「臨也」

名前を口にすれば、その声はいつもより低く響いた。
静雄は自身のその声に違和感を覚え、ごくんと唾を飲む。
臨也はそれに目を細め、コツコツと靴音を立てて部屋の中に入って来た。ふわり、と臨也のつけている香水の香りが漂う。窓を開けっ放しにしているせいかも知れない。
「どうしたの、こんなところで」
臨也が段々と近付いて来るのに、静雄は無意識に尻込みをする。部屋が薄暗く、表情が相手に見づらいことがせめてもの救いだった。
近付いて来た臨也の腕が伸びて来て、静雄はそれにびくりと体を震わせる。けれどその手は、後ろの窓をぱたりと閉めただけだった。
「…鍵」
臨也から一歩距離を取り、静雄はポケットからそれを取り出す。平静を装って発した声は、思いの外低くなった。
「鍵?」
静雄の言葉を反芻し、臨也が首を傾げる。
「鍵を返しに来た」
月明かりで光る銀色のそれを、静雄は臨也へと差し出す。夜風に当たっていたせいで、それはポケットの中にいたと言うのに冷たくなっていた。
臨也が手を出して受け取ろうとするのに、静雄は僅かに目を伏せる。
これを臨也に渡したら、帰ろう。そしてもう、二度とここには来ない。
スッと伸びた臨也の手は鍵ではなく、そのまま静雄の手を掴む。
予想外のその行動に、静雄の目が驚きで見開かれた。
「手が震えてる」
臨也は口端を吊り上げて笑い、掴んだ静雄の手から鍵を受け取った。
「そして冷たいね」
そしてその手はするりと離される。お互いの温もりを感じたのはほんの数秒だったろう。それでも静雄にはそれが火傷しそうなくらい熱く感じた。
「窓開けてたからな」
静雄はぽつりとそう呟き、自身の手を下ろす。まるで言い訳だな、と静雄は内心自嘲した。
自分は今まで、どうやって臨也に接してきたのだろう。臨也と同居する前の自分が思い出せなかった。八年間もどうやって。
静雄は臨也から離れ、そのまま踵を返す。早くこの部屋を出て行こう。ここはもう、自分がいて良い場所ではない。
「もう行くの」
そんな静雄の後ろ姿に、臨也が声をかける。
「用は済んだ」
「本当に?」
その言葉に、静雄は足を止めた。扉のノブに手をかけて、ゆっくりと振り返る。
「どう言う意味だ」
「俺に何か言いたいことがあるんじゃないの」
きつく、睨みつけるような静雄の視線を受け止めて、臨也は窓に背中を預けた。月光か、もしくはビルの明かりのせいか、臨也の綺麗な横顔がうっすらと照らし出されている。
「ねえよ、そんなもん」
静雄は即答し、臨也から目を逸らした。臨也から見える静雄の表情は、きっと薄暗くて見えない。それが本当に良かったと思う。
「そうかな?俺はシズちゃんのことなら何でも知ってるんだよ」
臨也はそう言って、また口角を吊り上げた。月明かりの中で、酷く端正な顔をした悪魔が笑う。
こんな言葉ははったりだ。
そう分かっているのに、臨也の言葉は呪縛みたいに静雄を縛った。動揺を悟られたくなくて、臨也を暫し睨みつける。
二人の間に沈黙が落ちた。
そうだ。
一つだけ聞こうと思っていたことがあった。
あの日。
こんな馬鹿げたことをやろうと決めた、あの日に。
知りたい、と臨也は口にした筈だ。自分が何故静雄を助けたのか知りたいと。
静雄もその答えが知りたい。
「臨也」
静雄はそれを口にする。
「あの時、何故俺を助けた」
この問いに、臨也はその赤い目を細めた。首を僅かに傾げて、ニィと人の悪い笑みを浮かべる。この男がこんな顔をする時は碌なことはない。
「恩を売りたかったから」
ああ、やっぱりだ。
こいつがマトモに答えるわけがない。聞くんじゃなかった。静雄は臨也の返答にウンザリとする。
小さく舌打ちをし、今度こそ部屋を出ようとした。
