7daysの続き




誰でも生きてれば後悔していることや、忘れたい過去はあるだろう。
静雄の場合はそれは高校時代に尽きる。まず来神高校に入ったのは失敗だったと思っている。もしこの世にタイムマシーンがあるのなら、過去に戻って違う高校を選びたいぐらいだ。なぜなら高校入学のその日、静雄は人生で一番最悪な出会いをした。折原臨也との出会い。会ったその日に殺し合いをしたのだから、生涯忘れられない出会いだろう。静雄が来神高校に入らなければ、きっと出会わずに済んだ筈なのに。
なんて思いつつも、池袋にいる限り、いつか出会っていたかも知れない。だからひょっとしたら必然だったのだろうか、なんて最近思うのだ。まさに運命だったのかも知れない。神様はいつだって残酷だから。
忘れたい過去は、その相手と一週間だけ付き合っていたと言う事実。静雄の人生で唯一の黒歴史。忘れたくても忘れられない過去だ。
多分、相手にとっても黒歴史なのだろう。高校三年生だったあの頃から六年近く経つけれど、あの男は一度もそれを口にしたことがない。静雄が嫌がる事は何でもやるあの男が、だ。
とは言ってもたった一週間の事だったし、覚えてないだけかも知れなかった。折原臨也は女関係も派手だったし、他の女と記憶がごちゃまぜになっている可能性はある。
ああ、もう。こんな風に考えるだけで静雄には不快だ。思い出したくない。記憶からなくなってしまえ。全く、何であの時あんな、

『静雄』

肩を叩かれ、はっとした。

顔を上げれば、親友が心配そうに覗き込んで来る。
『大丈夫か?』
「ああ、悪い…ちょっと考え事をしてた」
静雄は軽く頭を振り、セルティに笑って見せた。
何故急に高校時代を思い出したのだろう。さっき来良のカップルを見たせいだろうか。静雄はそれ以上考えるのをやめ、空を見上げる。
茜色の空。空に浮かぶ雲は夕陽が反射してうっすらとピンク色だ。
人が殆どいない池袋公園のベンチ。夕陽で出来た二人の影が長い。静雄の金の髪がオレンジ色に染まっている。
親友との付き合いももう八年が経った。今では新羅がいなくても会うのが普通になっている。いつも怒りで苛々とする自分が、穏やかに過ごせる数少ない相手だ。彼女は静雄を怒らせる言動をしないから。
ふと、セルティの指に指輪が嵌められていることに気付いた。小さくて可愛らしい金のリング。それは彼女の白い指にとても良く映えている。
彼女がアクセサリーを身につけているのは珍しく、静雄はついじっと見てしまった。
『ああ、これか』
静雄の視線に気付いたのだろう、セルティが恥ずかしそうに肩を竦める。
『新羅から貰ったんだ』
「…へえ、あいつが…」
静雄はぼんやりと脳裏に旧友を思い起こした。
小学生の頃の友人である新羅が、ずっとセルティに恋い焦がれていたのは知っている。高校時代の新羅の会話は殆どがセルティに関するものだった。
「良かったな」
静雄が心からそう言うと、セルティはとても嬉しそうにした。顔はないけれど静雄にはそれが分かる。付き合いが長いせいかも知れないし、静雄の感覚が鋭いせいなのかも知れない。
『静雄はアクセサリーはしないのだな』
「ん?」
『ピアスや指輪や…している男もいるだろう?』
セルティは多分、臨也を思い浮かべて言ってるのだろう。けれど静雄の前では決してその名前は出さなかった。
「邪魔くせえし、柄じゃねえよ」
静雄は笑って煙草を燻らせる。赤い薄い唇から、白い紫煙を吐き出した。
ひとつだけ指輪は持っているけど。
とは心の中で。
あの指輪はどこへやっただろう。
ぼんやりと形を思い浮かべる。ひょっとしたら捨てたかも知れない。今の静雄にはどうでもいい物だったから。
いや、嘘だ。
静雄は内心自嘲する。
捨てるわけがない。きっとどこかにあるだろう。ああ言うものを捨てられない自分の弱さを、静雄は自覚していた。
あれから六年近くも経つのに、静雄は未だにあの一週間が忘れられない。きっと相手は忘れているに違いないのに。
『寒くなって来たな』
再び黙り込んだ静雄に、親友が優しく声を掛ける。静雄はそれに、穏やかに笑う。
はあっと吐く息が白い。ふわりとそれは舞い上がり、空へと溶けて消える。
ああ、そうだ。あれもこんな季節だった。秋が深まって、冬が近付いて来た時期。今みたいに、吐く息が白かった。
なんだろう、今日はやけにあの頃を思い出す。空が赤いせいだろうか。
「そろそろ帰ろうか」
冷たい木枯らしが吹いて、静雄の金の髪を揺らす。くしゃくしゃに乾いた枯れ葉が、足元を駆けて行った。
『風邪をひくなよ』
セルティはそう言って笑う。頭があったなら、きっとその表情は優しく微笑んでいるのだろう。
静雄はそれに、うん、と素直に頷いた。
もうすぐ秋が終わり、冬がやって来る。そうすればきっと、こんな風に思い出さなくなるだろう。人と言う生き物は、時が経てば忘れてゆくのだ。まるで最初から無かったことのように。
静雄はそれがなんだか悲しかった。




