冷静と情熱のあいだ


爪が欠けている。
ささくれた指先にピンク色の爪。
男にしては綺麗で細い指だった。この白い手が暴力の為に動くだなんて、きっと知らない人は夢にも思わないだろう。
新羅は眼鏡のレンズを拭きながら、机に突っ伏して眠る友人を見ていた。
もう今日の授業は全て終わっていて、教室には新羅と静雄しかいない。
最後の授業の終わり頃に静雄はボロボロの風袋でやってきて、席につくとそのまま熟睡してしまった。
どうやら朝からずっと良くない連中と喧嘩していたらしい。
昼食も食べてない、とぼそりと言っていた。
やれやれ。新羅は苦笑する。
この暴力を忌み嫌っている友人をこんな目に遭わせたであろう、もう一人の友人を思い浮かべて。
眼鏡をかけ直し、新羅は静雄の痛んだ金の髪に触れてみた。
意外にもそれはふわふわしていて、心地好いサラリとした手触りで驚く。
ふわり、とシャンプーの香りに混ざって、汗の匂いがした。
ふと視線を感じて顔をあげると、教室のガラス張りの廊下に、学ラン姿の男が立ってこちらを見ていた。
その口許は嗤っていたけれど、目だけは憎悪やら焦燥やら、色々な感情がごちゃまぜになったみたいな複雑な色をしていた。
新羅は静雄を起こさないように静かに立ち上がると、扉の方に歩み寄る。
その間にも臨也の視線は、机に突っ伏している静雄から離れなかった。
「ここは君は来るべき空間じゃないよ」
新羅は教室の扉に通せんぼするみたいに手をかける。
「珍しいことを言うね」
臨也の口許の笑みが更に深くなった。愉しんでいるのか不快なのか、どちらにも見える表情をして。
「僕は君の味方も静雄の味方もしない。でもね、今日だけは静雄側に立とう」
「へえ」
臨也の片眉が吊り上がる。
「静雄は今寝てる。休ませてあげたいから君は帰って」
新羅は臨也の眼差しに臆することなく告げた。
「俺がそれを聞くと思うの」
「臨也。僕は君のように静雄に複雑な感情は抱いていない。だからこそ言うよ。今日のはやり過ぎだ」
「……」
「その様子だと今日が何の日か分かっているみたいだね」
新羅が溜息混じりにそう言うと、臨也は肩を竦めた。
新羅はそんな臨也を目を細めて見、尚も言葉を続ける。
「僕は君なんかより静雄と付き合いは長い。金髪じゃない頃から知ってるからね。静雄が小さい頃、怪我をするたびお見舞いにも行った。今だってクラスメートで、登下校一緒だ。そんな付き合いも長くて君より側にいるけれど、静雄の心は君しか見ていない。どんな意味かは置いといてね。ほんの数ヶ月前に出会ったばかりの君に、僕や静雄の弟は負けてるんだよ。君はそれだけじゃ満足できないのかい?」
「なに、新羅はシズちゃんが好きなわけ?」
「僕はセルティしか見ていない。分かっているくせに」
新羅は苦笑した。苦笑するしかない、と言った方が正しいか。
「僕が言いたいのは、もっと素直になりなよってことさ」
「…なんのことか分からないけど」
「そう。とにかく今日はもう静雄に近付かないで」
新羅はここで初めてにっこりと微笑んだ。「少なくても今日は、君が静雄と一緒にいる権利はないよ」
「権利とか新羅が決めることじゃないだろうに。でも分かったよ。今日は新羅の顔を立てよう」
臨也は光りの加減で赤く見える目を三日月のように細めて笑う。第三者が見たら眉目秀麗で愛想が良い男に見えるだろう。
その赤い双眸で新羅から金髪の青年へと視線を移し、それ以上は何も言わずに廊下を去って行った。
…あんな眼差しで静雄を見て。バレバレだよ、臨也。
気付いていないのは本人とその対岸に立つ者だけじゃないだろうか。
新羅は少し臨也が不憫に思えた。彼の歪んだ性質に。
もう薄暗くなってきた教室から見える窓には、ビルの合間から夕陽が見えていた。
「うーん…いつ起こそうかな」
まだ眠る金色の青年を相手に一人呟く。まあ後1、2時間は大丈夫か。
新羅は静雄の無邪気な寝顔を見て笑う。

「誕生日おめでとう、静雄」

せめて今日だけは君をあの悪魔から守ってあげるよ。プレゼントはないけどね!




(2010/07/13)
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