女が泣く。
いや、泣き喚くと言うのか。甲高い声でおんおんと、一際大きく泣いている。
静雄はそれを冷めた目で見下ろしていた。
隣では上司がしょうがねえなあ、と呟いて女を宥め始める。静雄はその後ろで眉を寄せ、ウンザリとしたように煙草の煙を吐き出した。
借金の取り立てをやってれば相手に泣かれることなんて多多ある。女だけではなく、自分の父親ぐらいの男に泣かれることだってあるのだ。大抵が泣き落としの為の嘘泣きだったが、静雄にはそれが鬱陶しくて仕方がない。同情で逃げられると思っているのだろうか。
静雄はふうっとまた煙を吐いた。少しでも苛々が治まればと吸い始めた煙草は、もう殆ど意味がない。気を落ち着かせるどころかただの惰性になっていて、今ではすっかりやめられなくなってしまった。
「静雄、行くぞ」
トムがやれやれと言った感じで歩き出す。頭を掻いて溜息を吐きながら。この人はいつも優しい。例え泣き落としだとしても女の涙は嫌なのかも知れなかった。
静雄はその後に続く。
ふと去り際に女を見ると、座り込んでいた女がちょうど立ち上がるところだった。涙に濡れた目が静雄の目と合う。憎悪と嫌悪と憤怒が混じり合ったきつい眼差し。そんな女の手にはナイフが握られている。
静雄はそれを見てめんどくせえ、と内心溜息を吐いた。



ぽた、と腹から血が流れ落ちるのに静雄は舌を打つ。
刺されたナイフは抜いたものの、抜いたことにより血が大量に出てしまった。全くついてない。
珍しく体にナイフが刺さり、少し動揺していた。力がなくなったのかと思い、試しに標識を抜けばそれは簡単に抜けた。つまり、力はなくなってはいないわけだ。過去にもボールペンが刺さったことがあるし、運が悪いだけなのだろうか。
上司に例の闇医者に行けと言われたものの、どうせ血はすぐに止まると思っていた。が、一向に血は止まらない。痛みがないのが厄介で、どれくらい今自分がやばいのか分からない。
気付けばワイシャツは血まみれで、洗濯をしてもこれは使い物にならないだろう。弟から貰った大切な服だってのに。
くらり、と眩暈がして静雄は廃ビルに壁に手をついた。出血のせいか、少し頭がくらくらする。これは早く旧友の所に行った方がいいかも知れない。こんなところを天敵なんかに見つかったら、

「やあ」

ああ、本当に間が悪い。
静雄は壁についた手を戻すと、うんざりと額に手を当てた。天を仰げばもう月が出ている。長い夜の始まり。
「珍しいね、シズちゃんが怪我をするなんて」
揶揄するような声。その声は弾んでいて、いやに楽しそうだ。
「何か用かよ」
静雄は地面に出来た血のシミを見ながら言う。振り返りたくなかった。あの嫌な笑みを見たら、怒りで出血が増える気がする。
「シズちゃんが刺されたって聞いてさ。まさかと思ったけれど」
コツコツと靴音が近付いて来るのを、静雄は黙って聞いていた。足音は、静雄の直ぐ後ろで止まる。
「本当だった」
静雄はそれに、ゆっくりと振り返った。
薄暗い路地裏に、真っ黒な色彩の男。瞳だけが血のように赤い。
臨也は眉目秀麗なその顔に綺麗な笑みを浮かべ、闇に紛れて立っていた。
「死ぬの?」
「さあ」
静雄は口端を歪めて見せ、地面の血のシミに視線を落とす。さっきよりも血は落ちていない。どうやら段々と傷口は塞がっているようだ。
「多分死なない」
「そう」
静雄の答えに満足したのか、臨也はさっきよりも笑顔を見せた。
「でも今なら俺はシズちゃんを殺せるね」
臨也はその赤い双眸を嬉しそうに細める。
「そうだな」
静雄は諦めたように溜息を吐き、廃ビルに背中を預けた。サングラスを外し、臨也の赤い目を見詰め返す。目の前の男が自分を殺したがっているなんて公然の事実だ。出来るなら自分がこの男を殺しかったけれど、今の状況じゃ無理だろう。
臨也は暫くそんな静雄を見詰めていたが、やがて静雄の血まみれの手を掴んだ。
「取り敢えず新羅に診て貰おうか」
静雄の体を支えるようにして、臨也は歩き出す。静雄はそれに驚いて臨也を見たが、臨也の端正な横顔は何も語らない。
「臨也…?」
「掴まって」
静雄の背中に腕を回し、臨也はその体を抱き抱えた。血が臨也の衣服をも汚してゆく。
臨也の腕に身を預け、静雄は少しずつ意識が遠退いて行った。安心したせいか、それとも出血のせいか、自身でも分からない。
「シズちゃん身長の割に軽いなあ」
遠くで臨也の声がする。静雄はそれに答えようと口を開く。けれど、それは声にならない。
「眠いの?」
耳に響く声は、何故か酷く優しい。
「寝ていいよ」
頭を撫でられて、強く抱き締められた。臨也の香水の香りがする。いい匂いだ。
静雄はそんなことを思いながら、いつの間にか意識を手放していた。




目を覚ますと暗い天井が見えた。
静かな部屋。大きなベッド。高級ホテルのように整えられた室内。クローゼットやサイドテーブルがあり、生活感が滲み出ている。
静雄はぼんやりと体を起こした。
上半身は裸で、刺された腹には真っ白な包帯が巻かれている。旧友の闇医者が巻いたのだろうか。こんなに綺麗に巻くのはそれしか考えられなかった。
しかしこの部屋は、旧友の家ではない。長年の付き合いからそれが分かる。例えば家具の趣味とか、家の匂いで。
ああ、そうだ。匂いだ。この家はあの男の匂いがする。香水とはまた違う。あの男自身の。
ここは新宿か。
静雄はそう結論を出し、立ち上がる。窓に近付いて外を見れば新宿の夜景。明け方なのだろうか、遠くの空が少しだけ明るい。カーテンもブラインドない大きな窓は、まるで夜景のポスターみたいだ。
何故、
何故殺さなかったのだろう。
窓枠に手をついて、静雄は空を見上げた。薄暗く、星が見えない空。静雄はこの空があまり好きではない。
臨也は何故殺さなかったのだろう。
臨也との殺し合いは高校の時からで、今年で八年だ。八年と言えば静雄の人生の三分の一。決して短いとは言えない年月。そんなに長くいがみ合って来て、こんな風に助けられたのは初めてだった。
そっと手の平で傷口を摩る。包帯なんて巻かれているけれど、きっと傷口はもう塞がりかけているんだろう。多分数日で傷口は跡形もなくなる筈だ。こんな体、大嫌いだ。
静雄は扉を開けて廊下に出た。足元にだけ明かりがついている。薄暗い廊下。
裸足で歩きながら、そう言えば臨也の家は土足だと聞いた気がする。裸足で歩くのは躊躇われたが、今は仕方がない。静雄はそのまま奥の扉を開けた。
中は仕事場らしい。棚は書類だらけで、机には複数のパソコンが並んでいる。そんな部屋の真ん中のソファに、家の主が丸まって寝ていた。
臨也、と呼ぼうとして、静雄は思い止まった。起こすのはまずいだろう。こんな時間なのだ。さすがに睡眠の邪魔はできない。
礼は後にして帰ろうかと思ったが、着る服がないことに気付いた。血まみれだったあのワイシャツは、きっともう使い物にならない。裸に包帯のこの格好では、いくらなんでも外には出れないだろう。
ぼんやりと思案しながら、静雄は臨也の寝顔を覗き込んだ。長い睫毛に白い肌。漆黒で真っ直ぐな髪の毛。随分と整った顔だ。憎たらしいくらいに。
その白い頬に触れようと手を伸ばし、静雄はピタリとその手を止めた。
何をしようとしているのだろう、自分は。
臨也の肌に触れてみたい、なんて。馬鹿げたことを。
自分の無意識の行動に戸惑いながら、静雄は手を下ろした。動揺で僅かに手が震え、心臓が嫌な鼓動をし始める。
そんな静雄の手を不意に、伸びてきた臨也の手が掴んだ。
「!」
静雄は驚いて思わず息を飲む。はっとして臨也を見れば、臨也の赤いそれと目が合う。
「起きたの」
臨也の声は寝起きのせいか掠れていた。
「…悪い、起こした」
ばつが悪くて、静雄は目を逸らす。掴まれた手を離そうとしたが、臨也のその手は離れない。
「首を締められるかと思った」
臨也はそう言って口端を吊り上げる。ジョークのつもりだろうが、静雄には笑えない。
「そんなことしねえよ」
「だね。シズちゃんはそんな卑怯な真似はしない」
からかっているのだろうか、臨也はこんなことを言って笑う。その赤い目は酷く楽しげだ。
「何でお前んちにいるんだよ」
静雄は取り敢えず、疑問を口にする。てっきり連れて行かれるのは新羅の家だと思っていたのに。
「ああ。血まみれのシズちゃんを連れて池袋を歩くと目立つからね。タクシーで俺んちまで連れて来ちゃった」
治療は新羅を呼び出してやらせた、と臨也は肩を竦める。その顔はいつもの笑みを浮かべていて、静雄には臨也の真意は分からない。
「何で助けた」
静雄は低い声で問う。臨也ならきっと、自分を殺すと思っていた。躊躇いもなく、あっさりと。
「何故かな」
新羅にも聞かれたよ、と言って臨也は唇を吊り上げる。
静かで広い部屋に、長い沈黙が落ちた。
窓から薄暗い光りが入り込む。もうすぐ朝がやって来るのだろう。一日の始まり。
「手前に貸しを作るのは気持ちわりぃ」
長い沈黙を破ったのは静雄の方だった。その声は低く、掠れてる。
「なんかあったら言え」
静雄はそう言って、金の髪を掻き上げる。
「何かって?」
臨也は首を傾げ、静雄を楽しそうに見た。
「して欲しいこととか」
静雄は不機嫌な顔でそっぽを向く。臨也はそれに、声を出して笑う。
「鶴の恩返しみたいだね」
「うるせえ」
「そうだなあ…」
臨也は考え込むようにして、天井を仰ぐ。芝居がかった態度だ。静雄にはそれがなんだか胡散臭く見えてしまう。

「一ヶ月だけ、俺に飼われてみない?」

臨也はそう言ってまた笑った。




(2010/11/12)
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