静雄は部屋にテレビがない。理不尽なニュースが流れると反射的に壊してしまうからだ。弟の姿は見たいけれど、ドラマもあまり好きではなかった。
テレビもゲームも、パソコンもない。必要最低限な家具と家電だけ。静雄はそんな質素な部屋に暮らしている。静雄にとって、家はただの睡眠の場所だ。
風呂から上がり、濡れた髪の毛を乱暴に拭く。ぽたぽたと雫が床に落ちるけれど全く気にしていなかった。
冷蔵庫から牛乳を取り出し、パックのまま飲む。毎日牛乳だけは欠かさずに飲んでいた。だから怒りやすいのはカルシウムが足りないせいだなんて、迷信じゃないかと思っている。
静雄はふと、指輪の事を思い出した。
あれはどこにやっただろう。恐らく実家から持って来ている筈だから、押し入れにあるかも知れない。
静雄は髪をゴシゴシと拭きながら、押し入れを開いて見た。中は少しだけ埃っぽい匂いがする。
ダンボールを出して中を開けば、それは案外簡単に見付かった。元々静雄の荷物自体が少ないせいだろう。
押し入れのずっとずっと奥に、小さな箱に入って仕舞われていた。
大切に、と言うよりは、思い出したくないから奥に入れていた気がする。
箱を開き中を見ると、それはあの時のまま銀色に輝いていた。確か結構な値段だった気がする。あの男はこう言うくだらないものに金をかけるタイプなのだろう。
箱から取り出して手にすると、それは酷く冷たかった。試しに左手の薬指に嵌めてみると、それはぴったりと指に嵌まる。六年も経つのに、指のサイズは変わっていないらしい。
静雄は手の平を天に翳し、銀色のそれに目を細めた。
こんな風に指輪を眺めたり出来るくらいには、自分はもう平気になったのだろうか。忘れたいとは今も思っているけれど、もう胸は痛まない。
静雄はなんだかそれが、酷く他人事な気がした。
時が経てば感情は風化する。嫌なことも良いことも、ただの思い出になってしまう。
静雄はタオルをカゴに放り投げ、ベッドに寝転がった。
こうして指輪を見ていると、また高校の頃を思い出す。
記憶の大半は喧嘩で、穏やかだった日々なんて数える程しかない。その中でもあの一週間は特殊で、今でもはっきりと思い出すことができた。あの男の青いマフラーや香水の香り、繋いだ手の温もりまで。
静雄はぼんやりとそれらを呼び起こしながら、うとうとと微睡み始める。
朝の冷たい空気、夕方の赤い空、波の音。
あの日、静雄は臨也と眠った。同じベッドの中で。
静雄は段々と夢うつつになる。
耳元に波の音が響く。あの海の匂い。
それらをぼんやりと思い出しながら、静雄はやがて眠りについた。



「で、抜けなくなっちゃったの」
目の前の不機嫌な顔の友人に、新羅はぷっと吹き出した。
平日の昼下がり。いつものようにここは新羅のマンションだ。
「笑い事じゃねえよ」
静雄はそんな新羅をギロリと睨みつける。
バン、とテーブルを軽く叩けば、上にあったカップが跳ねた。中身のコーヒーが少し飛び散る。
「指がむくんだんだろうね」
慌てて笑いを引っ込めて、新羅はずり下がった眼鏡の位置を直す。焦った時の新羅の癖だ。
静雄をあまりからかうと、自分の身が危ない。長年の付き合いで、新羅は静雄の扱いは良く心得ていた。
「心配しなくても時間が経てば抜けるよ。浮腫はそう言うものだから」
「それまでこのままか」
静雄は珍しく酷く困った顔になった。指輪をしている左手を掲げ、それを見て大きく溜息を吐く。
「包帯でも巻いて隠すといいよ」
新羅はそう言って救急箱を持って来た。中には一般家庭に必要な治療用品がぎっしりと詰まっていて、そこから真新しい包帯を取り出す。
「しかしどうしたの?静雄が指輪をするなんて」
包帯を巻いてやりながら、新羅は首を傾げた。それも左手の薬指に、なんて。まるで恋人が出来て浮かれているみたいな所業だ。
静雄はそれには答えず、ただじっと新羅の手元を眺めていた。真っ白で清潔な布が、綺麗に薬指に巻かれて行く。
「臨也には言うなよ」
ボソリと静雄が呟いた言葉に、新羅はピタッと手を止める。
「なんで臨也?」
指輪と臨也に何か関係が?
新羅は不思議がるが、静雄はそれ以上余計な事は言わなかった。新羅も聞き返さない。
二人の間に小さな沈黙が落ちる。
まあ天敵にこんな間抜けな事を知られるのは嫌だろうけど。
新羅はそう考え、眼鏡の奥の目を細めた。
静雄と臨也の間に複雑な何かがあるのは分かっている。それがあの六年前の出来事からだと言うことも。新羅はあの時の事を未だに少し後悔しているのだ。
「終わり」
包帯を巻き終わり、新羅は手を離す。静雄はそれに低い声で礼を言った。
「臨也と言えばさあ」
救急箱を手早く片付けながら、新羅は口を開く。
「彼女が出来たみたいだよ」
新羅の言葉に静雄は包帯を巻かれた手を見下ろし、ふうん、と気のない返事をした。興味がなさそうに。
「気にならないの」
「『出来た』んじゃなくて『新しいのに変わった』んだろ」
「まあそうだけど…」
新羅は苦笑して肩を竦める。静雄の淡々とした態度に、少しだけ面食らいながら。もっと何かリアクションがあると思っていたのだけど、意外な反応だ
「臨也のことだから長続きしないだろうけどね」
新羅がそう言って笑うのに、静雄は何も言わない。ただじっと左手を見て、口を噤んでいた。指輪が隠された包帯を、じっと睨みつけるように。
新羅はそれに内心溜息を吐いて、もう臨也の話をすることはなかった。




(2010/12/01)

(2010/12/09)見れない方がいたので修正
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