「どうだった?静雄との共同生活は」
開口一番、中学からの同級生である闇医者は、臨也にこう聞いてきた。
臨也はその問いに答えず、ただ笑って紅茶を一口飲む。普段コーヒーしか飲まないこの友人は、たまに臨也に紅茶を淹れてくれる。わざわざ自分の為に葉を購入してくれているのだろう。こんな友人の好意に、新羅は結構友人思いなのだな、と臨也はいつも思っていた。
「楽しかったよ」
カップから上る紅茶の香りを楽しんでから、琥珀色の液体を口に含む。静雄ならこれに砂糖をたっぷり入れるのだろう。紅茶は甘くないと飲めない、と言っていたのを臨也は覚えていたから。そしてこんな風に無意識に静雄を思い出してしまう自分に、臨也は内心苦笑するのだ。
「静雄の怪我は問題なかったみたいだね」
「ああ」
そう言えば。
新羅に言われるまで忘れていた。彼は脇腹を刺されていたのだ。借金の取り立てで相手の女に刺されたらしいが、大方相手が女だから油断したか、情に流されたんだろう。静雄はいつも最後に甘いところがある。
抱く時に見た彼の体にはそんな痕はなかった。恐らくもう完治したに違いない。全く彼の驚異的治癒力には恐れ入る。それを静雄自身はとても嫌がっていることを、臨也は知っていたけれど。
「傷はなかったよ。さすがシズちゃんだ」
真っ白な静雄の裸体を思い出しながら、臨也はぼんやりとそう返事をする。一緒に体温や声や嬌態までも脳裏に甦り、臨也は僅かに目を細めた。
そんな臨也を見ながら、新羅は手にしていたコーヒーを一口飲む。それはもう大分温くなっていて、あまり美味しくはなかった。
「つまりは静雄の裸体を見たってことでいいのかな?」
新羅の問いの裏の意味に、臨也はあははと笑い声を上げる。
「否定はしないよ」
「あーあ…やっぱり」
大袈裟に肩を竦め、新羅は溜息を吐いた。けれどその表情は笑みを浮かべていて、面白がっているようにも見える。新羅はいつもこんな感じだ。
「まさかと思うけど強姦かい?」
「違うよ」
臨也と静雄の戦闘力の差は歴然。強姦なんて何か薬でも打たない限り不可能に近いだろう。最もその薬さえも相手に効くかどうか怪しい。
「静雄は生真面目だからなあ。君に抱かれて悶々としただろうね」
くるくると手にしたカップを回しながら、新羅は苦笑する。その笑いは静雄に対してか、はたまた臨也に対してのものなのか、臨也には判断がつかない。
「それでどうするの」
「何が」
「静雄の心を弄んで今後どうするの」
新羅の言葉には刺があり、臨也はそこで初めてこの旧友が怒っているのかも知れないと思った。
「さあねえ」
紅茶に映る自分の顔を見ながら、臨也は低い声で笑う。新羅にはそれが、自嘲しているかのように見えた。
「このまま諦めるの?」
「……」
新羅の問いには答えず、臨也はカップをテーブルへ置く。それはカシャンと軽い音を立てた。もう中身が少ないのだろう。
「諦められるなら、とっくにそうしてるさ」
ソファのひじ掛けに頬杖をつき、臨也はぼんやりと窓へと視線を移す。新羅の高層マンションから見える空は、あの家の風景と何も変わらない。
静雄が空を眺めるのが好きなのを、臨也は昔から知っていた。
高校の頃から、臨也は静雄が空を良く見上げているのを見ていたから。それは屋上でフェンス越しだったり、授業中の教室だったりした。だから臨也はマンションの部屋にはカーテンもブラインドも付けない。静雄が滅多に来ない、新宿の家さえもそうした。空を眺めるのが好きな、静雄の為に。
「どうも避けられてるみたいなんだよね」
暫くの沈黙の後、臨也がぽつんと呟く。新羅はそれに顔を上げた。
「静雄に?」
「そう」
臨也は青い空を眺めたまま目を細める。空は雲一つない晴天だ。インディアンサマー。
「まあ抱かれた相手とまた元通りに接するなんて無理があるんじゃない?」
まして同性だし、と新羅は肩を竦める。静雄は意外に繊細だから、と笑って。
「まあね」
臨也はそれに溜息混じりに答える。毎日池袋を徘徊しても、あの金髪を一度も見かけなかった。今までは池袋に行く度に嗅ぎ付かれていたのだから、一度も遭遇しないのは恐らく避けられていると見て間違いないだろう。
「良かったじゃない。自販機を投げられずに済んでさ」
新羅は苦笑し、カップをテーブルに置いた。臨也もそれに僅かに苦笑する。自販機を投げ付けられるだなんて非日常な行為は、もう臨也にはただの日常だ。
「願いが叶ってどうだった?」
新羅はぽつり、と臨也に問う。
一緒にいて、同じ時を過ごし、食べて、寝て、笑って。普通の友達だったなら当たり前にできたことを。
楽しかったかい?
嬉しかった?
だって君は高校の頃からそれを望んでいたんだろう?
平和島静雄の天敵以外の関係になりたかったんだろう?
新羅はまるで独り言のようにそう口にする。その声には少しだけ憐れみが含まれていた。
臨也はそれには答えず、ただじっと空を見ている。その赤い双眸は全く揺らいではいなかった。
空を見ているようで、違うものを見ているのかも知れない。
新羅はそう思ったけれど、それを口には出さなかった。ただ同じように、臨也が見ている空に視線を移す。