するといつの間に距離を縮めたのか、臨也が静雄の腕を掴む。驚いている間に強引に体を向き合わされた。
「まだ話しは終わってないよ」
数日ぶりに至近距離で見る臨也の顔は、やはり嫌になるくらい整っている。パチパチと何度か瞬きを繰り返し、静雄はまじまじとそんな臨也を見返した。
「何で恩を売りたかったと思う?」
臨也はその顔に笑顔を張り付かせている。
こいつはいつもこうだ。シニシズムを気取った、嘲笑うような表情を浮かべて、常に相手よりも余裕がある態度を崩さない。
いつもいつもいつも。
自分だけが動揺したり、焦燥したり、振り回されているのだ。自分だけが、八年間も。
「…知るかよ」
静雄はサングラスの奥の目で、精一杯臨也を睨みつける。今の自分にはもう、これぐらいしか出来ないから。
臨也はそんな静雄を見て軽く息を吐いた。掴んでいた静雄の腕をゆっくりと離す。
「俺にはずっとしたかった事があってね」
「…したかった事?」
眉を顰め、静雄は掴まれていた腕を無意識に摩った。臨也の温もりは、静雄には熱いくらいだ。
「一度、君の天敵以外のポジションになりたかったんだ」
臨也は自嘲するようにそう言って、ははっと笑い声を立てる。静雄はそれに目を見開き、ぽかんと臨也を見詰めた。
今、この男は何て言ったのだろう。天敵以外?誰が?何故?何のために。
意味が分からない。
混乱した様子の静雄を、臨也は楽しげに見詰める。そんな臨也の表情さえ、今の静雄には理解不能だった。
「同じ時間を過ごして、食べて、笑って。普通の友達みたいに」
臨也は尚も言葉を続け、静雄はますます混乱する。
「滑稽だろう?でも俺はシズちゃんとそんな風に過ごしてみたかった」
だから君を助けた時、これはチャンスだと思ったよ。
臨也は言葉を切り、窓から見える夜景に視線を移した。高層ビルの航空障害灯がチカチカと点滅し、淡い光りを放っている。まるで何かのシグナルみたいに。
「シズちゃんは俺には絶対借りを作りたくないだろうからね。多分何らかの形で返そうとすると思ったんだ。俺はそこに付け込んだわけさ」
ごめんね、とちっとも悪びれることなく、臨也は笑って見せた。けれど何だかその笑みは酷く寂しげで、静雄には文句を口にする事が出来ない。
「本当は言う気なかったんだけど、シズちゃんがそんな顔するから」
「…そんな顔、って」
どんなだよ。
静雄は努めて不機嫌な声を出した。部屋が薄暗いせいで、相手の表情を読み取るのは難しい筈なのに。
「怯えてる」
臨也の手が伸びて、再び静雄の腕を掴んだ。ぐいっと腰も引き寄せられて、静雄はびくりと体を震わせる。
「俺が怖い?」
吐息が触れ合う程の距離で、臨也の赤い双眸が探るように静雄を見上げて来る。こんな時、相手より背が高いのは不利だ。顔を伏せても相手にはまる見えだから。
「怖くなんか…」
ねえよ。と続く筈の語尾は小さく消えた。
臨也はそれに微かに笑い、掴んでいた腕を離した。瞳は優しく細められ、穏やかな表情をする。静雄はこんな臨也は初めて見る。
「でも俺を避けてる」
はっきりと言われ、静雄は何も言い返せない。実際その通りだったし、臨也なら気付いているとは思っていた。
「シズちゃんが俺に怯えるなんて、予想外でさ」
赤いその目はじぃっと静雄を見詰めている。
「怯えるより憤怒すると思っていたんだ。一ヶ月の魔法が解けたら、きっと君は俺を恨むと思っていた」
恨むなんて。
違う、
俺は。
静雄は臨也に視線を戻した。その赤い双眸に自分しか映っていないのに、くらりと眩暈がしそうだ。陶酔にも似た、つまらない優越感。
「…俺は、」
一ヶ月の魔法、と言った臨也は言い得て妙だった。確かに一ヶ月のあの間、自分は大人しく臨也に抱かれていたのだから。今だったなら、きっと殺し合いになっているだろう。

