう。
なんでこんな物を嵌めてしまったのだろう。
感傷に浸ってしまったからか、親友から指輪の話しなんて聞いて。
静雄は頭を抱え、溜息を吐く。濡れた衣服がどんどん体温を奪って行くけれど、全く気にならなかった。
その時不意に、ぶるっとポケットの中の携帯が震えた。静雄はそれに少し驚く。
濡れた手で携帯を開くと、見知らぬ番号からの通知。不審に思いながらも電話に出る。知らない番号なんて、嫌な予感しかしない。
「…はい」
『やあ』
聴こえてきた知った声に驚き、静雄は思わず携帯を落としそうになった。
「手前…」
『何で番号知ってるかって?まあそこは情報屋さんだから』
臨也の笑い声が耳に直接響く。からかうような、嫌な笑い方だ。
「なんの用だよ」
静雄は握り締めた携帯を、怒りで壊さないようにするのが精一杯だ。ミシッと携帯が嫌な音を立てる。
『そんな怒ることないだろう?その左手で持った携帯が壊れちゃうよ』
「余計なお世話だ」
口にしてから、静雄ははっとした。何故左手で持っていると分かったのだろう。
こんな、自宅の中で。
まさか、

「『怪我じゃなかったんだね』」

声は携帯と同時に、後ろからも聴こえて来た。
静雄はそれに驚き、心臓がドキリと音を立てる。手にしていた携帯を下ろし、恐る恐る後ろを振り返った。
そこにはずぶ濡れの男が携帯を持って立っていた。
上から下まで真っ黒な色彩。手にしている携帯さえも真っ黒だ。濡れた漆黒の髪からは、ポタポタと雫が落ちている。その顔には珍しく笑みはなく、ただ無表情だった。
「…何で手前がここにいる」
静雄は携帯を持ったままの左手を後ろに隠し、臨也をサングラス越しに睨みつける。
臨也はその綺麗な形の唇を歪め、一歩、また一歩と静雄に近付いてきた。コツン、コツン、と靴音が部屋に響く。
「あんな逃げ方されたら気にもなるさ」
「不法侵入だろ」
「鍵が開いていたんでね」
臨也は揶揄を含んだ声でそう言い、視線を静雄が隠した後ろ手に向ける。
「指、見せてみなよ」
「……」
静雄はそれには答えず、視線を逸らした。もうここまで来たら諦めるしかない。臨也は強引でしつこい質だ。このまま黙って帰ったりはしないだろう。
臨也の手が静雄の左腕を掴む。それに静雄は一瞬身構えたが、結局臨也の好きにさせた。
臨也は静雄の手から携帯を取り上げ、薬指に嵌まった指輪を見る。その赤い双眸が僅かに細まるのに、静雄は内心びくついた。
忘れてればいい。
こんな、一日しか嵌めなかった指輪のことなんて、忘れていればいい。
覚えている筈はないだろう。だってもう六年も経つのだ。他の色んな女とごっちゃになって、記憶が曖昧な筈だ。
そう思うのに、実際臨也が忘れていたらきっと自分は傷付くだろうと思っていた。自分だけが過去に囚われていて、それは酷く滑稽に感じた。
「抜けなくなったの?」
「……」
静雄は答えない。
「外してあげるよ」
臨也は指輪については何も言わず、静雄の手を取って歩き出した。どこへ行くのかと思えば、どうやら洗面所らしい。
蛇口を捻り、水を出す。脇に置いてある固形石鹸を手にし、臨也はそれを泡立て始めた。
「貸して」
静雄の左手を取り、薬指に泡をつける。ぬるぬるとした泡のせいで、指輪が僅かに緩んでいく。静雄はそれに目を丸くした。
「これで外れなきゃ糸を使おう」
臨也は言いながら、するりと静雄の指から指輪を引き抜いた。意外にもあっさりとそれは外れ、静雄は面食らう。
「抜けたね」
臨也は静かで感情が篭らない声で言い、泡だらけの指輪と静雄の手を洗ってやった。
「…サンキュ」
ボソボソと低い声で、静雄は礼を言う。礼何て言いたくはなかったけれど、他に言う言葉が見つからなかった。
はい、と臨也が指輪を差し出して来るのに、静雄は黙ってそれを受け取る。銀色に鈍く光るそれは、何だかとても物悲しい。
「サイズが合わないなら直して貰えるよ」
この指輪の事を覚えているのかどうなのか、臨也はそんな事を言う。静雄はそれに黙って首を振った。もう二度と嵌めることはないだろうから、サイズ何てどうでも良かった。
ぽた、と静雄の前髪から雫が落ちる。床に染みが出来るのを、静雄はただ俯いて見ていた。この会話のない静かな時間が苦しい。
やはり、臨也は覚えていないのだろうと思う。六年という年月は長い。それも嵌めていたのはたった数時間だったのだ。覚えている方が無理かも知れない。
「…もう帰れよ」
早くこの場から臨也がいなくなればいい。
静雄は俯きながら、ぶっきらぼうにそう口にした。



(2010/12/03)

見れない方がいたので修正(2010/12/09)
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