それは雲一つない小春日和だった。



ふうっと青空に向かって煙を吐くと、それは空にのぼる前に消えた。
12月になって池袋の街は更に賑やかだ。色とりどりのイルミネーションの明かり、街から聴こえるクリスマスソング。大人になった自分でさえ、クリスマスは少しワクワクとする。予定なんて何もないのだけれど。
静雄は先の短くなった煙草を揉み消して、玩んでいたZippoを仕舞った。カシャンとポケットで音がし、静雄はその音に眉を顰める。
ポケットの中には、返しそびれたあの部屋の鍵が入っていた。Zippoとぶつかって、音を立てたらしい。
静雄は鍵を取り出し、小さく舌打ちをする。返さなくてはと思いつつ、ずっとそれはポケットに入れっぱなしだ。
池袋で臨也を見かけたら投げ付けてやろうと持ち歩いているのに、臨也の気配がすると反射的に逃げてしまう。きっと臨也は避けられているのに気付いているだろう。静雄は自身の臆病さに反吐が出る。吐き気がするくらい、そんな自分が気持ち悪かった。
無かったことにするならば以前のように接しなくてはならない。ごみ箱を投げ付けて、自販機を持ち上げて、喧嘩を売っていたあの頃のように。
でもそれが、今の静雄には出来ない。
気付いてしまったから。
一緒に住んで、口づけられて、抱き締められて。自分は気付いてしまった。
きっと、多分、最初からだったんだろう。気付かなかっただけだ。いや、気付かない振りをしていたのかも知れない。ずっとずっと蓋をして、開けないようにしていた。こんな重くてどろどろした嫌な感情は早く捨ててしまいたい。でもそれは静雄を捉えて離れずに、ずっとついて回るのだ。どこに行っても、どこに逃げても。
静雄ははあっと溜息を吐いて、その鍵を握り締めた。
冷たい金属のそれが、手の中で徐々に温かくなってゆく。このままどんどん火傷するぐらい熱くなって、熔けてこれが無くなればいい。自分の感情と共に。
次に臨也を見掛けたら絶対に返そう。いつまでも持っているわけにはいかない。今の静雄にとって、これはまるで枷だった。これが重くて身動きが取れない。
この鍵の部屋は今どうなっているのだろう。ふと、静雄はあの部屋を思い出す。
池袋の繁華街を抜け、横断歩道を渡り、国道のずっと向こうにある高層マンション。家賃だけで静雄の給料の何倍もありそうな、あの部屋。
もうあの部屋は解約されたのだろうか。一ヶ月だけの賃貸なんて、そもそも出来るのか。
静雄はぼんやりと考えながら、繁華街へと歩き出す。今日はもう仕事も終わり、あとは帰宅するだけだ。
静雄の足は自然に、あのマンションへと向かって行った。