でもそれは、

「…俺は、お前と違って、好きでもない奴とセックスなんてできねえ」
口にして、僅かに頬が熱くなった。他人にセックス何て単語を口にしたのは初めてで、気恥ずかしい。
「今まで生きて来て一番最悪な気分だ。しつけえし、いつも人を見下ろしてるし、口は良く回るし、性格悪いし、本当にお前は最低な野郎なのに、俺は、」
静雄は顔を赤くして、一旦そこで言葉を切る。心臓がバクバクと音を立てていた。目の前が白く霞む。

「俺はお前が好きなんだ」

言葉は熱く、簡単に口から出て来た。
早鐘を打つ鼓動が煩くて、耳を塞いでしまいたい。
目の前の臨也の顔を見れなかった。
頬が熱すぎて、自分の手の平で顔を覆う。臨也はきっと馬鹿にするだろう。嘲笑うその顔を見る勇気は、静雄にはまだない。
だから、静雄はそのまま踵を返した。
部屋を出て、廊下を足早に歩き、玄関の扉に手を掛ける。
早くここから逃げ出したいのに、手が震えてノブが回しづらい。
やっと扉が開いたのと同時に、後ろから腕を引っ張られた。体をそのまま引き倒され、静雄は驚きで目を見開く。けれど衝撃は無く、背中から抱き留められただけだった。
「言い逃げするの?」
耳元に響く、少しだけ低い声。静雄はそれにズキンと心臓が痛む。
「しつこいだの、人を見下ろしてるだの、口が良く回るだの、性格悪いだの…色々言ってくれちゃって」
臨也の温もりが、背中からゆっくりと静雄に移ってゆく。温かい背中。
「挙げ句、俺が誰とでもセックスしてるみたいな言い方だ」
その声は少しだけ不機嫌で、静雄は臨也が怒っているのを知る。
「…本当のことだろ」
ちっ、と小さな舌打ちをして、静雄は俯く。項に臨也の前髪が当たるのが擽ったかった。
「シズちゃんを抱いたから?」
「……」
自分の体の前で組まれる細い腕を、静雄は眉を顰めて見下ろす。この腕を解いて逃げ出そうか。力は自分の方が上なのだから、きっと簡単にできるだろう。
「俺だって好きな奴しか抱かないよ」
耳に響く臨也の声。
静雄はそんな臨也の言葉に、ぴたりと思考を停止させた。
今、こいつは何て言ったのだろう。
この言葉はまるで、
まさか、
そんな静雄に、臨也はくすりと笑う。臨也の吐息が耳元を掠めるのに、静雄は肌が粟立った。
「シズちゃんは今頃気付いたみたいだけど、俺はもう高校の時からずっとなんだ。八年間もの間、ずっと自分の気持ちを否定し続けて来たよ。だって滑稽だろう?俺は殺したい程に憎かった筈の相手を、」

後に続く言葉は、低く囁かれるように耳に届いた。
静雄はそれに目を見開き、じっと腹で組まれた臨也の手を見る。白く華奢な指。鈍く光るシルバーリング。この手は八年間、自分にナイフを向けて来たのだ。
心臓がさっきよりも騒がしい。顔は耳まで熱くて、手は逆に指先が冷たくなってゆく。
静雄は振り向けなかった。
今の自分の真っ赤な顔を、臨也に見られたくない。目が合ったら、恥ずかしくて死にそうだ。
だから、抱き締めるかわりに体の力を抜いた。ゆっくりと臨也の体に背中を預け、薄く目を閉じる。
「…言うのおせえんだよ、馬鹿」
このいつも余裕そうな男が八年もの間、悩んでいたなんて。本当に、本当に馬鹿だ。
もし高校のあの頃に言われていても、自分はきっと、多分。
「シズちゃん」
臨也が後ろから静雄の手を掴み、何かを握らせた。薄暗い廊下で、静雄はその手触りに目を見開く。
「これ…」
それは、さっき返した筈の鍵だった。この部屋の鍵。
「実はこのマンション、買っちゃったんだ」
「は?」
静雄はぽかんとし、思わず後ろの臨也を振り返る。
臨也はそんな静雄に、さも楽しそうに口角を吊り上げて笑って見せた。
「無駄にしたくないから、また一緒に暮らしてくれる?」
人の悪そうな、いつもの嫌な笑い方。そんな臨也に、静雄はちっと舌打ちをする。その顔は暗闇でも分かるぐらい真っ赤だった。
「一ヶ月でいいのかよ」
臨也の顔がゆっくりと近付いて来て、静雄は瞼を閉じる。
「今度は一生だよ」
そう言って臨也は笑い、やがて唇が重なった。


(2010/11/29)
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -