恋愛小説B







誰もいない図書室に、静雄が本をめくる音だけがする。それなりの厚さだったこの本も、もう直ぐラストシーンだ。
内容は陳腐で在り来りだったが、それなりに面白かったように思う。確かに女が好みそうな純愛小説だ。臨也なら間違いなく、馬鹿にする内容だろう。こんな嘘臭い恋愛小説なんて。
その時、ガラッと扉が開いて臨也がやって来た。仮にも図書室だと言うのに、ここの扉は音が煩い。
臨也は静雄を見ると僅かに驚いたようだ。扉を閉めて、ゆっくりと中に入って来る。
「来ないと思ってたよ」
唇を吊り上げて、そんなことを言う。昨日のあれのせいで、静雄が来ないのではないかと思っていたらしい。
「もう少しで終わりだろ」
静雄は言いながら本を閉じる。今日で片付けも終われる筈だ。本の山はあと二つしかない。1時間もかからないだろう。
臨也は肩を竦めて笑い、早速片付けを始めた。その余裕ある態度に、静雄はまた機嫌が下降するが、黙って同じく手を動かす。
本当は静雄だって来たくはなかった。昨日口づけられたせいで夜は眠れなかったし、感触だってまだ消えてくれない。丸一日経っていると言うのに、いやに記憶は鮮明だ。
けれど逃げたなんて思われるのは嫌だった。馬鹿馬鹿しい。何故自分が逃げなくてはならないのだろう。あんな…嫌がらせのせいで。
本を一冊ずつ所定の場所へ入れながら、静雄は思う。臨也の嫌がらせなんて今に始まったことではないし、相手は平気で笑顔で嘘をつく奴だ。いちいち気にしていたらこちらの心臓が持たない。
それでも静雄ははあっと溜息を吐いた。
まるで今読んでいる物語の主人公みたいだ。性別もシチュエーションも何かも違うけれど、この苦しい思いだけは同じ。
そう考えてウンザリする。恋愛だなんてクソ食らえだ。自身が女々しくて気持ち悪いったらない。

「愛してる」

突然の言葉に振り返れば、臨也が机に置いていた本を眺めていた。
「『愛してるんだ』」
「『僕の気持ちを受け取ってくれ』」
パラパラとラストの方をめくりながら、臨也が声を出して本を読む。
「恥ずかしい台詞の羅列だ。全く恋愛小説ってのは凄いね」
臨也はそう言って大袈裟に両手を広げる。芝居がかったその態度に、静雄はウンザリと舌打ちをした。
つかつかと歩み寄り、臨也の手から本を取り上げる。
「口に出すお前の方が恥ずかしいだろ。この厚顔無恥が」
パタンと音を立てて乱暴に本を閉じた。臨也の言葉に一瞬でも動揺した自分を、気付かれたくなかった。ひょっとしたら今の自分の顔は赤いかも知れないけれど。
「もうそこまで読んだんだね。殆どラストじゃないか」
臨也はそんな静雄の様子には何も言わず、口端を吊り上げる。栞を挟んでいるページを見たのだろう。さっきの臨也の台詞はネタバレみたいなものだ。静雄はまた舌打ちをする。
「それより整理は終わったのかよ」
「まあね。後はシズちゃんがやっている分で終わりだよ」
手伝おうか?と臨也は書棚を見上げた。静雄が整理している棚も後少しで埋まる。
「別にいい。終わったなら先帰れよ」
しっしっと手を振って、静雄は本を数冊抱えた。こいつに手伝われるよりは一人でやった方がマシだ。
「一人でやるより、二人のが早いよ。手渡すからシズちゃん梯子上りなよ」
そう言って臨也はさっさと静雄の手から本を奪い取る。その有無を言わせぬ態度に静雄は閉口したが、結局渋々と従った。臨也が強引なのはいつもの事だ。
臨也から本を一冊ずつ受け取り、それを書棚に入れて行きながら、そう言えばこの三日間殺し合いをしていない事に気付いた。
珍しく臨也からは何もして来ないし、静雄も喧嘩を吹っかけることはない。意識しているわけではなかったが何だか気持ちが悪い。大体こんな風に二人で何かをするなんて、酷く滑稽だ。
静雄はなるべく臨也を見ないようにして、本を受け取ってゆく。
「これで最後」
臨也がそう言って渡すのを手にし、静雄は書棚に最後の本を収めた。
終わったことでほっと安堵の息を吐く。もう図書室で臨也とやり合うのはやめよう。こんな後片付けは今後懲り懲りだ。
梯子から下りようと下を向くと、臨也の赤いそれと目が合った。臨也は前と同じような眼差しで、じっと静雄を見上げている。
静雄は不意に、昨日のキスを思い出した。柔らかな臨也の唇、伏せられた睫毛、熱い吐息。
臨也の香水の香りや、抱きしめられた温もりも。
臨也のそんな目を見ていられなくて、静雄は慌てて目を逸らす。カシャンと音を立てて、梯子から飛び降りた。
「これで終わりだろ」
さっさと臨也から離れようとする静雄の肩を、臨也の手が掴んだ。
「シズちゃん」
そのまま腕を取られ、強引に振り向かされる。今整理を終えたばかりの書棚に背中を押し付けられ、口づけられた。静雄の目が驚きで丸くなる。
唇から長い舌が侵入し、ぬるりと口腔内を舐めてゆく。唇を吸われ、舌を絡められて、静雄は徐々に力が抜けて行った。
「…んっ、」
息が苦しい。こんな時の息の仕方なんて静雄は知らない。ぎゅっときつく目を閉じて、静雄は後ろの書棚に手を掛けた。
静雄の力のせいで、それがミシリと音を立てる。けれどそんなことは今の静雄にはどうでも良かった。臨也の唇の感触と、煩い自身の心臓の音だけがやけにリアルだ。
やがて臨也の唇が離れ、抱き締められる。その腕はなんだか優しくて、静雄はそれに酷く狼狽した。
「いざ…、」
「好きだよ」
耳元に響く、臨也の声。びくんと静雄の体が震える。
「愛してる」
「僕の気持ちを受け取って」
どこかで聞いたそんな歯の浮く台詞を言って、臨也が静雄の顔を覗き込む。
「シズちゃんが読んでる恋愛小説みたいだろう?」
揶揄するようなその声に、静雄はかっとして臨也の体を押し退けた。
どうやらあの小説の台詞を言っただけらしい。好きだ、なんて言葉に動揺した自分に腹が立った。きっと今の自分の顔は赤い。
ああ、もう。一発殴ってやりたい。きっと避けられるだろうが怒りが治まらない。図書室を破壊する気はもうないが、湧き上がって来る怒りを抑えるのに眩暈がしそうだ。
臨也は口端を吊り上げて、そんな静雄から距離を取る。
「キスはちゃんと片付けをした俺へのご褒美ってことで」
「死ね」
この臨也の言葉に、静雄の怒りのメーターが振り切れた。静雄は思わず手を振り上げる。
それは案の定、あっさりと臨也に避けられた。書棚に当たりそうになる拳を、静雄は慌てて踏み止まる。
「また片付ける羽目になるよ」
あはは、と笑い声を上げて、臨也は図書室の外へと逃げ出して行く。
静雄は後を追わなかった。臨也の駆ける足音が遠ざかって行くのを聞きながら、忌ま忌ましげに舌を打つ。気持ちを落ち着かせる為に、ゆっくりと深呼吸をした。
唇をぐいっと手の甲で拭い、出しっぱなしだった本に視線を移す。読む気分ではなかったが、今日で返却しなければまずいだろう。あと数ページなのだし、読んで帰るしかない。
静雄はパラパラと本を開き、栞を挟んだページから読み始める。それは主人公が告白されるシーンで、臨也に言われた台詞があるページだ。
脳裏に臨也のあの声で再生され、静雄は思わず顔を赤らめる。内容なんてちっとも頭に入って来なかった。最悪だ。
静雄をここまで悩ませて動揺させるのが目的ならば、臨也の嫌がらせは見事に成功していると言える。本当に忌ま忌ましい。あんな男、早く死ねばいいのに。
最後まで読み終えて、静雄は本を閉じる。在り来りな恋愛小説だったが、悪くない話だった。
ふと窓から見える夕陽に視線を移し、静雄は唐突に気付く。
慌ててパラパラと本を開いて確認した。ラストシーンを何度も読み返す。
「…んだよ…これ…」
静雄は額を手で押さえ、顔を赤くして俯いた。
好きだよ、なんて。
そんな台詞、どこにもなかった。
じゃああの臨也の言葉は。
好きだよ、と言ったあれは。
静雄は机に突っ伏して、暫く動けなかった。顔が熱く、鼓動が早い。
「…ちゃんと言えよ…馬鹿野郎」
静雄のこの言葉は、誰もいない図書室に響いて消えた。


(2010/11/04)
×
- ナノ -