暗証番号は変わっていない。と、言うことはまだ入れるのだろう。
エレベーターが開き、広い通路へと足を踏み出す。目的の扉の前で立ち止まると、静雄はひとつ息を吐いた。
鍵を差し込み、ごくんと唾を飲む。ノブに手をかけると扉は簡単に開いた。
これは不法侵入と言うのだろうか。
鍵が変わっていないのだからまだ臨也の名義なのだろうが、それでも静雄にはもう入る権利はないのだ。きっといけないことなんだろう。
静雄は土足のまま中へと入る。中の空気は冷たく、靴音もやけに部屋に響いた。
リビングに足を進めると、窓から入り込む夕陽に一瞬目を細める。それは部屋の中を赤く染めていて、白い壁に静雄の大きな影が映っていた。
部屋の中は何もなかった。
家具も家電も何もかも、塵一つない。当たり前だろう、家主自体がもういないのだから。そこはまるで作り立ての家のように、木の匂いがする。
壁も床もこれからまた張替えられるのだろう。自分が開けた壁の穴も、補修されるに違いない。まるで最初からなかったように。
がらんと何もない部屋で、静雄は一人取り残されたような寂しさに襲われた。
たった一ヶ月しかいなかったこの部屋に、寂しいと思うなんて。
あの一ヶ月は現実だったのだろうか。ひょっとしたら夢だったのかも知れない。夢だったらどんなにいいだろう。
静雄は廊下を歩き、奥の部屋の扉を開けた。臨也の寝室だった部屋。
そこも他の部屋と同じく、何もなかった。虚しくて儚い、ただのがらんどう。臨也の匂いももうしない。
あの時、この部屋で、静雄は臨也に抱かれたのだ。
静雄はズキンと胸が痛むのを、気付かない振りをする。なんだか息が苦しい。ここはきっと、酸素が足りない。
大きな窓に近付いて、外に広がる空を見上げる。もう夕陽はどんどん傾いて、東の空は薄暗い。山のように大きな雲が、遠くの世界を覆っていた。
臨也は何故あの時、自分を抱いたのだろう。
いつもの気紛れなのだろうか。飼うだなんて言ったのも、一ヶ月間の同居も。
それともこれらは全て嫌がらせなのだろうか。もしそうならばそれは成功している。静雄はそれに苦しんでいるのだから。
窓を開ければ入り込む風が冷たくて、静雄は身を縮こませる。遠くの方までビルだらけの街。いつか自分はこの街を抜け出して、もっと遠くに行けるだろうか。いつか、近い未来に。
空は段々と暗くなり、そびえ立つビルの明かりが目立つ。もう太陽は完全に隠れ、主導権は夜が握っていた。夜空には薄っぺらにも見える月が浮かんでいる。
はあっと息を吐くとそれは白かった。窓は開けっ放しだし、夜になれば外は酷く冷える。静雄は自身の体が酷く冷えているのにやっと気付いた。途端にくしゅん、と小さなくしゃみが出てしまう。

「風邪をひくよ」

不意に後ろから声を掛けられ、静雄はびくりと体を強張らせた。
ああ、嫌だ。
聞きたくなかった。
こんな、思い出だらけのこの場所で、この声は聞きたくなかった。
ずきん、と胸がまた痛んだのを、静雄はハッキリと自覚する。

振り向けば部屋のドアに背中を預け、臨也が立っていた。




(2010/11/24)
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -